『暗いブティック通り』    私とは、いったい誰なのか?


 パトリック・モディアノ著『暗いブティック通り』のことを、最近しきりに考えていた。この本を私は、自分の本棚のお気に入りコーナーに入れていた。10年ほど前にこのコーナーをつくり、老人になって終日家にいるようにでもなったら気の向くままに手に取って楽しもうと、それにふさわしい本を集めているのだ。私はもともと、本だけでなく音楽や映画もしつこく何回も見たり聞いたりする癖がある。内容を知りつくした作品に触れるというのは至福の時だ。覚えのある感情や空想がまた湧き上がり、それに身をゆだねる。そのくせそれらはいままでとは微妙に違う色合いを帯びていたりで、それがなぜなのかと考えるのもまた楽しい。


 さて『暗いブティック通り』だが、今回また読もうと思いついてはみたが、かつて読みながら好奇心をつぎつぎ呼び起こされた感覚はよみがえるのに、あらすじや登場人物についてはほとんど忘れてしまっている、という珍しい経験をした。しかもこの本が、なぜか私のお気に入りコーナーから消えていて探しても探してもみつからない、という稀な出来事に見舞われた。自分の記憶力に漠然たる不安を覚えているさなかに、たまに行く隣町・東御市の図書館の書棚で、偶然にもこの本を目にした。人が少なくひっそりと静かで、窓からは小さな街並みと遠くの美しい山々が見渡せる、私の大好きな図書館だ。一瞬、あれ、私の本がこんなところに紛れ込んでいる、と思ったりしたが、とにかく喜んで借りてきた。


 読み始めてみたら、これもまた珍しい経験だが、まるで初めて読むような感覚だった。こうなると、悔しいことだが記憶力の衰えを認めざるを得ないのかもしれない。その証拠に、前回は話の展開をわくわくと追いつつ一気に読み切ったはずだが、今回は作中に時間も場所もばらばらに錯綜して出てくる登場人物を、あれ、これは誰だっけ、と頁を後戻りしてめくってみる必要にしばしば見舞われた。


 内容は大雑把に言えば、記憶をなくしてしまった男が、自分はいったい誰なのかを探る物語だ。自分と何かつながりがあったらしい人をぽつりぽつりと尋ね歩き、古い写真を手に入れる。そこに写っている人物をこれは自分だろうと推測していたのに、他人であることが判明したりする。昔の話を聞きだして、その断片から、覚えのない名前の人物が自分であるとの確証にぶつかったりもする。記憶をなくす前も、なくした後も、さまざまな名前を使って生きてきたらしく、自分の名前を知るまでにもかなりの時間がかかる。しかもその名前にさえどこか確信をもてない気分をひきずっている。そうこうしながら、自分がどうやらパリにある南米のどこかの国の大使館で働いていたらしい感じがよみがえってくる。フランス人の恋人がいて、彼女は服の仕立てをやっていたらしい。戦争中にフランスで拘束されるのを恐れてスイスへと国境越えをしようとしたが、大金を払って雇った案内人にだまされて雪の中に放置された。しかしそれと記憶喪失がつながっているのかどうかは、はっきりしない。国境を目前にした雪山で、安全のためにと二手に分けられた恋人のゆくえも、杳として知れぬままだ。人の輪郭というのは、じつはこれくらい曖昧なものかもしれないという不安にじわじわと浸されていく。


 この小説に惹かれる理由のひとつは、じつは私の母のことだ。母は82歳まで生きた。ところが私は、母のことをろくに知らないことにだいぶ前から気づいている。私たちは女4人男1人の5人きょうだいで、私はその真ん中だ。子供が複数いると、母親であっても当然ながら気の合う子供とそうでない子供というのができる。私は母親とはあまり親密な話はしなかった。母とどんなつきあい方をしたかが、子供それぞれで違っているのだ。私は母に干渉されることも少なかったかわりに、穏やかなよもやま話など交わしたこともなかった。何をするでもない時間を共に過ごすというようなことがあまりなかった。


 よもやま話や、日々の雑事にまつわる相手をしていたのは、どうやら上の姉だ。母は上京するときなどは上の姉に連絡をして、食事や買い物を一緒にしていたらしい。私は仕事で忙しかったから、そしてたぶんかなり突樫貪なところがあるせいで、母は上京の連絡さえよこさなかった。母と姉は贅沢さや裕福さが似ていたから、買う服や昼食に何を食べるかなどあれこれ言いながら楽しい時を過ごしたのだろう。そうした合間に、母は思い出話や日々の生活のさまざまを口にしたはずだ。母から聞いた話を、いまのうちに上の姉から聞いておけばいいのだろうが、それがそうもいかない。上の姉とは、もう20年近く会っていないし、むろん口もきいていない。会いたいとも思わない。べつに何のきっかけがあったわけでもないのだが。


 母とは、いったい誰なのか。そう考えるとき、私は初っ端から立ちすくんでしまう。母は1912年、台湾の屏東県橋仔頭で生まれた。当時の言い方だと、へいとうけん、きょうしとう、だ。ここを探し当てるのにも、長い時間を要した。1949年、中国大陸からやってきて台湾を統治するようになった国民党政府は、それまで使われていた台湾語の地名を嫌って、橋仔頭を橋頭に変えてしまったのだそうだ。


 鉄道の駅で、橋頭というのがそれだと教えられて、ある日橋頭駅に降り立った。歩いて10分ほどのところに、以前の製糖会社の敷地をそのまま使っている広い公園があった。幸い古い建物や全体の構造はかなり残されていて、社屋であった風情のある西洋風建築もあれば、幹部社員用であった大きい和風住宅もあった。防空壕も数か所にあった。空高く枝を伸ばした南国の大木が、溢れんばかりの緑や花々を振り撒いている。それらを仰ぎ見ながら、あの母がここで生まれて幼少期を過ごしたのか、と信じられないような気分だった。私の記憶に残る母は、信州の厳しい寒さに耐え、キリリと口を結んで立ち働く人だったからだ。


