バーバラ・ピムという作家

バーバラ・ピム
「よくできた女(ひと)」「秋の四重奏」

 


 バーバラ・ピムという作家を、私は知らなかった。
 図書館でたまたま目にとまり読んでみたのだが、出会えてよかったとの思いが沸き上がる。普通の人の静かな日常を静かに語る。それだけだが静かな感動を呼び、心地よくずっと読み続けられる作品だった。


 バーバラ・ピムは本名はメアリー・クランプトン。1913年イングランドのシュロプシャ州オズウェストリーに、弁護士の娘として生まれた。ちょうど私の母の世代ということになる。英国国教会派の寄宿学校を出たあと、オックスフォードのセント・ヒルダ・コレッジで英文学を学び、在学中から小説を書きはじめたという。30代から40代にかけて数冊の本を出版したが、その後不遇の時期が長く続いた。その間さまざまな職業を経験しながら執筆をつづけた。1977年に文筆家らを対象にしたアンケート調査で「もっとも過小評価を受けた20世紀の作家」として名前を挙げられたことから脚光を浴んだ。そのせいでその後相次いで7作を発表することができた。生涯結婚はしないまま妹とともに暮らし、1980年に死去した。生涯に13点の長編小説を発表しているという。


「よくできた女」は30代に発表された、彼女の第二作だ。
 語り手でもある主人公は「30過ぎの未婚女性」とある。ああこの時代、女性は20代前半ぐらいで嫁ぐのがあたりまえとされていたのだな、と私も身に覚えのある圧迫感をおぼえる。時代背景は第二次大戦が終わってまだ数年、食糧配給制が残っていたころだ。主人公ミルドレッドはロンドンのあるフラットでひとり暮らしをしている。週に3日ほどは生活に困っている貴婦人らの相談にのる仕事をし、それ以外はもっぱら地区の教会のさまざまな活動にくわわっている。そんな地味な日々を送る彼女にも、周囲からさまざまな波が押し寄せる。フラットの階下に引っ越してきた夫婦、海軍軍人のハンサムな夫と文化人類学者の妻に離婚騒ぎが持ちあがり、ミルドレッドはそれに巻き込まれる。またずっとつきあいのあった教区の牧師が、思いがけないことに、近くに引っ越してきた未亡人と結婚することになる。それまで牧師と一緒に暮らしてきた彼の姉が、その未亡人に意地悪をされて、ミルドレッドに泣きついてくる。


 そんなふうな井戸端会議の話題さながらのこまごました日常の出来事がつづられているのだが、それがなぜ面白いのだろうか。ミルドレッドはこのタイトルにある「よくできた女 Excellent Woman」像に捕らわれている自分を冷静に意識している。そう、よくできた女とは、控えめで、夫であれ父親であれ男性に従い、生活がうまく回る潤滑油のような存在だ。ミルドレッドは、自分のなかにも叩き込まれてしまっている「よくできた女」の価値観に呪縛されながらも、そこからちらちらとはみ出しそうになる自分を冷静に見ている。階下に暮らしはじめた女たらしの海軍軍人に、ときに魅力を感じ、ときにその軽薄さに気づく。教区の牧師は、ミルドレッドとは長い馴染みの仲だった。ミルドレッドが彼と結婚しても不思議はなかった。そこに持ち上がった牧師の未亡人との結婚話にも、複雑な感情を抱えながらもミルドレッドは冷静にもちこたえる。自分も結婚を夢見ないわけではないが、それに満足できないであろう自分をも予感している。平凡な市井のひとりの女性が、たんたんと自分に正直に自分の人生を紡いでいく。その姿自体が心地よいのは、てらいのない適度なまじめさゆえではないか。


「秋の四重奏」も全体のトーンは似ている。大英博物館などにも近い中心街のオフィスの一室で働く男性二人女性二人の話だ。どんな仕事をしているかなどには触れられないまま、そのオフィスでの日々の出来事や会話がつづられていく。彼らは全員が独身で、女性二人は定年間近、男性二人はそれよりも年下だ。女性のうちのひとりレティがいわば著書に近い人物で、話の中心になっている、ここでも教会は大きい役割を果たしている。レティが住んでいるフラットのオーナーが変わり、新しく引っ越してきたのは黒人一家で、彼らはキリスト教系の宗教ではあるが見慣れぬにぎやかな祭祀を繰り広げる。レティはその騒がしさを嫌うのだが、ここにもこの時代には珍しいくらい黒人蔑視はない。彼らのことをただ、にぎやかなことが好きな、自分とはなかなか相いれない人々と見ているだけだ。


 同じオフィスで日々共に働いていた男女の間柄も、適度な温かみと節度が感じられる。フラットの騒音問題を抱えたレティに、あらたな住まいを探してやるのは同僚の男性だ。自分が通う教会で知り合ったひとり住まいの女性に、レティに部屋を貸すよう交渉してくれたのだ。同じオフィスにいたもう一人の女性は退職後1年ほどで亡くなってしまうが、彼女がひとり住まいのさびれた庭に囲まれた家を遺贈した相手は、なんと同じオフィスで働いていたもう一人の男性であった。この男女二人の間で過去に何かがあったのか無かったのか、それもいまは定かではない。
 この作品でも、レティの冷静な観察眼が光る。レティは、ゆくゆくは田舎に住む若いころからの親友の女性の家に移り、老後の生活を共にする計画であった。ところがその親友が突然結婚することになり、けれどそれも破談になりというようないきさつのなかで、レティは静かに自分の生きる舵をとっていく。
 二作に共通するのは、ささやかな生活を営む身として、自分の人生の始末を自分でつけようとする凛とした女性の姿だと言える。