軽い脳梗塞 その後ーー1

軽い脳梗塞 その後ーー1

クラウンデンス症候群?

 モトさんは今年の4月7日から5月1日まで、25日間小諸医療センターに入院した。軽い脳梗塞、との診断だった。受診したきっかけは、前日の4月6日に行っていたデイサービスの施設「みんなの家タブノキ」から電話が来て、「モトさんの歩き方がおかしい。歩き始めてすぐへたり込むように座ってしまうのもヘンだ。病院に行った方がいい」と言われたことだ。後に知ったことだが、モトさんの歩き方がおかしいと言い出したのは、近所に住むボランティアの高齢女性だったそうだ。遊びがてらタブノキに来て、炊事や掃除を手伝っているのだという。施設でいろんな人に接するのは、こんなふうに利点が多いと思う。
 7日朝、小諸医療センターに行きMRIを撮った結果、軽い脳梗塞と言われて、即入院を決めた。その後の経過は前記「老老対話」に書いた。


 退院にあたって医師からの注意が伝えられた。モトさんが車椅子を利用するようになったこと、入浴などは必ず介助が必要なこと等々の理由で、病院側は施設が受け入れるなら退院許可を出す、とのことだった。施設側の意向を確かめると、居住施設の「ひまわり」も、デイサービスの「タブノキ」も、モトさんに早く戻ってきて欲しいと言ってくれた。有難いことだ。両者とも「病院にいると脚力が衰えるから、早く施設に移った方がいい」という意向だった。


 退院当日はさまざまな手続きを終えて、11時には荷物や薬もろともモトさんと私は医療センターを退出した。退院担当の看護師からも、そのまま「ひまわり」に行って昼食をとる予定になっていると言われていた。だが私は独断で「ひまわり」に電話して、昼食はいらないと告げ、自宅に向かった。モトさんと二人で退院祝いをしたかったのだ。
 レストランに行くのは無理だから、自宅近くにある韓国料理のテイクアウトの店に、前日予約が必要な季節限定の花見弁当を注文しておいた。ここは韓国料理のチェーン店でメニュー開発をしていたという女性が退職後開いた店だ。小さい民家で、台所の横の窓から料理を売ってくれるささやかな店だが、プロ意識は高くていつもきちんとした身じまいで、ほかほかの出来立てを手渡してくれる。よく利用するから私たちの好みも知っていて辛さにも配慮してくれる。何と言っても安くて美味しい。この日はべつにモトさんの退院のことなど話していなかったが、もち米と2種類の豆で作ったデザート、それにスープをおまけにつけてくれた。


 いま振り返れば、あれはたった4か月前のことだが、モトさんも私も元気だった。モトさんは、入院のせいで脚力が落ちていたとはいえ、我が家の草木の茂る庭を石ころや草花を避けながら歩いて、居間にたどりついたのだから。
 しんと静かな場所は、久しぶりのことだった。こうしてモトさんと二人で食卓につくのも久しぶりだ。モトさんは食欲も結構盛んで、花見弁当もまずまず平らげ、食後の果物もおいしそうに食べた。


 施設での生活が始まると、私は時間を見てはモトさんに会いに行った。幸いどちらの施設も、今どき珍しいことだが面会時間の制限などない。だから私は時間を作っては「こんにちは」と気軽に訪ねることができた。なぜ頻繁にモトさんに会いに行ったかと言えば、モトさんが歩けなくなるのを防ぎたかったのだ。だから、忙しそうなスタッフの邪魔にならないよう、モトさんを連れ出しては腕を組んで、ちょっとでも一緒に歩こうとモトさんを励ました。


 ところが、モトさんのようすが次第におかしくなっていった。歩き方も杖をついてやっと歩くというふうだ。なによりもヘンだと思ったのは、首がだらんと前に傾き、下ばかり向いていて前を見ることができないことだ。「顔をあげてごらん」と言うと、「首が痛くてあげられない」と言う。これがひどくなるようなら何とかしないと、と施設の人たちと話し合っていたところ、とうとう動くのは困難という状態になってしまった。