 そしていつのことだったか、仕事の関連でチェコ文学の翻訳を何冊も出されていた栗栖継さんにお会いした。たしか最初は、私が日本に紹介しはじめていた台湾映画の試写会に、友人に勧められたとかでいらしたのだと思う。映画をめぐってあれこれ話しているうちに、栗栖さんが母の娘時代のお知り合いだと知った。母が女学校時代にエスペラント語を学んだことは聞いていたが、その後神戸のグループに入って勉強を続けていて、その中心人物の一人が栗栖さんだったという。グループでは定期的に勉強会が開かれ、会場には会員の自宅が回り持ちであてられた。当時栗栖さんご夫妻は6畳一間のアパート住まいで、母もそこでの勉強会に参加していた。母の自宅が会場になったときは、まあそれはお城のような家でしたよ、というのが栗栖夫人の言葉だった。驚いたのは、お手洗いでもどこでも蛇口をひねればお湯が出たんです、と。


 私は中学生の夏休みに、そこに住んでいた祖母を訪ねたことがある。空襲で焼けたという屋敷跡は、うっそうたる森になっていた。その一角に、急場しのぎに建てた小さいバラックに、祖母はそのまま暮らしていた。森を通り抜けた裏側の一角には、野菜畑と鶏小屋があった。祖母はそこで白髪に帽子をのせて汗水たらして働き、夕方には洒落たプリント柄のワンピースに着替えて商店街に買い物に行く。祖母の手をしっかり握って人混みのなかを歩くのが、私には寂しいような楽しいような胸がぞわぞわとする出来事だった。


 母は小学校時代は台湾の高雄で過ごしたという。そのときは父方の祖父が同居していて、母は夕暮れ時など、庭に置いた床几に腰かけ、祖父からチェスを教わったという。なぜ囲碁や将棋でなくチェスなのかは、訊きそびれたのでわからない。母が小学校へ通う道には、毎日のように生蕃が数人、上半身裸で槍をもってたむろしていた。不思議なことに、怖いとも何とも思わずそばを通り抜けていた、と母は言っていた。


 私は台南で生まれたが、1歳そこそこで日本に来て寒さの厳しい信州で育った。ふらりと旅に出るときにはなぜかいつも北へと向かっていたものだ。それなのに、さまざまないきさつがあったすえに台湾にかかわる仕事を得た。台南に行くと、ここが生まれ故郷だと得心できるなにかがある。だから1年に少なくとも1回は訪れ、それはいわば心の平衡を保つのに必要なことだった。それがいま、コロナウィルスの流行のために自由に旅ができないのがなんとも辛い。


 母はいったいどうだったのか。母は晩年、エスペラント仲間を訪ねてしきりに旅をした。東欧へ行くことが多かったように思うが、母は何を探していたのか。母は彼の地でどんなことを語り合っていたのか。この歳になると健康診断書を出さないと航空券も売ってくれない、と母がぼやくのを聞いたことがある。ああまでして旅に出たのはいったいなぜだったのだろう。

 

映画『馬三家からの手紙』への疑問   ドキュメンタリー制作者の矜持とは?

 

『馬三家からの手紙』というドキュメンタリー映画がある。
 馬三家というのは、中国の馬三家労働教養所のことだ。思想犯が捕らわれて過酷な拷問を受けつつ取り調べられ、強制労働に従事している。映画の監督およびプロデュースはカナダ在住のレオン・リー、2018年の作品だ。監督は中国の人権問題に取り組んでいて、中国の違法臓器売買を描いた『人狩り』(2014年)は、世界に衝撃を与えた。

 

 今回の『馬三家からの手紙』は、中国での法輪功に対する弾圧が取り上げられている。法輪功は気功の修練法だが、1992年に李洪志によって始められるや学習者が急増した。1999年、それに脅威を感じた江沢民政府は法輪功邪教とみなして活動を禁止。激しい弾圧をくわえるようになった。

 

 私は偶然にも2000年夏にニューヨークで法輪功に出会っている。所用でしばらく滞在した折に朝の公園で気功のグループにくわわるのを楽しみにしていた。公園はチャイナタウンに近かったので、太極拳や社交ダンスをやる人、自慢の鳥かごを持ち寄る人など、まるで北京あたりの公園と見まがう光景だった。そのなかでひときわ静かにゆったりと体を動かしているのが、この気功グループだった。あの時私は、胡坐座で気功をやる独特の姿勢から、あれが法輪功であることに気づいていたと思う。それに東京・池袋の中国人ばかりが集まる食堂などで入手できた中国語新聞で、法輪功が厳しい取り締まりの対象になっていることも知っていた。だがなんといってもあそこは中国から遥かに遠いニューヨークだ。私はむしろ自分の体調を整えることに懸命で、ひたすら気の流れに集中して体を動かしていた。周囲の中国人たちもそろって寡黙で物静かな感じで、小声で挨拶を交わしただけだった気がする。

 

『馬三家からの手紙』の主人公・孫毅(ソン・イ)も、外見や物腰から穏やかで静かな人柄が伝わってくる。彼はある日法輪功に出会い、熱心な学習者となったという。自分の内面に向き合い、体を鍛錬して精神を高めていったのだろう。彼の妻も映画の中で、孫毅は法輪功に出会って以来、驚くほど無欲になり、困っている人に迷わず手を差し伸べるようになったと語っている。

 

