『四人の交差点』(トンミ・キンヌネン著)  自分の人生を生き切る人たち


 家族というものに対して、私は不可思議な両極端の感情を持ち続けている。
 自分自身は家族を持つことを頑固に拒否してきて、いまそれはある程度は思いどおりにいったかに見え、心地よく日々を過ごしている。そのくせふと気づくと、かつて自分が属していた家族に対して、厳しい批判を抱いているくせに夢のような甘やかな思いにふけることがある。家族とは、かくもとらえどころのないものなのだろう。
 それでもなお本書の家族の物語に惹きつけられるのは、それぞれの人の、家族に捕らわれつつも背反してしまうさまざまな性癖に正直に生きる姿、ではないかと思う。


 本書「四人の交差点」を手に取ったのは、ほんの偶然だ。著者名を目にして、トンミ・キンヌネンという珍しい音に興味を持ち、フィンランドの作家であることを知った。フィンランドの小説を、私はまったく知らないのではないか、と思いつつ読み始めたのだ。
 未知の著者であるにもかかわらず、予備知識を仕入れようともせず頁を開いたが、ぐいぐいと引き込まれて2,3日で読了した。それはたぶん、冒頭の序章にあたる部分の迫力のせいだ。


 序章では、死の床にある女性の回想が書かれている。それがラハヤであることはあとで分かるのだが、彼女が息子とその妻カーリナに手を握られつつ思うのは、オンニのことである。オンニがラハヤの夫であったこともあとで分かる。ラハヤは、オンニはやさしい人であったと心底思っている。だが彼を自分のものにすることは、どうしてもできなかった。死の渕に立ってなおオンニに恋焦がれる苦しみのなかで、オンニに許しを請いつつ、ラハヤは死に向き合っている。オンニとはどんな人なのか。それを知りたい思いがずっと持続して、緊張感のうちに読み終えたことになる。


 オンニとラハヤのことを語るのに、本書は巧みな構成を編み出している。ラハヤとオンニをはさんだ三世代にわたる家族を描いているのだが、全体を4章に分け、各章でひとりの人間を語る。その4人とは、序章の主人公カーリナから見れば、夫の祖母のマリア、その娘のラハヤ、そしてラハヤの息子の妻となったカーリナ自身、さらにラハヤの夫オンニだ。それぞれの人物のエピソードには年代が付されていて、同じ時間や出来事が、べつの人の目から見られ語られが繰り返される。これは家族のなかではよくあることで、さりげない日々のおしゃべりに似た雰囲気をかもしている。


 この家族はどちらかと言えば、勇気ある、毅然とした人たちであった。祖母マリアの話がはじまるのは1895年だ。マリアは寒村で助産婦として生き、大勢の人々の生死にかかわる働きをした。だから強硬に自分の意志を通すこともできた。未婚のまま娘を生み、薬剤師と熱い恋もした。その娘ラハヤも未婚のまま娘を生んだあと、世間の冷たさに抗して写真家となった。それらすべてを受け入れてくれたやさしいオンニと結婚し、そこで生まれた子供たちと一緒に、温かい家庭を築いたはずであった。


 カーリナは、ラハヤの息子のヨハンネスと結婚し、夫の家族と生活を共にする。幸せな暮らしではあったが、姑ラハヤの気難しさや沈鬱さがつのっていく。カーリナはずっと、早く自分らしい明るい家を作りたいと願いつづける。
 三世代にわたって、同じ家族のなかで暮らした4人だから、当然その生きた時間は重なっている。同じ時間に同じ家で暮らした家族であっても、誰の視点から見るかで出来事の様相も感じ方も違ってくる。この手法で家族というものが持つふくらみも、不可思議さも存分に描かれる。それにこの家族も他の人々と同様にフィンランドの歴史をも背負っているわけだから、戦争に翻弄され、厳しい自然に対峙して生きている。


 オンニは、よく働き、戦地に駆り出されてもまた戻っては、家族の生活の場を快適にしようと努める。同時に彼は家具職人や大工として村でもさまざまな仕事をこなす。
 しかし、ラハヤはオンニの行動に疑問を抱きはじめる。子供が成長していき、夫の関心が自分には向かなくなったことに、ラハヤは苦しむ。そしてついに真実を探りあてる。夫は同性愛者であった。当のオンニもそれに苦しんでいる。オンニは父親になりたかった。そしてよき父親になった。しかし彼の欲望や愛情は、恋人の男性に向かってほとばしる。ラハヤにすまなく思い、後ろめたさを感じても、心のなかにラハヤが存在しないのを、オンニにはどうにもできない。


 1950年代の当時、フィンランドでは同性愛は犯罪であった。苦しんだ末にラハヤは、夫の恋人の妻に手紙を書き、警察に訴えてでも彼らのなかを引き裂いてくれと懇願する。その結果、オンニは犯罪者となり裁判所に出頭させられることになった。それでもオンニは、ラハヤのもとには戻らず、恋人のもとへと去ってしまった。


 そして序章に呼応する形の最終章で、そのラハヤの秘密を知ったのは、カーリナだった。ラハヤの死後に、カーリナは姑の遺品を整理していて、オンニを犯罪者にしてしまったのは、ほかならぬラハヤであったことを知る。
 だがカーリナはためらうことなく、その秘密を夫に見せずに焼き捨ててしまう。夫のヨハンネスは、母の死を深く悲しんでいるが、母の苦しみの原因は知らない。思えば子供にとっては、両親の心のもつれなどは永遠の謎だ。それを謎のままにしておこうとしたのは、カーリナの思いやりだろうか。それとも他人である彼女には、姑のこの大きな秘密さえ、些事に過ぎないのだろうか。


 ひとりひとりが、精一杯に自分の人生を求めた家族たち。それは決して丸く収まる結末を迎えはしない。それでも、自分自身の生を必死に紡ぐ行為はそれ自体が気高い。そして時間が過ぎてみれば、ひとりの人間の苦しみはやはり些細なことに過ぎない。物事は、そして家族というものさえも、結局はこのようにして流れ去って行くもなのだ。
 寒い森の国で暮らす人の、誰からも褒められはしない美しい心模様を、見せてもらった気がする。