映画「福田村事件」への疑問  静子とは何者か?

 森達也監督の「福田村事件」が話題を呼んでいる。
 1923年に起きた関東大震災から100年目の今年、震災の混乱の中で起きた朝鮮人虐殺問題に、日本はまだきちんと向き合えていない。そんななかで森監督はこの作品で、虐殺に加担してしまった普通の市民を描こうとした、という。それが観客を集めた大きな理由だろうと思う。

 

 

 この映画は、関東大震災直後に千葉県の福田村で実際に起きた事件をもとに作られたものだ。
 地震発生から5日後の9月6日、福田村の100人余りの村人が、香川県から来た薬の行商団15人のうち9人を惨殺した。行商団は被差別部落の人たちであった。だが彼らが殺されたのは、香川県の地元の讃岐弁を話していてうまく言葉が通じず、朝鮮人と疑われたのが原因だったとされる。
 とはいえ、実際の事件については加害側・被害側とも口をつぐんでしまったし、記録はわずかしか残されていない。映画化にあたっては多くのフィクションが加えられている。

 

 

 映画は、震災前の村の人々の生活を追っていく。一見のどかそうだが面倒なしがらみに縛られ、家父長制や封建制に抑圧される人をも描いている。
 大震災が発生すると、人々の大混乱に対する不満が政府に向かわないようにと、内務省や警察から意図的にデマが流された。「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「朝鮮人が日本人を襲撃している」と。村人たちは不安をかきたてられ、在郷軍人や自警団を先頭に武器を手にしていきりたつ。そのときたまたま村を通りかかった他所者の集団が、香川県から来た薬売りの一行だった。彼らが話す聞き慣れない讃岐弁に、朝鮮人ではないかと猜疑を募らせた村人たちは、「国を守れ、村を守れ」と正義を振りかざし9人を殺してしまった。
 だがそれを何とか止めようとした村人も数人いた。インテリの村長、朝鮮で教師の職を辞めて村に戻った澤田、人妻とのあいびきを揶揄され非難されている船頭、千葉日日の新聞記者の女性、それに前記の澤田の妻・静子だ。

 

 

 これらの人びとについて思うことはいくつかあるが、私がいちばん気になるのは朝鮮から帰って来た元教師・澤田の妻の静子だ。
 静子は、自分は東洋拓殖の重役の娘だと、船頭に向かって自分から名乗っている。気まぐれにふらりと散歩に出て船に乗ったときの軽い話題だった。
 東洋拓殖は周知のように、日本が朝鮮を植民地統治していた時代に、植民地経営のための事業を多岐にわたって行った半官半民の国策会社だ。朝鮮の土地を買収して日本の農民を移民させ、あるいは地主として朝鮮の農民に小作をさせた。さらには日本政府の植民地政策を背景に多くの特権を付与されて、金融、水利事業、建設業などに事業を拡げた。終戦時には関連会社や子会社は膨大な数に上り、朝鮮最大の土地所有者であったというから、悪辣さも想像できようというものだ。

 

 

 その会社の重役の娘が一介の教師と結婚するなど、そもそもありそうもない話だ。しかもその教師は、当時の朝鮮在住の日本人としては数少ない考えの持ち主だった。朝鮮で暮らすからにはと朝鮮語を学び、朝鮮人に対して同情的だったのだ。それならばなおさらこのこの2人の接点は想像しにくい。
 それはさておき、植民地における宗主国側の特権階級として暴利をむさぼっていた会社の重役の娘が、この映画では単に苦労知らずの奔放で天真爛漫なお嬢さんというような描き方をされているのには、疑問を感じずにはいられない。

 

 

 そう感じるのはたぶん、私の来歴のせいだ。
 私は1944年、植民地統治下の台湾・台南市で生まれた。思えば私は、日本の統治下にあった植民地に在住経験のある最後の年代ということになる。
 私は生後1年余りを台湾で過ごして日本に来てしまったが、台湾との縁は深い。母方の祖父母が台湾に渡ったのは1908年。母は1912年に屏東で生まれ高雄で小学校に通った。女学校時代を神戸や東京で過ごしたが、結婚するとすぐ1938年に再び台湾に渡った。私の父が台北帝国大学に転勤になったためだ。父は1940年に陸軍に徴用され台南陸軍病院勤務となったので、その後は家族は台南で暮らした。
 台湾の50年間の植民地時代に、私の母方は4代が父方は2代がさまざまな形で台湾での生活を経験したことになる。そんなわけで、我が家や母の実家では台湾がよく話題にのぼった。私だけが幼少時の台湾の記憶がないため、そのぶん興味津々で皆の話に耳を傾けた。

 

 

 その後私は、ロンドン映画祭で偶然台湾映画に出会ったのをきっかけに、1983年から台湾映画を日本に紹介する仕事をはじめた。するとあのような映画が生まれた背景を知りたくなり、台湾映画や台湾社会にまつわるノンフィクションを書くようになった。台湾人および日本人から植民地時代の話もたくさん聞いた。
 また同世代や年下の台湾人の友人大勢でき、そのなかのポスト植民地世代と自称する数人とは、家族や年長者から聞いた植民地時代の思い出話を交換しあった。私は、自分の曽祖父、祖父母、父母たちが台湾でどんな風に暮らしたかを知りたかったのだ。