 映画制作の発端は、孫毅が馬三家に捕らわれていたさいに、所内の工場で作らされていたハロウィーンの飾り物の箱に、ひそかに忍び込ませた手紙だった。ひどい拷問の実態をなんとか世界に訴えたいと命の危険を冒して英文の手紙を何通か書き、その手紙を人権団体に渡してくれと書き添えた。そのなかの1通が、アメリカ・オレゴン州の小さい町に住む女性ジュリー・キースのよって発見された。彼女の手で、その手紙はなんとか人権団体に届けられ、国際的なニュースとなった。

 

 レオン・リー監督はこのニュースを見て行動を起こした。それまでに培ったルートを使い、ついに手紙の主である孫毅に連絡をつけた。孫毅は、このときは馬三家から釈放されて北京で技術者として職に就いていた。レオン・リー自身は、その活動歴からして中国に入国するのは不可能だ。それで彼はオンラインで撮影の仕方を教え、孫毅らに中国内での撮影を依頼した。もともと法輪功に対する弾圧を世界に知らしめたいと願っていた孫毅は、危険をも顧みず撮影を敢行し、データを暗号化してレオン・リーへと送った。孫毅は万事に控えめな態度からすると驚くほど多才な人だ。撮影がかなわぬ拷問の場面は、実体験者である孫毅が自ら描いた迫力あるイラストで表現されている。

 

 中国政府の監視は厳しい。それでも孫毅らは法輪功を広めるためのチラシをつくり、配布を続ける。法輪功の集まりも危険を冒して続けられる。孫毅の妻は、結婚してからも安らかな落ち着いた日々はほとんどなかったことを嘆く。孫毅もそれを残念にも申し訳なくも思いつつ、どうしようもない。だが孫毅の身に、ひしひしと危険が迫ってきた。夫婦は国外に逃亡しようとするが、ぎりぎりのところで妻は病身の父親のために逃亡を取りやめ、孫毅だけが危うくインドネシアへと逃れる。

 

 インドネシアで身を潜めて難民申請の受理を待つ孫毅に、連絡がくる。彼が命がけで助けを求めて出した手紙をみつけて、人権団体へとつなぎ、馬三家での法輪功学習者らへの人権抑圧を公にするきっかけをつくったオレゴン州の主婦ジュリーが孫毅を訪ねてくるというのだ。

 

 ジュリーはほとんど地元を離れたこともない旅慣れない女性だ。大げさに家族に見送られ、まったく知らないインドネシアの地へと旅立つ。だがそれが彼女自身の意志によるものかどうかは、映画では語られない。そこにはたぶん映画制作側からの示唆があったのではないかと思われる。つまり、孫毅の物語を作品として成立させるために孫毅とジュリが会う絵がほしいと制作者が考えたのではないだろうか。

 

 孫毅の方ではどうだっただろう。彼には中国での人権抑圧を世界中に訴えたいという強い意思はあった。だからこそ命がけで英文の手紙を書いて、ハロウィーンの飾り物の箱の中に忍ばせた。映画制作にも協力して、中国国内での危険を伴う撮影もこなした。そしてついに国外逃亡をしなければならないほど追い詰められた。それでもなお、この映画を完成させて中国の人権抑圧を少しでも食い止めたいという強い気持ちは持ち続けていただろう。

 

 だから彼はインドネシアでジュリーに会った。もちろん彼の手紙を発見して人権団体へつないでくれたジュリーにお礼も言いたかったはずだ。だが裏路地の隠れ家にひっそりと身を潜めていた孫毅が、外国人だけしか泊まらないホテルなどまで出かけてジュリーに会う場面は、見ているだけでもハラハラする。ああいう場所は、中国当局の監視も当然厳しいはずだ。なぜ孫毅にあんなに目立つ行動をさせるのか、と。しかもジュリーだけでも充分人目を引くのに、二人の対面の場面は撮影までされているのだ。撮影スタッフまでいたとなると、周囲に気づかれずにすますことは不可能だろう。

 

 孫毅はジュリーにも相変わらず穏やかに接して、礼を述べたがいの家族のことなど語り合う。ジュリーは1泊か2泊しただけで安全な米国へと戻っていった。だが、孫毅はそのすぐあと中国の公安当局からの接触を受け、原因不明の死を遂げてしまった。

 

 当作品制作関係の資料をあたっても、いまのところなぜジュリーをインドネシアまで行かせたのか、それが誰の意図だったのかは分からない。この件に関する監督のコメントも見当たらない。だが私はどうしても問わずにはいられない。ジュリーと会ったせいで、孫毅は中国公安当局に目を付けられ、消されたのではないか、と。こんなに危険なことは映画制作者としてすべきではなかったのではないか、もしジュリーが自分でインドネシア行きを望んだとしても止めるべきではなかったか、と。

 

 同時期に、同じ映画館・上田映劇で、中国のドキュメンタリー「死霊魂」が上映された。王兵ワン・ビン)監督の作品で、中国の反右派闘争で投獄され、危うく餓死を免れて生き延びた人々を追ったものだ。こちらは8時間40分にも及ぶ超大作だが、登場人物の語りを辛抱強く引き出し、彼らを真の主人公に据えた見事な作品だ。王兵監督は、デビュー作「鉄西区」から一貫して、まったく観客に媚びることのないドキュメンタリーを世に送り出している。

 

 制作者が、ドキュメンタリー作品の取材源でもある登場人物にどうかかわるか。深く考えさせられた二作だった。

ペンギンの憂鬱   新型コロナウィルスの日々

 


 新型コロナウィルスのことを考えるのは、もううんざりだ。しばらく考えないでいたい。ウィルス感染の拡大よりももっと腹立たしいのが、政府の対応だ。政府は場当たり的な政策を打ち出すだけで、決定までのプロセスや責任の所在を明らかにしない。誰も政府を信用していない。政府の発表とは裏腹に医療体制は逼迫していて、近い将来に重症患者の受け入れさえ困難な事態が起きそうな気がする。