 5月17日、日曜日。退院後16日しかたっていないので、入院していた小諸医療センターに電話をした。救急外来に電話がつながり、症状の説明を求められた。ところが結局、モトさんを連れていくのは断られてしまった。理由は、「今日は救急外来が停電なので、来てもらってもMRIが撮れない」ということだった。同じ市内にいる私たちのところは停電などしていなかったから、この点はいまだに謎なのだが。


 それで救急車を呼んだ。私はモトさんと一緒に乗り込み、救急隊員にあまり遠くの病院にならないようにしてくれと頼んだ。結局2回目の連絡先だった佐久医療センターの救急外来が、受け入れると返事をくれた。ここは以前にもモトさんが泌尿器科に通院したことがあるので、馴染みがある点では助かった。それにここなら私も自宅から車で行くのが、それほど大変ではない。


 救急外来のせわしない診察室で、担架で運ぼ込まれたモトさんはそのままベッドに移され、さまざまな検査を受けていた。病名はクラウンデンス症候群ではないか、とのことだった。首の痛みがひどいし、立つと体が右に傾いてしまうので、そのまま入院することになった。
 だが、ここで思わぬことが起きた。首のMRIを撮ったときに偶然胸部大動脈瘤がみつかったのだ。大きさは60mm。いつ破裂してもおかしくない状態で、もし破裂した場合は即絶命、と医師から伝えられた。伝えられた場所は、救急外来の待合場所。せわしなく行き来する人がいて、具合悪そうに待合所の椅子に横たわっている人もいて、かと思えばスポーツ合宿か何かの最中にケガをしたらしい外国人少女3人組がうるさくおしゃべりをしていた。


 私は疲れがひどいせいか現実感が湧かず、だからあまりショックも受けなかった。モトさんに割り当てられた病室を見て、モトさんの携帯電話などを預け、モトさんが運び込まれるのを見届けて家路についた。
 行くときは救急車だったから、車がない。最寄りの小海線の駅に向かうと、電車は1時間に1本くらいしかないはずなのだが、このときは偶然にも駅に着くとすぐに電車が来た。ただぼんやりと外を見ていた。下りるのが終着駅だったのは幸いだった。気づいたら空っぽの電車に一人だけ座っていたので、電車を降り、帰宅した。


 この時の入院は1週間だった。私は数回モトさんを見舞い、病室から連れ出して窓の外の景色を見ながらお茶を飲んだ。私が住む町は浅間山麓の南斜面にへばりついた坂ばかりの場所で、山が間近に迫っている。佐久医療センターは隣町にあるのだが、佐久平といわれる平らな場所だ。病院の敷地も平らで、芝生と大木の木立の間をジョギングする人も見られる。せめて緑溢れる周囲の景観を楽しませたいのだが、モトさんは首の痛みやさまざまな不調で、なかなかそんな気分にはなれないようだった。


 1週間後、モトさんの首の垂れ下がり具合も、痛みも、体の傾きも、大して改善したとは思えない状態だったが、退院させられた。救急外来に運び込まれた理由はほぼ治療を終えたから、あとは通院診療に切り替えるとのことだ。モトさんは自力歩行は出来ない状態だったから、私が車で連れて帰るなどもってのほかというのが病院の見解だった。それで、病院が手配してくれた介護タクシーで「ひまわり」に退院した。

 

地球温暖化  朝顔  いろんな変化が、、、

地球温暖化  朝顔  いろんな変化が、、、

 

 小諸に住むようになってから10年以上経った。住み始めて間もなく、家の周りの垣根に朝顔の種を蒔いた。昨今よく見かける西洋種の大きい花のではない。昔ながらの小ぶりな花のものだ。これは、とくに選んだわけではないが、散歩の途中で藪にからまって咲いていたのが種になったときに、幾つか頂戴してポケットに入れ持ち帰ったものだ。


 それからというもの、無精者でほったらかしの我が庭だが、朝顔は毎年忘れずに芽を出して、垣根にからんで色とりどりの花をつけた。私だけでなく通りすがりの人たちも花を楽しんだ。ちなみに朝顔は夏の花の印象が強いが秋の季語だ。なるほど、肌寒くなる頃まで花が楽しめたのを思い出す。


 異変が起きたのは昨年、2025年のことだ。
 思えばその前年あたりから暑さが厳しくなった。それで我が家でもついにクーラーを1台設置したのが昨年の春だ。それまでは、明け方に窓を開けて涼しい外気を取り込み、暑くなる前に窓をぴったり閉めれば、夕方まで汗もかかずに屋内で過ごせたものだが。