 

 

 そうした経験の中から思うのは、植民地での民族差別は、映画「福田村事件」で静子が口にするような生易しいものではないということだ。静子は船頭に対して東洋拓殖を説明するのに、「朝鮮人をだまして大儲けしている会社」だと言う。また夫から朝鮮独立に関わった朝鮮人が殺された話を聞いて、「ひどいことをしたのね」と感想を述べる。
 だが私は、とりわけ静子のような植民地制度に支えられて暴利をむさぼっていた人の家族から、このような言葉が出るとは思えない。断っておくが、私は静子を個人攻撃するつもりはない。むしろ、植民地で暮らす以上は、支配民族と被支配民族のあいだの差別を当然のものとして受け入れなければ生きていけないとさえ考えている。
 差別を成り立たせるための法や制度や慣習は網の目のように張り巡らされていたはずだ。あたかも、戦争では人を殺すことを何とも思わなくなるように、植民地で暮らす日本人の大部分にとっては被統治者側の人びとを差別するのが当然のこととなっていた。植民地とはそうした差別制度の上に成り立っていたから、朝鮮でも台湾でも、日本の支配に抵抗したり、日本人と同等の権利を求めて独立を主張したために命を奪われた人は大勢いるはずだ。

 

 

 映画「福田村事件」のなかでは、静子の夫が初めて朝鮮での辛かった経験を静子に話す場面がある。彼は、朝鮮独立を主張して捕らわれた朝鮮人の通訳をさせられた。そしてその朝鮮人が惨殺される場に居合わせてしまったという。
 夫はなぜかその部分を話すときに、不自然なことにいきなり朝鮮語を喋る。そして映画では夫の朝鮮語を静子が理解したことになっているが、これもまずあり得ないことだと思う。日本人は、朝鮮でも台湾でも満州でも、また日本占領時代の上海でも、日本語だけを使って威張って暮らしていた。当時の日本では、植民地の人びとが使う言葉を下品な低俗な言葉とさえみなしていたのだから。

 

 

 私は、静子の描き方に違和感を覚えた理由を説明するために、台湾で聞いた植民地での体験談を書こうと試みてみた。だがそれはどうやら出来そうにない。どのエピソードも背景にある差別の構造は複雑で根深く、かいつまんで語るのは無理だからだ。
 それでここでは拙著『台湾人と日本人 基隆中学「Fマン事件」』の概要を書くことにした。扱っているのはひとつの小さい事件だが、植民地での支配者側・被支配者側の関係を象徴するような出来事だと思うからだ。
 太平洋戦争開戦から2か月余り経った1942年2月、台湾の基隆中学で卒業を目前に控えた5年生の台湾人が5人、いきなり特高警察に逮捕された。卒業記念に同級生から集めていたサインブックの、いまから思えば他愛無い文言が、台湾独立を主張していると疑われたのだ。特高に逮捕されれば拷問で殺されることもあった時代だから、台湾人学生は家族ともども恐怖に震えた。台湾人に対する激しい殴打事件も起きたし、逮捕された5人はその後の人生も大きく狂わされた。
 この事件を私が知って、取材を重ねて事件のいきさつをまとめて出版したのは、事件から半世紀後のことだ。それだけの時間を経ても、この事件の受け取り方は、台湾人と日本人とではまったく違っていた。
 台湾人は、思い出すのさえ恐ろしい、と家族にもまったく話していない人もいた。私が取材に行って話を聞いていると、家族が吃驚して割り込んできて私以上に質問を浴びせかけたりもした。事件の話は沈痛な面持ちで、重い口を開いて語られるのが常だった。
 だが日本人はほぼ全員が、事件を面白可笑しい話ととらえていた。なかに事件のきっかけを作った人がいたが、彼はニコニコ顔で手柄話としていきさつを語った。彼が隣席の台湾人の机からサインブックを盗り、それが級長経由で体育教師に届けられたことが台湾人学生逮捕につながったという。日本人の中には、逮捕された同級生の台湾人を案じていた人は一人もいなかった。

 

 

 話を映画「福田村事件」に戻す。
 関東大震災後の朝鮮人虐殺は、政府が流したデマと従来日本人の心中にあった朝鮮人に対する差別意識が結びついて起きたものだろう。ではなぜ日本人は朝鮮人差別意識をもつようになったのだろう。植民地での民族差別感情は日本内地よりずっと激しかった、というのは経験者がよく語ることだ。
 ならば、植民地での差別意識を無意識のうちに血肉としてしまっているであろう静子を、あんな無垢で善良な人のように描いてしまったのは残念なことだ。静子を登場させたなら、無自覚に根深い差別意識を持ってしまった日本人像を、もっとえぐり出すことができたのではないか、と私は思う。
 さらに思うのは、静子の描き方は、日本での植民地統治に対する反省の無さの反映かもしれないということだ。