 ここ小諸市では、7月下旬の数日間に相次いで2人のコロナ感染者が出た。1人は銀行員、1人は市職員で市役所ではなくどこかの現場勤務だという。銀行員の感染が報じられた翌日ごろ、銀行正面の大きなガラスにコンクリートの塊のようなものが投げ込まれて、ガラスが穴が開いた。馬鹿なことをするヤツがいるものだ。


 そんなふうに不安や不快の澱が心にたまっているなかで、『ペンギンの憂鬱』(アンドレイ・クルコフ著)を再読した。15,6年前に連れ合いのモトさんがおもしろいと言っていたので読んでみた。本当におもしろかった。今回はモトさんの書棚から黙って抜き出してきて読んだ。読みかけを居間のテーブルに置いていたら、モトさんが本を手に取って「これおもしろい?」と私に訊いた。表紙のイラストが素晴らしい印象に残る装丁なのだが、それもモトさんの記憶からは消えているようだ。「とてもおもしろいよ」と私は答えた。少し前なら「何言ってるのよ、あなたがおもしろいと勧めてくれたんじゃない」とか言っただろう。いまは言っても仕方がないと分かっているから、その言葉を呑み込んでしまう。寂しいことだ。実はこれこそがペンギンならぬ私の最大の憂鬱のタネなのだが。


 話の舞台はウクライナの首都キエフ。売れない作家ヴィクトルは、動物園が餌代がなくて飼えないから欲しい人に譲るというので、ペンギンのミーシャをもらってきて一緒に暮らし始める。その1週間前にガールフレンドに出て行かれたばかりだった。ミーシャはヴィクトルが買ってくる冷凍の魚を食べて、ソファの後ろで立ったまま眠る。ペタペタと音を立てて屋内を歩き回り、風呂で水を浴びるのを喜んだりしている。


 不遇のヴィクトルに新聞社から妙な仕事が舞い込んだ。まだ生きている人の追悼文を書くというものだ。それはそれで楽しくもあり、文才を活かすこともでき、なによりも定収につながる。書き上げた原稿を編集長に渡して褒められたりしている日々のなかで、ヴィクトルは小説の執筆にとりかかる意欲もなくしそうな気配だ。


 この仕事を通じて友人もできる。取材で留守にする間ミーシャの餌やりをしてくれた警官と親しくなり、いろいろ助けられるのだが、警官はモスクワに出稼ぎに行き死んでしまう。ペンギンと同じ名前のミーシャという男が、友人の追悼文を書いてくれと頼みに来るのだが、彼も幼い娘ソーニャと大金の養育費をヴィクトルのもとに残したまま、誰かに殺される。新聞社の資料を読んで訪ねて行ったペンギン学者には、ペンギンのミーシャはもともと心臓に欠陥があり憂鬱症だと知らされる。そのうえ学者の死後の書類の後始末を頼まれた。彼は病死だったが、ヴィクトルは言われたままに彼の家に火を放つ。


 一方では妙なことが起きている。追悼文を書いた人たちが、死んでいくのだ。誰かが死ぬ日を決めているようだが、それが誰かはよくわからない。ヴィクトル自身にも、彼に仕事を依頼している編集長にも、仕組まれた死が忍び寄ってくる気配がする。ヴィクトルはペンギンではないミーシャの娘ソーニャを育て、友人の警官の姪でソーニャの世話を頼んだニーナと親密になり、一緒に暮らし始める。形だけは幸せそうな家族のようだ。


 ペンギンのミーシャにも、妙なことが起こり始める。ヴィクトルが書いた追悼文が新聞に載ると、それは大物の葬式が執り行われることを意味するのだが、そこへ破格のギャラつきでミーシャが招待されるようになるのだ。彼らの死の日取りを誰かが決めているらしいが、それもしかとはわからない。ところがミーシャは体調を崩してしまう。病院に入れると、人間の子供の心臓を生体移植するしか助ける道はないと言われる。その手術に必要な手続きや心臓の入手は、大物の葬式を取り仕切っている男が引き受けてくれ、なぜかうまくコトが運んでいく。


 ヴィクトルは、ミーシャを生まれ故郷の南極へ帰すことに決める。そしてニーナにソーニャを託す旨のメモを残して姿を消そうとする。
 理不尽なことが次々に起こり、ざわざわとした不安に駆られるヴィクトル。しかしニーナはどうやらそういう不安とは、一緒に暮らしていながらも無縁のようだ。この本はウクライナよりもむしろヨーロッパでベストセラーだったという。政治体制とは関係なく近代社会で人々が感じる不安が、共感を呼んだ理由だろう。


 昨日2020年7月30日夕方、小諸市では最近の2例に次いで3人目の新型コロナウィルス感染者を発表した。私がいつものように近くの城址公園・懐古園でジョギングをしていると、緊急事態を告げる放送が流された。実は、この放送はふだんからきちんと聞き取れることはほとんどない。まわりを山で囲まれている地形ため、音がこだましてわんわんと言葉が重なってしまうのだ。

 

 放送が聞こえないというのは、ほとんどの人が言っているし、私自身もこの市に引っ越してきた11年前から、何回も市役所にその旨伝えている。だが一向に改善されるようすはない。電話をするたびに市役所職員は「はい、わかりました。担当者に伝えておきます。よろしければご住所とお名前を教えてください」と判で押したような言葉を繰り返すだけだ。ほんとうに洪水や強風などで避難が必要になったら、どうやって連絡をするのだろう。連絡手段がないことが心配で、眠れなくなったりする担当者や市長はいないのだろうか。私たちが住むこの社会だって、相当おかしい。