 それで朝顔のようすに戻ろう。
 暑くなり始めたとはいえ、昨年はそれまでとほとんど変わらずに発芽し、成長し、垣根に絡まってきれいな花をたくさんつけた。だが目立った異変はその後に起きた。秋を過ぎても気温の高い日が続いたのだろう。いつもなら朝顔が種をつけるころには、私は朝顔のことを忘れてしまう。ところが昨年は、落ちた種がすぐに発芽し始めたのだ。それが育って花をつけるころは寒くなってしまう。だから私は急いでまだ落ちないでいる種を集めた。それを来春に自分で蒔けばよい、と考えたからだ。


 けれど、生来の無精者は、そんな簡単なことにも無精をする。家にはどこかから集めてきたのに蒔くのを忘れてしまっている種が、いくつもある。それで私は朝顔の種を蒔くのを忘れることを恐れ、それに朝顔自身がいつもの習性を守ってくれることを願い、もう発芽しそうもない寒さになった頃、垣根に沿って種をばら蒔いたのだ。


 さて今年の初夏。結果的に私の種ばら蒔き作戦はなぜか不成功。垣根沿いの朝顔の発芽はほぼ皆無だった。自分の無精のせいなのだが残念でたまらなかった。ところが今年は、無精者の私にしては珍しく、春の草刈りに精を出した。
 ヤエムグラという草がある。私は数年前まで、この草の名前を「勲章草」と思っていた。子供のころ草をちぎってぺたんと胸のあたりにくっつけると、そのまま落ちない。それでこの名を教わった。ところが本当の名前がヤエムグラと知ってから、私はにわかにこの草が嫌いになった。「ヤエムグラ茂れる宿の寂しさに、、、」とかいう百人一首にある歌が頭に浮かんだ。え? これがあのヤエムグラ? 何が茂れる宿の寂しさだよ。なんだか我が家がバカにされたような気がしたのだ。


 それはともかく、ヤエムグラ退治は、思わぬ発見をいくつももたらした。地面にはそれはそれはたくさんの命があり、さまざまな痕跡がある。そのひとつが、雑草に交じってあちこちに出ている朝顔の芽だった。みつけるたびに、私はその小さい苗をスコップで掘り起こし、垣根のそばや、ツルを巻けそうな木の近くに植え替えた。


 我が家の垣根は、南側は普通の道路に面していて、南西側はなぜか三角形の小さい空き地に面し、北側は草原と隣家の私道とその向こうの畑地に面している。そのあちこちに、私は朝顔の小さい苗を移植した。咲くであろう花を想像すると、鼻歌が出そうな楽しい作業だった。
 ある日のこと、北側の畑地のそばで、畑仕事ついでに立ち話しているご近所さんの会話が耳に入った。最近妙な動物が出没しているらしい、というような話だ。ハクビシンやキツネや鹿は、いままでもこのあたりに跋扈している。だが最近べつの動物が来ているようだ。なぜなら、ほら、この草地にぼこぼこと穴があいている。


「それ。動物じゃなく、私です」と、私が声をあげた。
 事情を話すと大笑いになった。
 スコップで小さい朝顔の苗を運び、垣根のそばに植えて、急ぎ如雨露で水をやる。それで私は、苗を掘り起こした穴を埋めることなど、思いつきもしなかったのだ。


 そんな努力のせいで、垣根の朝顔、居間のすぐ前の下手くそな棚に巻きついた朝顔は、何とか花をつけ始めた。
 だが酷暑の影響は明らかだ。居間の前や、私にみつけられずに草地で育った朝顔は例年のようなきれいな花をつける。だが南側のアスファルトの道路に面した垣根の朝顔は、これまでにはなかったことだが、朝8時にはもう暑さでしぼみ始める。


 もうひとつ、これも酷暑の影響だろうと思うのだが。
 朝顔の葉が巨大になっている。従来の大きさの4倍はあるのではないか。。私の掌の2倍はゆうに超えている。
 朝顔だけではない。桑の葉もそうだし、身辺のありふれた草花の葉でも、巨大になっているのが目につく。なんだか空恐ろしい。自然界の変化がゾワゾワと進んでいる。

