江文也を巡る思い出  1.「ブンちゃんのパート」の謎

*その1
「ブンちゃんのパート」の謎


 昔のことを調べていると、時折奇跡のようなことが起きる。そこからうまく知りたい事にたどり着ける場合もあれば、またすぐ行き止まってしまうこともあるが。数年前にも面白いことがあった。


 江文也(こう・ぶんや)という台湾人の作曲家がいる。日中戦争が始まるころ日本で戦意高揚の歌「肉弾三銃士」の歌手でレコードデビューした。その後作曲家に転じてベルリンオリンピックと併行して開催された芸術競技大会で日本人ではただ一人、かの山田耕筰をも差し置いて4位に入賞。その後日本帝国陸軍への協力を余儀なくされて北京に渡り、敗戦後も北京にとどまったが、日本軍への協力を糾弾され不運のうちに病死した。
 江文也のことは、拙著「李香蘭の恋人ーーキネマと戦争」に上海で映画音楽の作曲をしていた彼のことを書いた。彼の生涯を追ってみたこともある。だがまだ気になることがたくさんあったので、あんな出来事にもぶつかったのだ。それらを書いてみたい。


 だいぶ前のことになるが、私は子どものころ習ったことがあるピアノをまた弾こうと思い始めた。
 ピアノの先生の家に、私たちは姉妹そろってかよったのだが、私だけがあまり興味を持てなかった。それが今頃になってまた弾いてみようと考えたのは、本心を言えば音楽以外の目的があるのだ。脳の衰えを予防するには指先を動かすのがいい、誤嚥を防ぐには喉の筋肉を鍛えるべく歌をうたうのがいい、などの言葉に誘われて、ならばピアノをと思いついたのだ。


 かといって、あまりバカでかい物は部屋に置きたくない。何しろあと何年生きられるだろうかと時折考えてしまう年齢にさしかかっているのだから。ではよく聞く電子ピアノというのはどうだろう。などといろいろ考えてみるが、いかんせん門外漢だから何を選ぶべきか見当もつかない。それで東京に住む妹の意見を聞いてみようと久しぶりに連絡してみた。妹は私と違ってどんどんピアノが上手くなり、音大を出てピアニストになった。だからこそだろうが、
「ピアノと電子ピアノはまったく別物だから、電子ピアノのことは分からない」と素っ気なくあしらわれた。
 けれども、私の上の姉に訊いてみようかとも言ってくれた。姉は子どものときから歌が上手かったが、いまでも合唱団に入っているという。彼女の息子が大学時代からしばらくバンドに熱中していて、電子楽器なども購入したことがあるはずだから、何か知っているだろうとのことだった。


 我が家では父が音楽好きだったせいで、いつもクラシック音楽が流れていた。父の書斎は頑丈な鉄筋火山灰コンクリート造りで、音量をかなり上げても家族にも周辺にも迷惑にはならない構造だった。父の音楽好きは、どうやら私の姉妹には引き継がれたが、私は埒外だったということになる。ちなみに、父の自慢でもあった火山灰コンクリートは、父の父親が、関東大震災後の東京の惨状を見たのをきっかけに熱心に研究して創り上げたものだ。祖父はこれを実験的に自宅の建造の一部に採用したり、これで庭に温室を作ったりした。これについては別の機会に書いてみたい。


 私たちが小さい頃には家に4オクターブの足踏み式のオルガンがあった。父はオルガンを弾きながら、周りに子どもたちを集めてうたわせるのが好きだった。私たちは姿勢を正し、精一杯声を張りあげたものだ。うたったのは、父が子どものころから馴染んでいた小学唱歌、それから「かやの木山」「椰子の実」「からたち」「浜辺の歌」というような日本歌曲、さらには日本でよくうたわれていた外国の民謡などだった。「オールド・ブラック・ジョー」「オー・スザンナ」「ローレライ」「野ばら」「サンタルチア」「オーソレミオ」などは英語・ドイツ語・イタリア語と原語で教えられた。子どもの記憶力とは不思議なもので、当時はまったく意味も分からずに聞き覚えたわけだが、その後は合唱などにまったく縁がなかった私でさえ、いまでもこれらは始めから終わりまで原語でうたえる。