 ともあれ、昨日夕方は風が穏やかだったせいか、公園内で足を止めて耳を澄ますと、いくらかは聞き取れた。つまり新たなコロナ感染者がみつかったことだけは理解できた。その後、懐古園の管理事務所が園内の施設に配った通知などを見せてもらって分かったのは、次のようなことだ。


 3人目の感染は、先日感染が確認された市職員の母親である70代の女性だ。PCR検査で陽性が判明した。彼女は理容室で働いていたので、感染リスクのある期間に理容室に行った客など濃厚接触者は110人にのぼる、ということだ。市当局は、該当者に保健所に連絡するよう呼び掛けている。だが、全国あちこちで保健所に電話するにしても何十回もかけなければつながらない、というのはほとんどの人が知っていて、これまた全く改善の兆しも見えない。数日間に理容室に行った客の数があまりにも多いので、この理容室をネットでチェックしてみたら、カットが880円という破格に安い店だった。感染リスクも、こうして安い店を利用する人に偏るのだろうか。

 

 そしてさらに今日、女性の濃厚接触者の一人である理容室の経営者、70代男性の陽性が判明した。さて感染はどこまで広がるのか。こういう憂鬱な時期に「ペンギンの憂鬱」など読んだのは、まずかったかもしれない。そこはかとない、ざわざわとした不安が、あまりにもいまの私が感じているものと似通っている。それでも長かった梅雨はやっと開けるらしい。今日は窓の外には真っ青な空と、一気に夏の色になった山の緑が広がっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

同級生を訪ねる    新型コロナウィルスの日々

 


 2020年7月20日、東京では連日新規のコロナウィルス感染者が200人を超え、大阪、名古屋、福岡など都市部の感染者はすべて増加傾向。ピークと言われた4月の感染者数を超えるのは明らかになりつつある。それだけでも気が重いが、政府の無策ぶりがそれに追い打ちをかける。

 

 新型コロナウィルスは感染力が強く、そのうえ感染していても無症状の例がとくに若者に多いことから、当初からPCR検査を増やして陽性者を隔離するのが肝要だと言われている。だが政府はいまだにそれを実行に移せないでいる。そのくせ無用な布マスクを全戸に2枚ずつ配布などという、それが政府のやることかと思うようなくだらないことで税金を無駄遣いする。全国民に一律10万円を給付する際にも、何年も前に莫大な予算をつぎ込んで始めた国民総背番号制マイナンバー制度がまったく役立たずで、結局地方自治体が手作業で配布業務をやるはめになり、大変な労力と時間を要した。挙げていけば嫌になるほど、政府の施策はことごとく失敗している。

 

 そのうえこのところ大不評なのがGoToキャンペーンなるもので、コロナ流行のせいで疲弊してしまった観光業を助けようと旅行に補助金を出す制度だ。コロナ流行再燃が恐れられているいま、政府は8月実施の予定を前倒ししてまで7月22日から始めることを決めた。怪しいなと思っていたらやはり、このキャンペーンの受託団体が自民党の大物二階幹事長と菅官房長官に4500万円とかの政治献金をしていたことが、週刊文春にすっぱ抜かれた。政府は火事場泥棒みたいにコロナ騒ぎのさなかに私腹を肥やす連中の集まりみたいだ。だがいずれこれで都市部のウィルスが地方へばらまかれていくのだろう。ほんとうに恐ろしいことだ。

 

 7月20日は、天気予報では曇り一時雨だったのが、朝から空は晴れ上がり、蒸し暑い一日になるだろうと予想された。ふだん私は自分が電話嫌いなせいか、なかなか人に電話することができない。相手がいま何をしているか、邪魔にならないかと過度に気にするクセがあるのだ。だがこの日、私は常になく素早く友人に電話をし、強引に彼女の家に行くことを決めた。彼女は高校の同級生、つまり半世紀以上の付き合いだが、実際には卒業後してきたことはまったく違うため、会った回数は指折り数えられるくらい少ない。それでも会いたいと思い、何十年ぶりに会ってもいきなり悩み事を話せる数少ない相手だ。彼女はいま隣町でほぼ一人暮らしだ。ほぼ、というのは、車で20分ほどの隣村に夫がやはり一人暮らしをしていて、お互いにたまに訪れて泊まったりなどしているようだからだ。それでも彼女の家へ行けば、たいていはしんと静かな家の中に彼女と二人だけで心置きなくおしゃべりができる。

 

 電車で20分、友人が車で迎えに行くと言ってくれたのを断り、歩いて行くことにした。一見遠そうだが、近道を覚えたいまでは私の足なら12,3分で彼女の家に着く。ところが今回はどうやら曲がり角を一つ間違えたらしい。確かに彼女の家の近くにいるはずなのに、一向に近づかない。これ以上進むとたぶん遠ざかってしまうだろうと思い、眼科医の大きな看板の前から電話をした。すると友人は「分かった、すぐ行くから待っていて」と言う。

 

 友人を待ちながら思い出したことがある。今年10歳年上の友だちから頂いた年賀状だ。こんな文面だった。「人生最後の一人旅で、沖縄に一泊旅行をしました。南城市にある”胃袋”という変わった名前のレストランで、美味しいものを食べてきました。ホテルを出ると、自分の部屋に戻るのに何度も迷子になりました。”惚け”、始まったようでございます。でも、まだ仕事は続けています。もう少し続けられるかな、と思いながら・・」

 