老老対話 その7   「じゃあ、空を飛んでいるわけだ」

 

「じゃあ、空を飛んでいるわけだ」

 

 映画を見に行った。「済州島四・三事件ハラン」(ハ・ミョンミ監督/脚本)だ。四・三事件をそれほど詳しく知っているわけではないが、この作品は見たいと思っていた。ハン・ガンの『別れを告げない』を読んだせいかもしれない。これを読んだときは四・三事件のことはほとんど知らなかった。だが主人公の友人の高齢の母親がこの事件を辛くも生き延びた人で、その体験がうっすらと何十年ものちの娘の生き方にまで浸みわたっているのが私の心に沁みた。長編を、こんなに勢い込んで読み進めたのは近年にないことだった。

 

 それで、映画「済州島四・三事件ハラン」もタイトル以外はほとんど知らないまま見に行ったのだが、これもまた異空間に没入させてくれる見事な作品だった。

 四・三事件では、7年にもわたり国家権力によって3万人もの島民が虐殺されていったという。この映画では、家族を次々に殺された海女の母親と6歳の娘が、村から山へ、山から海へと逃げまどうありさまが描かれている。それでいながら、国家暴力の残忍さ、家族や村人たちの思いがうまく語られている。風景は美しく、人々は日々を懸命に生きていて、終始息を抜けない緊張感がみなぎる秀作だ。画面に惹きつけられつつ私の胸中を頻りに去来したのは、自分の過去の断片だった。これほどの厳しい状況に立たされたことはないが、それでも共感するシーンが随所にあったのだと、観終わってから思った。ハン・ガンの小説も、この映画も、苛酷な歴史を自分たちの物語に仕立て上げていて、韓国の文化の底力を感じさせる。

 

 映画の感動に浸ったまま昼食をすませてモトさんの見舞いに向かう。今日の様子次第では、モトさんにどんな薬が処方されているのかを詳しく問いただしたい、と思っていた。
 今日はなぜかスタッフが少ない。病棟全体が閑散としている。ナースステーションにいるスタッフに挨拶しても、忙しいのか返事もしてくれない。気晴らしに面会室に行き景色を眺めながらお茶でも飲もうと、モトさんをベッドから立たせていると、若い看護師に叱られてしまった。
「歩かせて転んだらどうする!車椅子で行ってください」という。
「昨日は歩いて行ったんです」と私は言ったが、看護師は頑として車椅子に乗せろという態度だ。

 

 車椅子を押して面会室に向かう。すると廊下の向うから看護師がにこやかに
「〇〇さん」とモトさんに声をかけてくれた。
 その看護師はモトさんに自分の名札を見せながら、集中病棟で担当だった看護師だと名乗った。だがモトさんは、
「覚えていないなあ、すみません」と苦笑いした。
 この苦笑いは、私にだけ見せる表情かもしれない。モトさんの複雑な心情が読み取れる。モトさんはたびたび、自分はどこも悪くないと自己主張する。認知症だから分からないだろうと決めつけて接する人には、それが「怒り」と映る。だが私には、モトさんの自己主張の裏にある自己認識が読み取れる。次第に忘れることや出来ないことが増えている自覚は、モトさんにはきちんとあるのだ。

 

 明るい声でモトさんの名前を呼んでくれた看護師がいること、モトさんがいつも通りの反応をしたことで、私はホッとした。それでその看護師に訊いてみた。
「投薬中の薬について訊きたいのだが、誰に訊くのが適切なのでしょう?」と。
「この病棟の看護師ならカルテを見られるから、誰でも答えてくれますよ」とその看護師はあっさりと答えた。
 そううまくはいかないのだが、と思いつつ、彼女に礼を言って別れた。

 

 モトさんもにこやかに声をかけてもらっただけで、気分がほぐれたらしい。
 窓から景色を眺めて、モトさんはいつも同じことを訊く。
「あの、まっすぐ前に見える屋敷の庭みたいなのは、どこだろう?」
「その右の奥の方の、こんもりした木立は何だろう?」
「その向こうの、赤と白のだんだらの高い棒は何だろう?」
 それにいちいち同じ答えを、私はする。

 