 さて、電子ピアノの件だ。妹と話してからしばらくすると、妹からLINE電話がかかってきた。出てみると、ビデオ通話にしてくれと言うので画面を切り替えた。すると向こうには妹と姉が顔を並べている。姉の顔を見るのは本当に久しぶりだった。相変わらず奇麗に装っているが、やはり頬のあたりがたるみ始めている。たぶん姉も私を見て同じように感じていることだろう。私たち姉妹は、べつに仲が悪いわけではないが用事がなければ連絡はしない。年賀状その他、時候の挨拶などもまったくなしだ。もっともこれは私だけがそうで、他の姉妹や親戚同士は連絡を取り合っているのかも知れないが。


 姉は律儀な性格だから、息子から聞いてきた電子ピアノ情報をメモを見ながら教えてくれた。高校生の時最初に買ったキーボードは、バンドの練習のために持ち運びできる安価なものだったが、すぐに飽きてしまい行方知れずになった。だからああいうのは買わない方がいい。その後3回ぐらい自分であるいはバンド仲間と購入した経験から言うと、音質の点で満足いくのはやはりそれなりに高価だ。姉は、私にメモをするように促して、いくつかの商品名をあげた。それぞれの長所短所なども教えてくれた。姉が丁寧に私の質問に答えてくれたせいか、私たちは一気に和やかな気分になった。


 用件がすんでしまうと、姉のお喋りが始まった。そういえば姉の長電話は昔から有名だった。私が仕事で忙しかったころは、姉から電話が来ると話を打ち切るタイミングを見計らうのに苦労したものだ。あれからもう長い年月が過ぎ、インターネット電話で姉と話しているのも不思議な気分だ。こうして電話代を気にせず話せるようになって、会話の内容や雰囲気もずいぶん変わった気がする。まるで喫茶店でお茶を飲みながら話すような、気ままな会話を楽しめるようになった。


 姉は、私にこう尋ねた。
「それで、電子ピアノを買って何を弾くつもりなの?」
 私は一瞬言葉に詰まる。2人とも私の腕前は先刻承知なわけだが、初心者用の曲名など言いたくない。かと言って正直に脳トレだなどとも言いたくない。
「久しぶりだから、まず知っている歌ぐらいから始めようかな」と、これも偽りない答えだと思いながら私は言った。


 するといきなり姉がうたいだした。きれいなソプラノだった。
「♪ 歌に疲れ 文に倦みて たずさえ行くや 春の野」
 そこで姉の歌は止まってしまった。歌詞を忘れたらしく、その先をラララとメロディーだけうたう姉に合わせて、私が続きをうたった。
「♪ 小川の根芹 押し分け逃ぐる 小鮒の腹 白く光る」
 うたい終えると、画面の向こうから姉と妹の爆笑が響いた。そして2人は笑いをこらえながら口々にこう言った。
「ブンちゃん、相変わらずねえ。記憶力はいいけど、音程が・・・」
 2人はまだお腹をよじって笑い転げている。


「ブンちゃん」というのは、私の呼び名だ。小さい頃私は、自分のことを「ジブン」と言えずに「ブン」と言い、何かというと「ブンがする、ブンがやりたい」と自己主張したそうだ。それで「ブンちゃん」と呼ばれるようになった。


 さっき姉がうたったのは、タイトルは知らないが父に教えられた歌だ。こういう古びた歌詞の歌を父はいくつも教えてくれた。こういうのこそが、私たち姉妹にとっては父の思い出の歌なのかもしれない。思えばそのお陰で私は、台湾や旧満州日本語教育を受けさせられた人たちと、いくつもの歌を一緒に歌うことができて、喜ばれたり驚かれたりした。たとえば父や彼らの年代だと卒業式にうたったのは、こんな歌だ。
「♪ 年月廻りて早ここに 卒業証書を受くるべく なりつる君らの嬉しさは そもそも何にか例うべき」