 眼科医の看板のわきで暑い日差しを帽子で遮りながら友人の迎えを待つうちに、憂鬱になってきた。惚けが始まったのだろうか。すると私を呼ぶ声が聞こえた。思わぬ方角から友人が現れ、私に手を振っている。通りを渡って友人に合流し、並んで歩きながらこの10歳年上の友だちからの年賀状の話をした。すると友人はこう言った。「この辺りは昔は田んぼで、あぜ道がそのまま通り道になったらしいの。だからくねくねと曲がる細道がたくさんあって、しかも花や木に囲まれた同じような家が並んでいるでしょ。私も引っ越してきたばかりはよく迷って、自分の居場所がわからず気がおかしくなったのかと思ったりしたのよ」

 

 なんだか、こんな些細なやりとりで、ほっとする。慰めが欲しかったのだろうか、と思う。実は妙に切羽詰まった思いで無理やり友人に会いに来たのは、こんなことがあったからだ。いま我が家には私の娘が滞在中だ。こんなふうにコロナウィルスの感染者が世界で1500万人などと報じられているいま、なるべく動かずに安全に過ごしてほしいと私は思うのだが、娘はイギリスに行くチャンスを狙っている。仕事や友人が待っているのだ。心配な気持ちを抑えながら娘と話していると、娘がこんなことを言ったのだ。「コロナウィルスの流行で、もしまたロックダウンや自粛生活をしなければならなくなったら、私はロンドンにいて、あの友人たちと過ごしたい」

 

 それで私も思った。そうだ、私も次の自粛生活に備えなければ。心穏やかに過ごせる方法を見つけておかなければ。そう思ったからと言って、なぜこの同級生に会いに来たか。それはこうした小さい慰めをいくつかもらえる相手だから、ということではないか。私は実は、コロナウィルスの流行が始まったとき、なんだか余命宣告を受けたような気分に陥った。そしてそれはいまも続いている。コロナウィルス収束には1年か2年を要するだろう、と言われている。若い人たちはその先を考えているだろうが、70代半ばを過ぎた私にはその後の人生を設計することは至難だ。その話をするとこの同い年の友人はこう言った。「ムシの知らせというのはあるらしいからね。だったら気になっていることを少し片づけたらどう?」。その通りだ、と少し気持ちが落ち着く。こういうときに上っ面の慰めなど口にしないのが彼女だ。

 

 けれども私はと言えば、彼女になにをしてあげられるというのだろう。彼女の手作りの昼食をごちそうになり、帰ると言って立ち上がると、彼女が運動がてらと言いながら駅まで送ってくれた。私の早足に付き合った彼女は駅に着くとマスクにまで汗をにじませていた。その彼女に別れを告げてまだ日が高い駅前に残したまま、私は駅の階段を駆け上り、電車に飛び乗って帰ってきたのだ。きっとそのうち、また会いに行きたくなる。そのときには、いまより切羽詰まった気持ちが和らいでいるよう望んでいるのだが。

ついに小諸でコロナ患者発生   新型コロナウィルスの日々

 


 2020年7月21日、信濃毎日新聞小諸市でコロナ患者が発生したことを報じた。人口約4万、浅間山麓にあるのどかなこの町でもついに、という感じだ。感染者は20代男性、長野銀行小諸支店勤務で外勤だという。濃厚接触者は家族、同僚2人、外勤の訪問先2人とのこと。初めて身近で起きた例だが、3月ごろから続いていた新型コロナ騒動のせいで慣れてしまったのだろう、私を含めて緊張感はあまりない。静かに新たな情報を待つだけだ。

 

 その後のテレビニュースで、この若い銀行員が佐久穂町の住人だということ、ここ2週間以内に業務では県外に出ていないこと、などが伝えられた。つまり彼は車で30分ほどの距離を毎日通勤していたことになる。業務では県外に出ていないとのことだが、ならば私用では東京あたりにでも行ったのではないか、とだれもが心の内で思うはずだ。いまいちばん危険とされている新宿の「夜の街」、飲食を伴う接待をする風俗営業の店などに行った人は、なかなか自分の行動経歴を話さないというではないか。と憶測が広がる。つまり私たちが知りたいのは、どこでどのように感染したかだ。もし業務以外でも県外に出ていないということなら、彼は小諸市佐久穂町で感染したことになり、そうなれば私たちも感染する可能性が高いということになってしまう。けれど新型コロナウィルス陽性が判明して時間がたっても、感染経路は一向に明らかにされない。私もつれあいのモトさんも、長野銀行と縁がないではないが、ここしばらくはこの銀行も、銀行前に設置されている三井住友銀行のATMも利用していない。

 

 同じテレビニュースで長野県内でもう一人の感染者が出ていたことを知る。東京在住の80代男性。家族と一緒に上田市を訪れていた際に転倒事故を起こし、病院に搬送された。その病院がたまたまコロナ感染症指定病院だったせいもあって、男性に微熱倦怠感などがあったことからPCR検査をしたところ陽性と判明したという。検査結果が出る前に男性に接触してしまった人たちは、現在PCR検査の結果待ちとのことだが、恐怖にかられていることだろう。だから東京から来た人が嫌われるのもやむを得ないことだ。上田は小諸からは電車で20分の距離だ。私は実は19日、20日と2日続けて上田に行っていた。この男性の場合も転倒事故がどこで起きたのかなどは不明のままだ。だが私はたぶんこの男性とは接点はないだろう。

 

 この日午後になって、モトさんは行きつけの喫茶店へ出かけて行った。するとモトさんが週一回通っている筋トレ教室から電話があった。市内でコロナ患者が発生したので、明日から当分教室は休みにする、再開のときにはまた連絡する、とのことだ。筋トレ教室は老人介護施設が主宰している老人向け体操教室だから、高齢者ほど重症化しやすいコロナ感染に神経質になるのは当然のことだ。3月4月5月の3か月間も、コロナのせいで休みだった。その影響かどうか、モトさんは椅子から立ったり座ったりするのさえ難儀になった。やっとなんとか歩けるようになったところだから、こんどの休み期間は気をつけて過ごさなければならない。