 お茶を飲んでいるとモトさんがふと、
「で、キミはいまどこにいるの?」と訊いた。
「病院にいるんじゃない」と私。
「そうじゃなくて、ここにいない時はどこにいるの?」
「家にいるのよ」
「どこの家?」

 

 そう言われれば、私はいくつも引っ越しをしたなあ。モトさんが知っている住処だけでも五つぐらいになるだろうか。だからどこに住んでいるのかと、混乱するのかな。
 それで悪戯心を起こして私は、「台南の家」ととっさに応えた。
 生まれ故郷の生まれた家を、私は幸運にも40年も経ってからみつけだした。その時は広い家に老人が一人で住んでいた。1947年頃中国から台湾に渡り、国民党政府の役人として塩務局に勤めて退職したという。彼は突然訪れた私に家中くまなく見せてくれた。  

 それから数年後にモトさんにその家を見せに連れて行ったことがある。老人は1987年に中国への渡航が自由化されたので、40年も別れたままになっている妻に会いに行くことにした。ところが旅立ちの数日前に倒れ、そのまま亡くなったという。

 その後は空き家になっていたのか。頑丈なレンガ塀で囲まれた庭には熱帯の樹木が猛々しく生い茂っていた。中国風に真っ赤に塗られた門扉は固く閉ざされていた。私は思わずレンガ塀をよじ登って中を覗こうとした。同行してくれた台南在住の友人は、私を手助けしようとしたが、モトさんには登れるはずないとたしなめられた。

 

 いま医療センターの面会室で「台南の家」と答えた私にモトさんは、
「ああ、そりゃあいい」と朗らかな笑顔を見せた。「じゃあキミは、空を飛んでここと家を行き来してるわけだな」とにこにこしている。
 あれ、冗談が通じた。うまく返してきたじゃないか。これぞ元のモトさんだ。そう私は心の中で思う。認知症って不思議だ。一昨日は心配になるほど無反応だったのだが、これで回復に向かってくれるだろうか。

 

 

 

老老対話 その6   「生まれた家に何歳まで住んだか? 分からないな」


「生まれた家に何歳まで住んだか? 分からないな」

 

 モトさんは入院してすぐに集中治療室に入った。医者の説明では2,3日後には一般病棟に移るだろうとのことだった。ところがその日を過ぎても何の説明もない。6日目ごろに看護師に尋ねてみると、
「入院から1週間たつとMRI検査をするので、その結果で決めることになります」とのことだった。

 

 ところが11日目になっても、まだモトさんは集中治療室にいる。そこで思い切って看護師長に尋ねてみることにした。こういうとき患者側はとても気を遣う。なるべく柔らかい口調でモトさんの病状はどんなふうか訊いてみた。看護師長は脳梗塞で一度壊れた細胞は治るものではない、というような話を始めた。そんなことよりモトさんの病状を知りたいのだ。それで質問を変えて「入院から1週間後にMRIを撮るとお聞きしたのですが、その結果はどうだったのでしょう」と訊いてみた。看護師長は「ええと、その画像はですねえ」とか言いながら、何やら操作しているふうだ。

 

 返事を待っていると、看護師長は突然「今日11時に一般病棟に移ります。面会時間は2時から5時までに変更になりますから、ご注意ください」と言う。「移るのが遅くなったのは空きがなかったからですが」と説明し、さらに「モトさんが急に怒ったり点滴の管を抜いたりしたのも移るのが遅れた理由だ」と付け加え、「譫妄なのか認知症のせいなのか分かりませんが、安定する薬が出ておりますので」と説明した。私にしてみれば、そういう情報こそ一番に伝えて欲しいのだが。

 

 その日のうちに、一般病棟に移ったモトさんを見に行った。5階の4人部屋だ。幸い窓際のベッドで、窓からは周囲の山々が見渡せる。
 だがモトさんはなぜか元気がなかった。看護師長が挨拶に来てくれたが、何しろ病室を移ったばかりで、肝心な話を聞くことはできなかった。理学療法士も来てくれた。彼は手際よく、家で過ごす場合に備えて、車椅子や歩行器での移動が可能な構造になっているかを質問してくれた。

 

