海   母の思い出1


 山国信州では、小中学校の夏休みは4週間しかなかった。
 それでも強い太陽の光の下で、真夏の暑さは充分に堪能した。だがなぜだろうか、夏の思い出にはカンカン照りの日差しに隈取られた、そこはかとない悲しみがまとわりついている感じもする。

 

 子供たちは、暑いさなかにもっともっと暑さを味わいつくしたくて、日盛りの野原へ、はては足裏を焦がしそうに熱い石を踏みしめて川原へとくりだしていく。そんな元気あふれる子供たちのために、だれが主催したのかは知らないが、日帰りで海に遊びに行く企画があった。この町から一番近い新潟の海へ、バスで早朝に出発して一日海で遊び、日暮ごろにはまたバスに乗って夜遅く帰り着く。あのころは高速道路もなかったし、車輌の性能もいまほどよくはなかったから、片道4時間はゆうにかかったのではないか。帰りの夜道をひた走ったバスが駅前広場に到着すると、なかには眠りこけて目を覚まさない子もいて、だれかがおんぶして家まで届けたりしたという。だが私はと言えば、バスには酔うし、3時間も日光を浴びたものなら熱を出して寝込むような子供だった。だから海へのバス旅行には無関心だった。

 

 私の母はちがった。バス旅行には、小学校高学年なら子供だけでも参加できたが、小さい子は親子連れだった。小中学校の教師数人が世話役となり、バス一台ぶんの参加者を引率したのだ。我が家では子供たちは行きたがらないのに、母が一人で参加した。子連れの母親たちは、自分は泳ぐ気などあまりなく子供を見守るだけだったらしい。だが私の母は泳ぎたかったのだ。

 

 母は少女時代を神戸の須磨で過ごした。家から海までは歩いて15分たらずだから、しょっちゅう泳ぎに行った。そればかりか母は女学校時代は水泳選手だった。兵庫県代表として、東京の神宮プールで開かれる全国大会にも出場したという。そのときは神戸駅に集まった見送りの人たちに、万歳三唱で送り出されたそうだ。「でも、帰ったのはだれも知らなかったの。ひっそりと戻ってきたんよ」と笑いながら話してくれたのは、祖母だ。兵庫県では一番でも、神宮プールでの成績はかんばしくはなかったのだそうだ。何かの折に気づいたことだが、1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得した、「前畑ガンバレ」で有名な前畑選手も母と同い年だ。当時、軍国主義の台頭で頑健な男子を育てるために水泳が推奨されたと聞くが、その風潮が女子にもおよんでいたのだろう。

 

 母はどちらかといえば華奢な体つきで、スポーツをやりそうにはとても見えなかった。それでも兵庫県代表なのだ。プールで特訓を受け、水から上がるとコーチが差し出すレモンにかぶりついて丸かじりし、手のひらに配られた塩をなめたという。それほどくたくたになるほどの猛練習を積んだことを、母は誇らしげに話していた。海では、淡路島まで遠泳をしたこともあるという。

 

 そんなに海が好きで泳ぎも好きだったのに、母はこの山国に来てしまった。戦況が差し迫って空襲がはじまったころ、母は3人の子供をつれてとりあえず父の実家に身を寄せることを余儀なくされた。戦争が終わって1年半ほどで父が戻ったときには、父の長兄の戦死の報がとどいていた。それで父は元の勤務先には戻らずに、この町にとどまることにした。そのようにしてはじまった信州での生活で、母は泳ぐ機会も失ってしまったわけだ。

 

 海へのバス旅行に参加するのを決めた日、母は洋品店で水着を買ってきた。あのころはスポーツ用品店などはなかったように思う。裾にひらひらと短いスカートのようなものがついた紺の水着を、母は「これしかなかった」と照れ笑いしながら小さいバッグに詰めた。そして家族がまだ寝静まっている早朝に、一人起きだしてバスで出かけた。

 

 その翌年は、バス旅行の企画が決まると、近所に下宿していた教師の一人が母を誘いに来た。彼は泳ぎと碁が大得意というスポーツマンタイプだった。前年に母が一人で参加し、海辺に着くや一人で沖へと向かい、黙々と抜き手を切って泳ぎ続けるのを、その教師は感嘆して見ていたという。「奥さん、やりますねえ」と彼は言った。「久しぶりに競泳をしてみたい」と母が言った。「やってみますか」と彼は言い、二人は沖で並んで泳いでみた。すると母が勝ってしまったのだという。

 

 だから母が一緒に行ってくれると心強い、とその教師は母を誘いに来たのだ。母は1年前に買った水着をバッグに詰めて、同じように早朝に一人起きだして海へと出かけて行った。母が帰る時間まで起きていられず寝てしまった私は、翌朝母の腕や額に残っている赤い日焼けの跡を見た。けれども母は、黙って朝食の用意をしてやはり黙って食事をすませた。1年前にはあんなに楽しそうだった海の話を、ひとことも話そうとしない母を不思議に思う一方で、その理由を私はそのときすでに察していたような気がする。