 

 だがほかにも心配事はあって、それはモトさんがコロナのことさえしょっちゅう忘れてしまう、ということだ。今日のように喫茶店に行ったり。たまに酒を買いに行ったりするとき、いくら言ってもマスクを着けるのを忘れる。周囲の全員がマスク姿でも、何も気づかず平然と一人マスクなしでいたりする。だからモトさんが帰宅すると、ほらまっすぐ洗面所へ、手洗いうがい、と号令をかけるのだが、モトさんはそれに従いつつも、なぜそうしなければならないのかピンとこないふうだ。

 

 ところで市内でコロナ感染者発生のニュースがあった7月21日は、土用丑の日でもあった。いま我が家には私の娘が滞在中だ。昨年暮れから東京でアメリカのテレビドラマの撮影クルーにくわわって仕事をしていた。シリーズものなので10か月間の予定で、9月まで拘束されるはずだったが、コロナのせいで3月いっぱいでいったん打ち切りになった。監督は5月に会おうと言ってアメリカへ帰ったそうだが、どうやら再開の見通しは立たなくなった。娘はイギリスで別の仕事の予定があり仕事仲間が待っているからと、渡英のチャンスをねらっている。航空便も渡航先の受け入れ態勢もコロナの状況で刻々動くから、予定を立てるのも大変だろうが、娘はなにやら黙々とことを進めているようすだ。

 

 そんなこんなでせっかく娘がいるのだからと、丑の日のウナギの買い出しに一緒に出掛けた。魚類の品ぞろえがいいスーパーに着くと、娘がマスクを忘れたことに気づいた。私はいつもはバッグに予備を入れているが、この日に限ってそれがなかった。仕方がないので私が店内でマスクを調達し、外で待っていた娘はそれを着けて一緒に店内に入った。ちなみに使い捨ての不織布マスクが5枚入り160円ほどで買えた。

 

 それにしてもウナギ売り場の見事さといったらなかった。大量のかば焼きが結構高価なのにどんどん売れていく。静岡産と愛知産がほぼ半々にならんでいたので、モトさんの出身地の愛知産を買うことにした。私はふだんから小食なのだが、娘に食べられるよ、挑戦してみなよ、などとそそのかされて、私のぶんも同じような大きいウナギにした。

 

 夕飯どき。実は昨日夕飯を食べながら、丑の日のウナギはどうしようかとモトさんの意見も聞いたのだ。どこか料亭に予約を入れてみようか、かば焼きを買ってきて自宅で食べようか、それともあそこの川魚料理屋でさばいてもらって、焼くのまでやってもらえないだろうか、などなど。だがモトさんは昨日そんな話をしたことも、今日が丑の日だということも、すっかり失念していた。
 それでもおいしい大満足の夕飯だった。当地のコロナ患者の動静をニュースで追いかけながらではあったが。

『ストーナー』を読む   新型コロナウィルスの日々

 


 2020年7月13日。4,5日前から東京では感染者が連日200人を超えている。昨夜遅く見たニュースでは、家庭内感染で生後2か月の乳児が感染し、幼稚園や保育園でも集団感染が発生しているという。この近くでも軽井沢で1人感染者が出た。30代男性で東京と軽井沢に自宅を持ち6月初めから数回往復していた。6日に都内の友人宅で4人で会食をした際に感染した模様。濃厚接触者の検査を実施中。
 不安材料はいくらでもある。不安に陥らないようにするには、ニュースに目を閉じるしかない。どうなっていくことだろう。

 

 こんな日常と全く違う心持を味わいたくて小説を読む。『ある一生』ローベルト・ゼーターラー著、『三つ編み』レティシア・コロンバニ著などだ。
ストーナー』ジョン・エドワード・ウィリアムズ著、がとくべつにおもしろかった。しかしなぜおもしろかったのだろうと、読後何日間もたびたび考えている。平凡な男の一生をたんたんとつづっただけの作品なのだ。

 

 主人公ウィリアム・ストーナーは、ミズーリ大学で英文学を教えるしがない助教授だった。貧しい農家に生まれて、子供のときから一貫して両親の農作業を手伝い、成績がよかったためにミズーリ大学で農業を学ぶことを勧められた。大学に入ったのは1910年、19歳のときだった。入学後は遠い親戚の家に寄宿し、下宿代代わりに農作業を課されていた。
 ある日、英文学の授業で深い感銘を受け、両親には相談もなしに専攻を文学に変えた。それからは図書館にこもり読書づけになる。文学に魅了され、ぐいぐいとあらたな作品や領域へと入り込んでいくさまがよくわかる。講師になって若手の仲間とのつきあいもでき、3人で楽しく語り明かすようになった。第一次世界大戦が勃発。仲間の2人は志願して従軍する。愛国心もあるし、その後の出世に有利という理由もある。だがストーナーには、そのような感情はまったくなく、そのまま学究の徒としての生活を持続した。
 そんなストーナーも、目くるめくような恋に落ちる。自分の働き続けた武骨な手とはそぐわないほどの、ほっそりとした女性だ。だがストーナーはまっすぐ突き進んで彼女との結婚を果たす。娘が生まれる。しかし結婚生活は幸福とは言えなかった。なぜか心が通い合わない二人のさまが、簡潔な描写だが妙にリアルだ。
 ストーナーは熱心に授業を進める。そんなある日、講師で彼の講義を聴講していた女性と恋に落ちる。家では妻に疎まれていたこともあり、彼は頻繁に彼女の下宿を訪れ、二人は熱い恋のさなかにそれぞれの研究成果を実らせていく。不思議とその間に妻との関係も穏やかな落ち着いたものになった。けれども聴講生との関係はしだいに噂にもなり、それがストーナーに好意を持っていない同僚に利用され、ストーナーは窮地に陥る。聴講生はストーナーにも告げず、ある逢瀬の直後に黙って大学に辞表を出し遠くへ去った。
 その後のストーナーは、研究に打ち込むよりは授業に熱を込めて取り組むようになった。遠くへ去った聴講生の消息は数年ものちに一度きり、発表された論文で知っただけだ。素晴らしい彼女らしい論文。献辞にストーナーのイニシャルが記されていた。ストーナーは中世文学の研究で、知る人ぞ知る論文を残しはしたが、助教授のまま定年を迎え、ちょうどそのころに癌の発症をかかえて身を引いた。彼はそれほど長くない自宅療養を経てこの世を去った。