 それはともあれ姉のようなソプラノの音程は、私には到底出せない。だから自分の音程でうたったつもりだが、どうやら調子外れだったのだ。姉と妹はひとしきり笑って笑いがおさまると、「♪ 歌に疲れ……」をごく自然な調子で見事にハモってうたいあげた。
 

 この日のようなLINE電話だと、タイムラグのせいであちらとこちらでハモることができないのは、私には幸いだった。お喋りをはさみながら2人は次々に思いつくままにうたった。私はこちらで、あちらには聞こえない程度の音量で口ずさみ、充分楽しかった。
 姉がまたうたいだした。
「♪ ザーアイン クナーブアイン レスラインシュテーン レスラインアウフデア ハイデン」
 ヴェルナーの野ばらだ。ドイツ語が少し間違っているが口を出さずに聞くだけにする。これは調子外れを恐れてのことではない。姉は何歳になってもやはり姉なのだ。年下の私に間違いを正されるとプライドに触るらしい。原因は忘れたが、びっくりするほど怒らせてしまった経験があるのだ。
 姉に合わせて低音のパートをうたった妹が、
「つぎはシューベルトだよね、ブンちゃん」と言った。


 シューベルトの「野ばら」は同じ歌詞でもう少しテンポが速い。それを私にうたえとでも言うのだろうか。
 妹はこう言葉を継いだ。
「ブンちゃん、お父さんに『ブンちゃんのパート』を仕込まれたでしょ」
 なんのことかと訊き返すと、妹はこんな説明をした。
 どうやら私の調子外れは、子どものときかららしい。どうやってもハモれない私を何とか仲間に入れようと、父は比較的単純でうたいやすいメロディがあると「ブンちゃんのパート」と名づけて私に教え込んだという。そうやって何とか私もハモれる歌がいくつかあり、シューベルトの「野ばら」はそのひとつなのだそうだ。
 なぜだろうか、私にはそんな記憶はまったくなかった。調子外れの自覚がないままに、得意満面で声を張りあげていたのだろうか。


 すると妹がシューベルトの「野ばら」をピアノで弾いてくれた。低音部の音量を大きくして私に分かりやすいようにしている。聞いているうちに、このメロディなら知っている、うたえる、という気がしてきた。思い出したメロディを口ずさむと、妹が小さい声でハモってくれる。タイムラグもうまく胡麻化してくれる。なんだかやっと子どものころ楽しくうたっていた気分がよみがえってきた。もしかすると妹は小さいときから、年長の私がうまくうたえないのを不審に思いつつ、脇からなにかと応援してくれていたのかも知れない。


「『ブンちゃんのパート』なんてあったけ? 私は知らないけど」と姉が言い出した。
 私自身が覚えていないのだから、無理もない。
 姉と妹はそれぞれ私より3,4歳年長と年少だ。子どもにとってはこの差は大きいから、経験も記憶も驚くほど違っていることがある。しかも私たちが育った戦後まもないころは社会の変化が激しかった。たとえば小学校入学時、姉は従姉に譲ってもらった布の手提げカバンで登校したという。私は神戸にいた祖母に茶色の皮のランドセルを送ってもらったが、クラスで皮のランドセルの子は2人しかいなかった。それが妹になると、父が東京で買ってきたピカピカの赤い皮のランドセルになった。
 そんな他愛ない話を私はしてみたが、姉は聞いてもいない様子で口をとがらせている。


「『ブンちゃんのパート』なんてヘンじゃない? 私たちには自分だけのパートなんてなかったのに」と姉はあからさまに不機嫌な顔をして言いつのる。
 妹は言いにくそうに口ごもりながら、
「だってブンちゃんがなかなかうまくうたえないから、お父さんだって助けたかったんでしょ」と言った。