 一般病棟では携帯電話を使ってもいいそうなので、私が預かっていた携帯電話や充電器をモトさんに渡した。いままではモトさんは、私と離れていると頻繁に電話を寄こしていた。それなのに携帯電話を手渡してもべつに喜びもしないのが気になった。
 そこでモトさんを車椅子に乗せて面会所に連れ出した。テーブルを挟んで向き合い、モトさんに喋らせようとしたのだ。

 

「生まれたところの住所を言って」と私。
「愛知県一宮市、、、ええと、、、〇の〇〇番地」
「違うでしょ、合併して一宮市になったけど、その前は何とか町か何とか村だったんじゃない?」
 だがモトさんは同じことをくりかえす。
「で、そこには何歳までいたの?」
「ううんと、、分からなくなっちゃったな」
 モトさんはきっとくたびれているのだ、と考えて私も話を打ち切った。

 

 病院の帰りにスーパーに寄った。すると以前ご近所だったヤマヤさんに会った。ヤマヤさんは90歳。つい2か月ほど前までもう店は閉じてしまった大きな商家に一人で暮らしていた。きれいな中庭や裏庭があって、ツツジや翁草などが咲くと、私を呼んで見せてくれたものだ。けれどいよいよ一人暮らしが心細くなり、駅前の有料老人ホームに入居した。つい先日会ったときは「夕飯時におしゃべりができるので嬉しい」と言っていた。だが今日は「テレビと新聞だけが友達。話し相手がいないの。あなたに会えて本当に嬉しい」と10分足らずの道のりを一緒に歩きながら、何回も言った。年を取るのは、そのこと自体が寂しいことなのだ。

 

 その夜、ふと気になりだしたことがあり、なかなか寝付けなくなった。モトさんが喋るのさえ面倒くさがったのは、看護師長が言っていた「安定させる薬」のせいではないだろうか。だったら早くその薬は止めてもらわなければ。だが誰にどんなふうに言えばよいのだろうか。
 

 

老老対話 その5   忙しいなら帰っていいよ

「忙しいなら帰っていいよ」


4月13日 月曜日
 モトさんが入院してちょうど1週間。入院以来、私は毎日面会に行った。何故モトさんのために、こんなに時間を費やすのか。その理由を考えてみた。

 

1.集中治療室にいるためにモトさんは携帯電話が使えず、私に連絡ができない。
2.私は花粉症のために外出を控えているが、それでも短時間でいいから外に出たい。病院は歩く距離がちょうどいい。それに図書館やスーパーも近いから用事を一気に済ませられる。
3.軽症とはいえ脳梗塞となれば、今後は意思疎通も難しくなるかもしれない。いまのうちに話したいことは話しておかないと。

 

そしてもしかすると次の理由が一番大きいかもしれない。
4.思わぬ急な入院で、この町にある地方銀行でお金を下ろせるようにしておこうと、モトさんの通帳をチェックしてみた。すると、平成26年2月末から3月初めにかけて500万円ずつ3回振込んでいる記録があった。2014年、いまから12年前だ。モトさんの母親の施設の費用として、義姉(モトさんの兄の妻)あてに送ったものと思われる。だがその数年後に母親が亡くなった時、義姉は認知症初期だったモトさんに「覚書」なるものを書かせて遺産相続を放棄させ、母親の遺産をすべて自分の息子に相続させた。モトさんて、そういう人だ。ドンくさいというか、お人好しというか、間抜けというか。
 モトさんの顔を見に行くのは、この人っていったいどんな人? と思っているからだ。

 

 入院したときは、集中治療室にいるのは数日と言われていた。それで看護師に、
「いつごろ一般病室に移れますか」と訊いてみた。
「明日、入院から1週間目のMRI検査をするので、その結果移ることになったら、電話で連絡します」とのことだった。

 

 寒がりのモトさんは、今日は最高気温が22度だというのに、チョッキを着て電気毛布をかけてベッドにいた。うとうとしているふうなので、
「こんちは」と声をかけた。すると目を開けながら、

「ああ、キミか」とはっきりした口調で言った。

 昨日、意識が戻った気がする、と自分で言ったくらいだから、色んなことが分かってきたのか。

 

