2015-01-01から1年間の記事一覧

江文也 北京師範大学教授になる    江文也その6

江文也は1936年6月、26歳のときはじめて中国に旅をした。そのころさまざまな助言を与えてくれていたロシアの作曲家アレクサンドル・チェレプニンに勧められてのことだったという。チェレプニンはこの前後4年間ぐらい、中国や日本などアジアを歴訪してアジ…

トマトケチャップ をつくった

私の畑は、日当たりといい土といい、条件はとてもよいはずだ。けれどもなんせ腕がよくない。それで作物の育ちは、すべて自然の恵み次第だ。 今年は何もしないのに芽が出て育ったカボチャが3本あって、大きいカボチャが6個も獲れた。はてさて、どうやったら…

江文也 瀧澤乃ぶとの結婚   江文也その5

13歳の江文也は、兄と二人ではるばる廈門から上田にやってきた。上田駅に到着したのは1923年9月7日のことだ。その翌日、寄宿先の山崎あき宅あたりを散歩したようすを、江文也は日記に書き残している。山崎宅の位置は特定できないが、その後の生活から推し…

江文也少年をとりまく上田の音楽事情   江文也 その4

13歳の江文也少年は、兄と2人で遠い上田の地にやってきて、着なれぬ絣の筒袖の着物を着せられて、尋常小学校の生徒になった。小柄で大人しい子供であったが、学校に1台だけのピアノを弾くことを許されていたという。これは、同じ尋常小学校6年の女子組に…

珈琲時光、消された上田時代           江文也その3

台湾で『珈琲時光』という映画がつくられたのは、2004年のことだ。1980年代から台湾映画を引っ張ってきた侯孝賢(ホウ・シャオシエン)監督の作品だ。このなかでストーリーの伏線として江文也の名が出てきたために、日本では、長らく忘れられていた江文也が…

ビーツ を収穫

一見草だらけの私の畑でも、野菜は育っている。 今日はビーツを収穫した。私はビーツと香菜(シャンツァイ)を食べたいばかりに、畑仕事をしているのかも知れない。いちばん大きいビーツをひとつ収穫する。こうやって大きくなった順に1個ずつ取って食べるの…

江文也、上田での少年時代      江文也その2

1923年9月7日、江文也は兄と二人で上田駅に降り立った。江文也はこのとき13歳。ほぼ一月前の8月4日に母を亡くし、その3週間後には廈門の父の元を離れ、12日間の長旅の末に上田に到着したのだった。江兄弟は上田で、父の知人である山崎あき宅に身を寄せ…

江文也、太郎山に登る              江文也ーその1 

昨年の秋のはじめ、私は近所の友人と一緒に車で30分ほどの上田市にある太郎山に登った。彼女が本格的な登山の経験があると聞いて、太郎山に行こうと誘ったのは私だ。市民に愛されるこの小さい山には、もう半世紀も前、上田の高校にかよっていたころ級友と登…

ゲートルのこと

ぼくもいくさに征くのだけれど、という詩を書いて23歳の若さで戦死した竹内浩三。この詩にはこんな一節もある。 なんにもできず蝶をとったり 子供とあそんだりうっかりしていて戦死するかしら 1945年4月、彼はほんとうに出征先のフィリピンで死んでしまった…

ディアスポラ・その後 日本語教室で

土曜日の夜、町はずれの公園の一角にある文化センターへ行く。ボランティアによる日本語教室が開かれるのだ。私はボランティアスタッフとして日本語を教えるようになって、今年で3年目だ。 公園の駐車場で車を降りると、まわりの丘で花盛りのアカシアの甘や…

技能実習生 ヴンさん

ヴンさんは、1週間に1回ほど我が家にやってきて、日本語の勉強をする。元気よく自転車を飛ばしてきて、庭先でひらりと飛び降り、こんにちはと叫ぶ。ヴンさんはベトナムから日本にやってきて、1年半になるそうだ。仕事の合間をみて1日3時間勉強したそう…

台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』 と 八田與一

台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』を見に、隣町の映画館へ行ってきた。この映画は日本での評判がえらくいいと聞いていたが、ここでは観客はたった2人だった。内容は、1931年に台湾の嘉義農林学校(通称:嘉農、KANO)野球部が、まったく無名のチーム…

種まきの季節

信州にも遅い春がやってきた。 福寿草、クロッカス、水仙と春到来を告げる花が咲き出すと、その後は競うようにあちこちで色々な花が開く。と思うと木々も芽吹きはじめ、ほどなくあたりの山々も笑いだす、というわけだ。 そんなようすを見ながら、畑仕事を少…