 姉はなぜか昔から、何かと父の愛情を独り占めしたがる、と私は感じている。いつだったか忘れたが、もう私たちが立派に大人になりそれぞれが子どももいるような年頃だったのに、姉は皆の前で父に食って掛かった。
「お父さんはおかしい。なぜブンちゃんとばかり親しくするの?」
 父はあっけにとられた顔で、咄嗟にこう答えた。
「なんだって? 僕がブンちゃんと怪しい仲だと言うのか?」
 笑ってすませようとした父の思惑は外れ、姉は額に青筋を立てたままだった。姉は最初の子どもだったから、父がどれほど喜び可愛がったかは、母や叔母たちの語り草だった。だからこそ姉は父の関心を自分だけに集めておきたいのだろうか。


 なんだか気まずい雰囲気のままお開きにしようとすると、姉がこんなことをつぶやいた。
「『ブンちゃんのパート』はあったような気もするけど、あれはうちのブンちゃんじゃないのよ」
 また始まった、と私は心の中で思う。私こそが知っているという物言いも、長女の悪い癖だ。妹は何を思っているのかは分からないが、取り出していた楽譜などをしまい始めた。あ~あ、久しぶりに会ったのに、私たちはにこやかに別れることもできないのか、と私は心の中で嘆く。


 すると姉は、妹たちの心中など歯牙にもかけず、勝手に話題を変えた。
「お父さんは中学で、野球部に入りたかったんだって」
 相槌も打たずに姉が喋るにまかせていると、話はこんなふうに進んだ。父は入学後まもなく野球部の入部希望者の列に並んだ。父の順番になると、ボールを渡されて投げろと指示された。父がボールを投げると、上級生に「いらない」とあっさり言われて、父は列を離れた。入部はできなかった。
 私と妹はつい声をたてて笑う。そうだよね、お父さんは運動神経は鈍かったもの、と。「それで合唱部に入ったの」と姉は話し続ける。
 妹は聞いたことがあると言ったが、私は初めて聞く話だった。


「お父さんは中学に入ると、お祖父ちゃんからドイツ語を習い始めたの」と姉の話題はまた気ままに変わる。これも私は聞いたことがない。だが、祖父は19歳で金沢医専で医師免許を取った神童だったそうだから、あり得る話だ。
「あ、そうなの? お父さんとお祖父ちゃんが勉強のためにドイツ語で文通してた手紙は見たことがあるけど」と妹はお菓子をつまみながらお喋りにくわわる。
「お父さん『冬の旅』が好きだったよね。あれは全曲空でうたえたんじゃない?」と妹。
 父がフィッシャー=ディスカウの「冬の旅」のレコードをかけ、それに合わせて口ずさむのは私もよく見かけた気がする。


「ああそうだ。ブンちゃんというのは、『冬の旅』を一緒にうたった友だちじゃなかったかしら?」と姉が言う。
「私は知らないけど、その人はなんでブンちゃんなの?」と妹。
「だってお父さんは、カンちゃんじゃない」と姉が言うと、画面の向こうの2人と私はそろって爆笑した。
 父は小学校のとき、皆が我先に先生の質問に答えようと「先生!」と叫びながら手を挙げるなかで、「母ちゃん!」と叫んでしまったのだそうだ。それ以来父の呼び名は「カアちゃん」になり、後に訛って「カンちゃん」になった。


「カンちゃんとブンちゃんは仲がよかったんでしょ、きっと。でもブンちゃんは英語がペラペラだったんだって。だから英語やドイツ語の歌もうまかったんじゃない?」と姉。
「そう言えば、お母さんだってエスペラント語を最初に教わったのは、女学校の先生からなんでしょ?」と妹。
「そうよ、あのころの方がもしかするといまより国際的だったのかもね」と姉。
 2人の話はあちこちに飛んでとめどない。
 私はこっそり退席した。あの調子だといつの間にか私がいなくなっても2人とも気にも留めないだろう。


 ところがしばらくして、私は姉妹の話に最後までつきあわなかったことを後悔するはめになった。というのも、あの時話題になった「ブンちゃん」は、もしかすると「ピンちゃん」ではないかと突然思いついたからだ。「ピンちゃん」は、冒頭で書いた江文也の子ども時代の呼び名だ。
 江文也は幼名が江文彬(ジャン・ウェンピン)、台湾では阿彬(アピン)と呼ばれ、これは日本語だと「ピンちゃん」なので、そう呼ばれたという。江文也本人も、日記にこの呼び名を書き残している。