 そう思っていると、こんどはいきなり、

「キミ、なんで毎日ここに来るの?」と言い出した。

 大層なご挨拶だ。どうやら何も覚えていないという状態だったのが、昨日の記憶はあるという状態に変わったらしい。

 だったら私も負けてはいない。
「だって入院すると、急速にボケが進むというから、少しでもボケさせないようにと思ってね」と私もあけすけに言い返す。

 


 外はいま、花見客がいっぱい。すぐそこの公園でも、弁当を広げて桜を眺める家族がいた、などという話をする。

 そんな話はつまらなそうなので、自民党大会の話もする。
「高市首相が、改憲の機は熟したなんて言い出したよ」
 これもモトさんには面白くなかったらしく、
「キミ、忙しいんだろ。もう帰ってもいいよ」と言う。
 ああ、いつものモトさんに戻った、と私は思う。実に率直な人だ。私がべつに話したくもないことを喋っているのを感じ取ったのだ。

 

 面会時間はまだ15分も残っていたが、病室を出た。
 モトさんがあんなふうに率直というより実利的な人だから、私もヘンに感傷的にならずに済むし、優しい人の振りをする必要もない。私は私がしたいようにすればよいのだ。


 図書館に寄り、瀬戸内寂聴の初期の短編をひとつ読んだ。というのもつい先ごろ彼女の『余白の春』を読んで、こんな題材をすらすら読める人情ものに仕立ててしまうのか、うまいものだなあと思ったからだ。先頃話題になった映画「金子文子 何が私をこうさせたか」よりずっと面白かった。だが初期の短編「花芯」なんかは、つまらなかった。

 

 夕方懐古園へ行く。台湾人カップルがいたので、本丸の石垣の上に是非上るよう勧めた。私もそこから夢のような美しい風景を眺め、台湾人カップルもとても喜んでくれた。それから茶店で、夕暮れ時の桜を見ながらおでんとお汁粉を食べた。。おでんが700円、お汁粉が850円、昨年よりだいぶ高くなった。


 昨年は歩くのを嫌がるモトさんを無理やり茶店まで連れてきた。熱燗とおでんを味わいながら花吹雪を眺めたものだ。だがあのときもモトさんは、

「2人で花見なんていうのも今年が最後かもね」という私を遮って、

「こんな寒い所より、暖かい家の中で一杯やった方がずっといい」と毒づいた。

260413老老対話 その4  今日はじめて意識が戻ったよ

「今日はじめて意識が戻ったよ」


4月12日 日曜日
 昨日は土曜日で好天。桜が花盛りでしかも季節外れの暑さだったものだから、今日が桜見ごろの最後の日とでも皆が思ったのか。大変な人出だった。今日も同じような快晴で、しかも気温はちょっと低いから昨日よりは快適だ。それなのに人出は少ない。
 観光客を見ていると、皆何を考えて行動するのだろう、と不思議に思うことがある。自分が何を見たいかどこに行きたいかを考える前に、大勢の人がするのと同じ行動を取ってしまうのが普通のことになっているのではないか。

 

 私は今日もモトさんに会いに医療センターの集中治療室に行った。
 モトさんはベッドを半分起こして、気持ちよさそうに目をつぶっていた。起こさない方がいいなら、このまま帰ろうかと思っていると、看護師が声をかけて起こしてくれた。いずれにしろ間もなくリハビリの予定があるのだという。

 

 ベッドのわきの椅子に掛けて、モトさんと話す。
 昨日までのことをまるで覚えていないという。
 月曜日にデイサービスから電話で「歩き方がおかしい、体が左に傾いている」と言われ、翌日には入院していまに至っているいきさつを、また話す。
「僕、そのとき意識はあった?」とモトさん。
「あったよ。軽い脳梗塞だと医者から説明を受けて、私は即入院を決めたけど、そのときにも一応あなたの意見も聞いたよ」と私。
「まるで覚えていないなあ」とモトさん。

 

 こんな調子だから、世の中のことなんかまるで分からない。
 アメリカとイスラエルがいきなりイランを攻撃し、それ以来、ひやひやするような日々が続いている。世界戦争に発展するのではないか。石油が入ってこなくなったら、経済的な打撃はもちろん大きいが、ナフサを原料とする医療品などの不足で、命の危険も招きかねない。などなど。

 

