ズル休み 認知症家族の会より

 いつも朝8時半ごろには電話をかけてくるつれあいのモトさんが、今日は電話をしてこない。頻繁に来る電話を、普段は正直なところ煩わしいと思っているが、来ないとなると少し心配だ。
 10時を過ぎたころ、電話が来た。
 いつものように「おはよう」と電話に出ると、モトさんも「おはよう」と言う。けれどまわりが妙に静かだ。
 ヘンだな、今日はデイサービスで「陽だまり」に行っているはずだ。あそこからだと電話の向こうは騒々しくて、モトさんの声が聞きづらいほどなのだが。


「陽だまり」は私が気に入ってモトさんを行かせることにしたのだ。デイケア施設としては珍しいほど自由だ。玄関に施錠して利用者が勝手に外に出ないようにする、などということもない。大人を子ども扱いして、童謡を歌わせたり、折り紙や塗り絵をやらせる、などというのも一切ない。皆それぞれに、庭の草むしりをしたり、薪割をしたり、昼食の準備を手伝ったりと、普通の生活をしながら過ごすのだ。
 古民家を改装した建物だから上がり框には大きな段差がある。傍には手作りの踏み台があるから、老人はそれを使えばそれほど苦労もなく上れるのだろうが。他の個所を見ても、近頃よく言われるバリアフリーとやらにはほど遠い。そこに集まってくるのは高齢者ばかりではない。養護学校の生徒が放課後を過ごしに来るし、ここで働く若い介護士が幼児を連れてくる。近所の人もしばしば立ち寄るらしい。そんなわけで「陽だまり」はいつも大声が飛び交い、誰かが転んだだの、お茶をひっくり返しただのと、賑やかなことこの上ない。思えば物静かなモトさんが、よくもあそこに馴染んでくれたものだが。


「どうしたの?今日はずいぶん静かだけど」と私はモトさんに訊いてみた。
「うん、今日はこっちにいるんだ。『陽だまり』には行かなかった」とモトさん。こっちというのは寝泊まりしている施設のことだ。
「どうして? 『陽だまり』の迎えは来なかったの?」
「いや、来たんだけどね」とモトさんはちょっと言いよどむ。「来たけど、なんかほら、最近流行っている病気があって、ここから『陽だまり』に行っている人がうつしてしまったとかで、なんだか危ないような気がしてね。そんなところは行かない方がいいと思ったから、行くのを止めたんだ」
「え? またコロナが出たの」と私はつい詰問調になる。「それで、モトさんは大丈夫なの? 咳は出ない? 熱はない?」
「ボクは、べつにどこも悪くないよ」とモトさんは答えた。


 2週間ほど前、モトさんが利用している2つの施設でコロナ患者が出た。最近ではコロナもだいぶ軽症になったと聞く。それに感染しても強制的に隔離しなくてもよいことになった。とは言え感染の危険はあるわけだから、私にも施設から状況を説明する電話があった。陽性者は自室から出ることを許されず、食事も皆とは別に自室で取るのだという。しばらくすると、陽性者は全員陰性になったことが確認されて、コロナは収束したとの連絡を受けた。
 モトさんは、2週間ほど前のこの出来事を覚えていて、現在起きていることだと勘違いしているのだろうか。しかし、もしもまたコロナが発生しているならば、私もうかつにモトさんを訪ねたり、モトさんを自宅に連れ帰ったりしないほうがいい。


「またコロナが出たのならば、連絡があるはずだと思うけどね。それともコロナではなく風邪か何かが流行っているのかしら。ちょっと電話して確かめてみないとね」と私が言うと、
「いや、やめといて」とモトさんは言う。「ボクの一言で誰かに迷惑をかけたら悪いから」と。
「大丈夫、誰にも迷惑がかからないようにするから。健康上のことで、なにか問題があるのかないのか、ようすを訊いてみるだけだから」と言って、私は電話を切った。


 そして担当のケアマネージャー、「陽だまり」の職員など数名にようすを尋ねてみたところ、意外なことが分かった。コロナも風邪も、患者は一人も出ていない。
 だがこの日、「陽だまり」の職員がモトさんを迎えに行くと、モトさんは、
「今日は体調が悪いので休みます」と言ったのだそうだ。
 ほんとうに顔色も悪く具合が悪そうだった、と迎えに行った職員が言う。
 それなのに私には、モトさんは自分が体調が悪いなどとは一言も言っていない。
「ボクはまったく問題ない、元気だよ」と言っていた。
 一体どういうことなのだろう。
 あれこれ聞いているうちに分かってきた。
 モトさんはたぶん、この日はあの騒がしい「陽だまり」に行くのが嫌になったのだ。それで「体調が悪い」という口実でズル休みしたのだ。実際具合悪そうだったと言うのだから、モトさんはお芝居もしたことになる。けれど私にも同じように「体調が悪いから『陽だまり』に行かなかった」と言ったら、私が会いに来てくれなくなると思ったのだろう。だからたぶん、私には「どこも具合悪くはない」と言ったのだ。


 モトさんをよく知っている介護師たちにこの話をすると、「やるじゃない」というふうに皆大笑いした。そして口々に言うのがこんなことだ。認知症と診断されている人が、そこまで知恵を働かせて自分の意思を通そうとするとは驚きだ、と。
 認知症というのは、同じ病名をつけられていても症状は十人十色だと言われる。そのうえそれぞれの性格や仕事で身についた習慣や癖が症状にも影響するから、相手をする側もなかなか大変だ。
 私はと言えば、モトさんの認知症がだいぶ進みつつあることを実感する一方で、もしかするとモトさんは、呆けていながらも彼流にすべてを把握しているのではないか、と思わされる瞬間が時折ある。