映画『アラバマ物語』 

 


 新型コロナウィルス感染がひろがっている。いまや感染の中心はヨーロッパだ。全世界で感染者は40万人。WHOはパンデミックを宣言し、ついでパンデミック加速中の警告を発した。高齢者は感染したら重症になりやすいということなので、私も用心して家にいる時間が増える。そんなわけで、テレビで映画を見た。『アラバマ物語』(ロバート・マリガン監督 1962年 アメリカ)だ。実はこの映画は何回か見ている。だが今回見てみて、いい映画だなあと思った。

 

 舞台は1930年代のアラバマ州の田舎町。父と小学生の息子と入学したばかりの妹という家族の物語だ。母は亡くなり、黒人のお手伝いさんがいる。いまはアフリカ系アメリカ人という言い方が定着しているが、この時代はまさに黒人に対する残酷な暴力がまかり通っていた。その頃の田舎町の出来事が、成人した娘のスカウトの思い出として語られていく。

 

 父親は田舎町の弁護士だ。子供たちは父親をアティカスと名前で呼ぶ。「なぜ、父さんと呼ばないの」と訊かれて、息子のジェムは「ずっとそう呼んでいる」と言っている。そんな開明的な家族なのだ。子供たちはまわりの森や田園を元気いっぱいに駆け回る。夜になればあたりは濃い闇に包まれ、不思議さと怖さがいっぱいだ。すぐ近所には全く姿を見せないブーという人が住んでいて、おどろおどろしい噂話も聞こえてくる。だがジェムとスカウトは、ブーを恐れつつも、親しみを感じてもいる。家の前の木のうろに、ブーは時折プレゼントを置いておいてくれるのだ。いつのものとも分からぬメダル、クレヨン、木彫りの人形、といったものだ。そんな子供ならではの不思議な体験は、私のなかにも懐かしい感情を呼び起こす。

 

 町のはずれには、黒人たちの住む貧しい住宅がならんでいる。黒人青年トムは、レイプの冤罪で裁判にかけられている。アティカスはその青年の弁護を引き受け、そのために白人たちから「黒人びいき」と目されて激しい攻撃を受ける。ジェムとスカウトは、アティカスに止められているにもかかわらず、好奇心いっぱいに警察署にも裁判所にも押しかけてじっと事の推移を見守る。トムは裁判のなりゆきに絶望して逃亡し射殺されてしまう。それでもなお差別主義者の白人たちは、憎しみをアティカスばかりか子供たちにまで向ける。子供たちが夜道で襲われ危機一髪に陥ったとき、彼らを救ったのは、それまで姿を見せたことのないブーだった。

 

 モノクロの画面でつづられていく子供時代の話に、胸が痛くなるような郷愁を誘われた。それはたぶん、私のいまの状況と無縁ではない。新型コロナウィルスの感染者や、それが引き起こした肺炎による死者が、日々うなぎ上りに増えていく。いつ自分の身辺にまで迫ってくるかも分からない。中国武漢でこの新型コロナウィルスが発生した昨年末から今年にかけては、多くの人が中国に冷笑の目を向けていたはずだ。武漢では突貫工事で病院が建てられたが、それは野戦病院さながらにベッドがずらりと並べられたバラックだった。だがそれとおなじ光景が、いまやヨーロッパ各国やアメリカに広がっている。これがアフリカに広がったら、間違いなくもっと多くの人命が日々失われていくのだろう。

 

 私たちは物質的な豊かさをどんどん増してきた。けれどいったんこの小さなウィルスにとりつかれ丸裸にされてみれば、自分たちの手ではマスクひとつ、つくれない状態に陥っていた。このパンデミックがおさまったとき、私たちが始めるべき暮らしとは、どんなものなのだろう。こんなときに、モノクロの1930年代を懐かしむのは無意味だ。だが私は、どこか根本を変えて、以前とは違うなごやかな暮らしを模索したいと思う。