 江文也は台湾で生まれ、小学校時代を厦門(アモイ)で、中学時代を長野県上田市で過ごした。厦門で貿易商をやっていた父親が、江文也と兄の2人を上田に送り出したのだ。そのころ母親を亡くしたせいもあったが、当時の植民地統治下の台湾人は、裕福な子弟は中学から日本内地に留学する例が少なくなかった。台湾では教育の場でも台湾人は不平等に扱われ、望む勉学を続けるのは難しかったからだ。
 そのうえ実は江文也と私の父は偶然にも1910年生まれの同い年。しかも同じ上田中学で学んだ。ただし学年は江文也が1年下だった。厦門の小学校では台湾に準じた日本教育が行われたが、それでも日本語力が不足していたのだろう。江文也は尋常小学校6年に編入してから中学に進んだ。中学生の年頃だと学年が違えば接触はないだろうとの先入観で、江文也を想像するとき父の思い出話が参考になるという程度にしか私の考えは及ばなかった。けれどもあの日姉から初めて聞いたのだが、父が合唱部にいたとすれば、そこで江文也と知り合った可能性は大いにある。
 カンちゃんが一緒にうたったブンちゃんは、もしかするとピンちゃん、つまり江文也ではないか。そう考えると私は居ても立ってもいられなくなった。
 親元から遠く離れた15歳と13歳の台湾人兄弟が、見も知らぬ日本の田舎町でどのように暮らしたか。詳細はもう分らないだろうと諦めていたが、何か手掛かりがみつかるかも知れない。


 姉にもう少し詳しく訊こうと思い、電話をしてみた。
「カンちゃんの歌仲間のブンちゃんのことだけど」と私は単刀直入に切り出した。
 姉は、そんな話はもう忘れたというふうに一瞬沈黙したが、朗らかな声でこう言った。
「おかしかったわね、お父さんがSPレコードをかついで下宿を逃げ出す話」
 私には何のことかまったく分からない。私がそっとLINE電話から離れたあとに出た話題なのだろう。
 私は姉に、父と同い年の台湾人・江文也という人が、同じ上田中学で学んでいたいきさつを、なるべく分かりやすく簡潔に話そうと努力した。けれど姉はほとんど関心を示さなかった。姉は実は台湾・台北の生まれだ。けれど、大半の戦前に台湾在住経験のある日本人のように、あの時代の台湾人や自分が離れた後の台湾にはほとんど興味がない。


 仕方ない、話を聞くのはまたの機会にしよう、と諦めて電話を切ろうとすると、姉がこう言った。
「きょうはこれから、絵のクラスなの」
 姉は油絵を描いているのだ。絵や歌や陶芸で日々の時間を埋めているようだ。だが出かける前に電話をしてしまったなら、間が悪かっただけとも思える。
「そう、いってらっしゃい」と私は応じた。
「そのあと珍しくヤスコちゃんとお茶するの」と姉は言う。
 ヤスコちゃんは従姉で、年齢が近い姉はつきあいがあるようだが、私はかなり前に一度会っただけだ。その時は別件の調べ物で昔の写真を見せてもらいに家を訪ねた。ヤスコちゃんの母親は父の姉で、長女だったせいかマメな性格のせいか古い写真をたくさん保存していた。一人っ子のヤスコちゃんは全部そっくり引き継いでいた。
「そう、ヤスコちゃんによろしく。また昔の写真を見せてもらおうかな。写真は捨てないで、いらなくなったら私に頂戴と言っておいて」
 最後の方は、なるべく冗談めかして言った。私たちは皆そろそろ持物を整理しなければならない年齢に差し掛かっている。
 姉も、冗談ぽくこんなことを言った。
「ヤスコちゃんが、もしもブンちゃんのことを覚えていたら、そう伝えておくわよ」
 けれどこの最後のやりとりが、また意外な展開につながるとは、このときは思いもしなかった。