「いいねえ、世の中の出来事にまったく無関心でいられるというのも」と私。
「そうだなあ、何も知らないのは実に平和だ」とモトさん。
 それでモトさんは、改まってこういった。
「僕、今日から意識が戻ったような気がするよ」
 ああ、もう大丈夫かもしれない。入院で脚は弱るだろうが、もうしばらくはモトさんのままでいてくれそうだ。

3老老対話  その3   花を楽しむ気になれない

「花を楽しむ気になれない」


4月11日 土曜日
 静岡あたりでは30度越え、という暖かい日。
 朝から時ならぬ花見渋滞が起きていて、いつもは静まり返っている家の前の道路に、車が数珠つなぎになっている。駐車場はすぐそこなのだが、家の前のちょっとした空き地が例年車で埋まってしまう。ご近所さんたちと、年に一度のことだから我慢しようと言い合うのだが、弁当の殻を捨てていったり、塀際の花を踏みうぶしたりする不埒者がいるから、花見時の人出には何かと不愉快さが付きまとう。

 

 1時半ごろモトさんの面会に行くと、ベッドから起きて車椅子に座っていた。
 目の前にモトさんがしばらく前から読んでいるはずの『日本語からの祝福、日本語への祝福』(李琴峰著)が、置いてある。それでつい最近見たニュース、この本が梅棹忠夫・山と冒険文学賞を受賞した話をする。モトさんはたぶん李琴峰の小説には興味が持てないだろう。だが台湾については、私が台湾生まれのせいもあって、かなり関心を持っている。だから何回か話したことのある、この本の中のエピソードをまた話す。

 

 台湾出身の日本語作家は少なくない。だが李琴峰の場合は彼らと違って、身内に日本語を喋れる人はいなかった。日本に住んでいるとか日本と関係の深い親戚などもいなかった。田舎で育ったせいもあって、日本語に触れる機会もほとんどなかったが、アニメで見た平仮名のクニャクニャとした形に惹かれて日本語に興味を持ったという。

 

 彼女が日本語を学んでいく過程も興味深いが、中国文学に関する話もとても面白い。彼女は「中国語では古典と現代語の距離が日本語より近い」と言っている。文学好きの台湾人の少女たちが、普段の会話のなかにも盛んに古典を引用する様が書かれていて、その会話の奥深さには憧れさえ抱いてしまう。その様子をモトさんに聞かせようと、本を手に取ってその個所を読み始めると、モトさんがぽつりと言った。
「その話はもういいよ」と。


 こんなふうに話を中断されるのは、考えてみれば初めての気がする。モトさんは思えば長年にわたって、私のとてもいい聞き手だった。私が自分の関心事を勝手にしゃべり続けても、たいていは「それで?それから?」という具合に、いつまでも耳を傾けてくれたものだ。そのモトさんの頭も、疲れてしまっているのだろうか。

 

 帰り道、今日は家の近くの懐古園は花見客で溢れているようだが、そのうえ街のあちこちにたくさんの出店が出て、そこも結構にぎわっている。この小さな街に、こんなに人がいたっけ、と思うほどだ。
 出店の並ぶ街中の小さい公園を通り抜けようとしたら「田村さん」と声をかけられた。生活クラブ生協の出店にいた友人が、商品宣伝用の珈琲と牛乳をご馳走してくれた。生活クラブ入会を勧める友人の話を上の空で聞きながら、ここ1週間のモトさんの入院騒ぎのなかで、はじめてゆっくり珈琲を味わった。

 

 帰宅して、今日が見ごろだという懐古園の桜を、やはり一目見ておこうと出かけてみた。懐古園は規模は小さいが、ちょうどうまい具合に起伏があるせいか、一回りしてみるとその風景の変化に感心する。
 昨年は花見時に、モトさんを何とか歩かせて園内の小さい茶店にたどりついた。熱燗を注文して、おでんを頬張ったりした。今後はどうなることだろう。

 

 懐古園の本丸の石垣に上る。昔ながらの自然石を組み合わせた石段は、足場は悪いが、石垣の上からの眺めはほかにはちょっとないくらいの絶景だ。頭上にも眼下にも、すぐ脇にも、周り中に桜が咲いているのだ。
 昨年と同じような景色の中に佇んでみた。けれども、花をじっくりと楽しむ気分には、どうしてもなれなかった。