新型コロナウィルス  4.ペンキ屋さん

 


 2020年5月13日、世界の新型コロナウィルス感染者数は、とっくに400万人を超えている。最近はもう、関心があまり向かなくなった。というよりコロナ慣れしてしまったと言うべきか。けれども、感染したら死ぬぞという恐怖はいつもある。こういう心持で暮らすのは初めてだなあ。

 

 外出が限られているせいもあって、変わり映えしない日々を送っている。こんなときに慰められるのは、新緑が日々変化して美しさを増すことだ。木というのは不思議なものだ。それぞれが時を知っていて、ある日一斉に芽吹く。ついこの間までほとんどすべての枝に昨年の茶色い枯葉をまとっていたブナが、ふと気づくと大きい木全体がふっくらとさわやかな緑色の葉に包まれている。

 

 今年はコロナのせいで3月ごろからはほとんど家で過ごしている。だから木々の観察もいつもより念入りになる。芽を出すのが遅いのは合歓だ。いまでもまだ枯れてしまったかのように、緑のない枝をひろげている。つい先ごろ、昼時にひょこっと顔を出したペンキ屋さんが、門を入ったところにある合歓の大木の幹に手を当ててこう言った。「これは枯れちゃってるな」。私は思わず言い返した。「それは合歓。芽吹くのが遅いの。あっちにある3本もみな、まだ芽を出していないでしょ」。まるで我が子の悪口を言われた母親みたいだと苦笑してしまう。

 

 このペンキ屋さんは、どうやら御用聞きに来たのだ。1年程前だっただろうか、ご近所の塀のペンキ塗りをしていたのに私が目を止め、いつかこういう仕事を頼まなければならない日が来るかもしれないと思って名刺をもらった。そのとき私は名乗らなかったはずだが、どのようにしてか我が家を探しあててやってきたというわけだ。

 

 ペンキ屋さんは我が家に目を走らせて、「お宅はまだ塗りなおしの仕事はありませんねえ」と言う。コロナのせいで経済活動が止まり、失業者が増えている。そこまでいかなくても仕事が減った人はずいぶん多いだろう。私もいまは引退の身だが、現役だったら確実に仕事は減っていたろうと思う。だから私ができるなら、そういう人を少しでも応援しよう、と日ごろから考えていた。だが残念ながらいまのところ、我が家にペンキ塗りの仕事はない。

 

 するとペンキ屋さんが、自分は別荘管理の仕事もしているからなんでもやります、というふうなことを言い出した。それで私は渡りに船とばかりに、手に負えない庭仕事をいくつか話してみた。込み入っている常緑樹の枝を少し切りたい。明らかに枯れていると思われる木を、いくつか始末したい。居間の窓の外の地面にレンガを敷き詰めて椅子を置けるようにしたい。などなど。

 

 だがそんなやり取りをしながら、実は私は台所が気になって仕方がなかった。ちょうど昼食用にピザを焼こうとしていたのだ。オーヴンを250度に温めている最中に、ペンキ屋さんがインターフォンを押したというわけだ。私は連れ合いのモトさんに、「250度になったらピーと合図が鳴るから、そしたら私を呼んで」と言ってきた。

 

 玄関から諸葛菜の紫色の花が咲き乱れる細道を門へと向かうと、ペンキ屋さんは私を見るなりポケットからマスクを出してかけた。コロナのために、こんな田舎町の人の少ない場所でもこういう習慣が身につきつつある。散歩中でも知り合いに会うと、マスクをかけて2メートル以上離れてお喋りをする。だから私もポケットにマスクを入れている。それで私もマスクを出してかけたりするうちに、話を打ち切れない雰囲気ができてしまった。

 

 ペンキ屋さんに手入れしたい個所を見せて話しながらも、台所が気になる。オーヴンに入れるピザは準備してあるが、250度に温まったら鉄板ごとオーヴンに入れるという、それだけのことがもうモトさんには頼めないのだ。モトさんの記憶力は、ここのところ急速に衰えている気がする。皆がこれほど怖がっているコロナのことでさえ、忘れてしまう。テレビの国会中継でも、皆がマスクしているのを不審に思うらしく、「東京は風邪が流行しているのかな」などとつぶやいたりする。だからオーヴンにピザを入れて焼き時間を8分にセットする、というだけのことがもう無理なのだ。果たして250度になったことを、無事知らせてくれるだろうか。

 

 玄関のドアが開き、モトさんが叫ぶ。「おおい、ピーと鳴ったよ」。モトさんは食いしん坊で、しかもピザは大好きだから、待ち遠しさのあまり合図音に気持ちが集中していたのだろう。私はペンキ屋さんを庭に待たせたまま台所へと走る。オーヴンにピザを入れて8分にセットし、また庭へと走って戻る。走りながら娘に言われたことを思い出す。「ママ、走っちゃダメ。この距離を走っても30秒の差もないでしょ。それよりころんだら大変だよ」。

 

 で、ペンキ屋さんにはやっと、「今日はこれくらいしか話はできない、今ちょうど手が離せない料理をしているから」と切り出した。いきなり来たのだから、そう言って断ったっていいだろう。するとペンキ屋さんは、「では金曜日に来てもいいか」と言い出した。この辺の人にしては珍しい押しの強さだ。だが彼が重ねて言ったのは、こんなことだ。「金曜日には定期検査で病院に行くことになっているから、その帰りに寄りたい。私も後期高齢者なものですから」

 

 昼食に焼きあがったピザを食べながら思った。そうか、あのペンキ屋さんも後期高齢者か。だとすると門のわきの枯れてしまったプルーンの大木を切ることなど、無理ではないだろうか。どの程度の仕事なら頼めるのだろう。これから暑くなるから、熱中症も心配だなあ。けど考えてみれば、私も同じような心配をされているというわけだが。