 

 分厚い本だったが、一度も読み返すこともなく、こうして筋を追いなおしてみた。それで何がおもしろかったのだろう、とやはり自分に問いかけずにはいられない。ここには生きるということの本質が描かれているのかもしれない。人は生まれる場所を選べない。その場になんとか馴染んで生きていく人もいるが、その場を自分の身からもぎ離して、他の場所で生きようとする人もいる。いずれにしても生じるであろう日々の葛藤や軋轢は、本人にとっては日々の闘いだが、実はほんの些細な出来事なのだろう。私はどのようにして生を終えることになるのだろうか。


 

運転をやめさせる  新型コロナウィルスの日々

 


 2020年6月29日。梅雨の合間の貴重な晴天。明日からはまた雨が続くとのこと。散歩したり窓から眺めたりと青空を楽しんだが、ひどく蒸し暑い日でもあった。この日、世界で新型コロナウィルス感染者が1000万人を超え、死者は50万人を超えたという。驚くべき数字だが、そのうえ感染者の4分の1はアメリカというから、これもまた興味深いことだ。


 連れ合いのモトさんは、この暑さのなか2時を過ぎたころ出かけて行った。セイユーへビールや酒を買いに行くという。近ごろでは車での行先は3か所ぐらいになっているから、あまりうるさく気をつけろなどと言わなくなっていた。ところがモトさんはすぐに戻ってきた。そして梅酒をつくるために梅の実のヘタを取っていた私のところへ来て、「車の前のところが、なんか壊れちゃったみたいだがどうしよう」と言う。「ちょっと待ってて、いま仕事中。一段落してから行くから」と私は振り向きもせずに答えた。何かと言えば「どうしよう」とやってくるモトさんに、いちいちきちんと答えていては身がもたない。


 梅を大きな瓶に入れ、氷砂糖を入れて焼酎を注ぐ。重い瓶を食品庫へ運び、棚の一番下の薄暗い場所に押し込む。それから庭に出て駐車場に行ってみた。すると前のバンパーの右側が垂れ下がって地面につかんばかり。そしてバンパーの上にある正面の排気口前の飾りがストンと落ちてしまっている。どうやら車をバックさせて道路に出ようとして右前を門柱に引っ掛け、そのまま強引に動かしたため大きく破損したと見える。


 我が家の駐車場は、植木屋などが4トントラックを入れたりするくらいのスペースがある。いままでも門柱で少しこすったりしたことはあったが、こんなのは初めてだ。門柱に接触したとき止まれば問題がなかったものを、なぜそうしなかったのか。だが今そんなことを言ってはいられない。


 車検その他でいつも世話になっている地元のディーラーに電話をすると、運悪く休みだった。留守電のメッセージが「車の故障の場合はJAFまたは保険会社に電話をしてください」と言っていたので、保険会社に電話をした。その日のうちに、保険会社から派遣された警備会社が車の状況を見に来た。翌日にはディーラーとも連絡が取れ、言われるままに保険会社に連絡して、レッカー車で事故車をディーラーまで運んでもらった。その翌日には、こちらが説明した事故状況と車の損傷具合に矛盾がないからと保険金の話がまとまった。全損扱いになるのだという。車は自己負担はあるものの修理してもらうことで決着した。修理完了までには予想外に時間がかかりそうで、車のない1週間あまりを過ごすことになった。

 

 そんなこんなのあわただしかった数日間、モトさんは私から見れば暢気に過ごしていた。夕飯の支度をしている最中に保険会社やディーラーや関連の業者から矢継ぎ早に電話が入り、私があたふたしていても、モトさんは早々とワインなど飲み始めている。朝からいくつかの車関連の用事がたてこみ、ほっと一息ついたら、モトさんはお腹がすいたとラーメンなどつくり始めている。「キミも食べる?」などと言うけれど、モトさんのつくる、ただ煮ただけの粗末なラーメンなど食べる気がしない。あののんびりさかげんに、何回怒りが爆発しかけたことか。


 モトさんには、もう車を運転しないよう申し渡した。修理代の自己負担分も伝えて金を用意しておくように言った。「もの入りだなあ」と嘆くモトさんを、「自分も他人も傷つけず、この程度ですんだことを幸いと思ったらどうだ」と慰めるのも私の役だ。実際、運転をやめるいいきっかけだったと思う。


 あれから3日ぐらいたっただろうか。一日に数回モトさんはこんなことを私に訊く。「うちの車は、いまどこにあるの?」「べつに修理なんかしなくても、手でぎゅっと押し込んだら運転できたんじゃないかな」「あの車はいったい、どんなことがあったんだっけ?」「あの車は、誰がどうして、いまどうなっているの?」。私は「うるさい!」と怒鳴りそうなのを必死でこらえる。今朝など、新聞を取りに行って帰ってきたモトさんはこんなことを言った。「あのさあ、うちの車がないんだけど、どうしたんだろう」。私はもう、むっつり顔を決め込んで何も返事をしない。そのことで胸がチクリと痛む。けれども無言が最善の策だといまのところは思っている。