「我らが少女A」高村薫著 を読む

 


 高村薫が、重厚な長編を書く作家であることは知っている。数十年前になるだろうが「レディージョーカー」が大きい話題になったとき、いくつかの著書を手にしてみたが、読み切ることができなかった。いまにして理由を考えてみると、あのころは仕事が忙しくて時間がなかった、警察ものというのがなんだか苦手、などが思いあたる。だが一方で、高村薫が時折新聞に時事問題などについて寄稿する文章は印象に残っている。比較的最近のものだと、平成天皇の退位をめぐって皇室についての文章が、とてもいいと思った。私の言葉に置き換えての感想だが、あのまやかしの体制に人々がいまだに捕らわれているのはなぜかを、おもしろく論じていた。


 で今回、たまたま目について手に取ったのがこの本だ。その理由を考えてみるに、私自身が老齢になったいま自分の人生を折に触れてふりかえるとき、いちばん整理するのに手を焼くのが、あのあやふやな少女時代だから、と言える。もうひとつ、記憶力の衰えを自覚せざるを得なくなったいま、この分厚い本を集中して読み切ってみよう、というような二次的な動機もあった。読んでみると、そこはさすが老練な書き手というべきか、おおぜいの人物が登場して、それぞれの生活が事細かく語られていくのだが、一度も「あれ、この人誰だっけ」などと前の方を読みかえしたりする必要もなく、勢いよく読み終えた。


 物語は簡潔にまとめれば、「少女A」の虚実を多方面からこまかく探ったものだ。少女Aとは、上田朱美。おもな舞台は東京郊外の三鷹市調布市府中市小金井市が接するあたりで、野川公園や野川の自然に触れられる一方で、吉祥寺あたりの繁華街にも近い。


 ことが動きだす発端は、池袋近くの木造アパートで、上田朱美が同居人のヒモのごとき男に突然殴り殺された事件だ。理由はよく分からない、いまふうの気持ち悪い事件だ。だがそのために、上田朱美がかかわったかもしれない12年前の殺人事件がもう一度掘り起こされることになった。そのとき上田朱美は15歳か16歳。東京郊外で自宅から自転車で通っていた絵画教室の女性教師が、早朝の野川公園で何者かに殺害された。教師は上田朱美をとくべつかわいがっているふうであった。だが犯人はわからずじまいのままだ。


 上田朱美が殺人事件の被害者になったことで、その身元を洗ううちに12年前の殺人事件の捜査陣が再び動き出す。それにつれて、少女時代の上田朱美の周辺にいた人物たちも、思い出をたどらざるを得なくなっていく。上田朱美が殺されたことが逸早くSNS上で話題になり、そのうえ事件周辺にいた人物たちにも捜査陣による事情聴取が行われたりしたせいだ。


 殺された絵画教師の娘でいまも事件当時の家に一人で暮らす看護婦。その娘でいまは結婚して都内で暮らし、出産をひかえている絵画教師の孫娘は、上田朱美の親友ということになっていたが、実は上田朱美のことをあまり知らないことに改めて気づく。上田朱美とは幼友達で、いまも子供時代の家に暮らして最寄りの支線の小さい駅に勤務する青年は、過去の殺人事件当日の上田朱美を目撃していて、いくつかのシーンはいまも少しだけ気にはかかる。だが自分自身が結婚を控えていて、やはり過去の記憶はしだいに薄れていく。上田朱美の母親は、やはり過去の事件当時の気になる記憶の断片を心にしまい込んでいるが、スーパーのパート勤めをつづけながら、娘の死をも含む過去を断ち切るように千葉へ引っ越していき、病に倒れる。大勢の人間の事件周辺の行動が微細に記録されていくのだが、その割に上田朱美が浮かび上がってこない。なぜなのだろう。


 少女というものに肉薄してほしい、というのが私の動機だっただけに、本を閉じながら「なんだ」という感じが残ったのは事実だ。上田朱実という少女が、少女時代にあんなに荒れて、その続きみたいにひどい殺され方をした。しかしその内実は、これだけおおぜいの人物に語らせても、母親の過去まで探ってもなお、こんなに漠としているものだろうか。