『聖なるズー』  濱野ちひろ著

 


 著者は、セクシュアリティーの研究をしている。
 セクシュアリティーとは「セックスに関するあらゆること」を指す言葉だという。あらゆること、とはなにか。セックスそのもの、性的指向性的嗜好、生殖、生殖の管理、妊娠、中絶、さらに、性にまつわる教育・政治・身体性・感覚・感情。つまりセクシュアリティーを考えるということは、セックスを巡るすべてを考えることだ、というのが著者の考えだ。となると生のなかでは、食と同じくらいの重要なこと、と言えるだろう。


 著者が、この研究を始めたのは、自分自身が20代のころに10年にもわたってパートナーから暴力を受け続けた体験があったからだという。そこから逃れたものの、自分の体験を整理しかねていた著者は、大学院に入り文化人類学におけるセクシュアリティー研究に取り組むことにした。そこで指導教授から、獣姦を研究したらどうかと勧められたが、そのとき著者はその言葉さえ知らなかった。


 獣姦という行為は、当事者の精神疾患が疑われたり、動物保護団体から動物虐待だと激しい非難を浴びせられたりしている。だが著者はネットなどで調べるうちに、ドイツにある世界唯一の動物性愛者の団体ZETAを知るにいたる。この団体名は、日本語に訳せば「寛容と啓発を促す動物性愛者団体」だ。彼らは自らを「ズー」と呼ぶ。団体名にも入っている言葉「zoophile」つまり「動物愛護者」を名乗っているわけだ。この本「聖なるズー」は、著者がズーたちに恐る恐る近づいていき、そしてしだいに彼らを理解していくさまを描いている。著者はズーたちから話を聞くだけでなく、彼らの家に数日あるいはそれ以上も宿泊して生活をともにし、生活のさまざまな側面を観察する。そしてそこから彼らの思いを読みとろうとしている点も興味深い。


 ズーには男性が多いようだが女性もいて、さまざまな様態がある。パートナーの動物はほとんどが犬だが、馬という例もある。性的行動は多くの人が受け身だ。パートナーの動物とは生活を共にしている例が多いが、その関係はさまざまだ。性行為を行う場合もあれば、寄り添ったり愛撫したりというような関係もある。さらに自分はズーだと認識しながら、まだ実際にパートナーはいないという例もある。ただ、彼らに共通するのは相手の人格(犬や馬の場合どんな言葉が適切かは分からないが)を尊重し、相手の感情を読みとって、たがいに無理強いするようなことはしない。たがいに深い信頼関係で結ばれていて、ズーたちはパートナーの仕草や表情から、感情や要求を読みとれると語っている。生活を共にすると言っても、ペットと大きく違うのは、支配被支配や依存関係ではなく対等の関係を築いていて、相手の性行動や欲望も受け入れていることだ。振り返れば、いま多くのペットが人間の都合で去勢や避妊手術によって性行動までコントロールされ、まるで永遠の子供あつかい、あるいは従者あつかいされていることが、異様に思えてくる。


 しかし一方でズーたちに顕著な傾向として、パートナーとの間に旧弊な(と言ったら失礼だろうか)ロマンチックラブを夢想しているようにも見えなくはない。特に動物好きでもない私には、そんなことがありうるだろうかとの感想を抱いてしまうが。それに、ズーたちが言う、人間との性的関係には背後にさまざまな要素があり純粋な性愛関係などありえない、という意見にも疑念がわく。人間と動物であれ、人間と人間であれ、周囲や背後の条件によってどうしてもさまざまな要素が入りこむだろう。支配関係や損得勘定は、相手が人間であれ動物であれ容易に生まれるのではないだろうか。そうであってもより良い関係を築いていくしかないのだと、私は考えてしまうのだが。


 私はここに書かれている人間と動物の関係については、そういうこともあり得るだろう、というくらいにしか受け取れない。それでもセクシュアリティのうち、これまであまり語られることのなかった分野に踏み込んだこの本は、人間の生き方の根幹にあたる部分について、刺激的な深い示唆に富むものであった。