夏風邪

夏風邪をひいてしまった。

咳がひどくなったのが1週間前。かかりつけの医者に行った。かかりつけと言っても私は割合健康らしく、1年に1回ぐらいしか病院に行くことなどない。だが今回は1か月ぶりだった。1か月前には髪を染めたところ、眠れないほど頭がかゆくなり医者に行った。ここは皮膚科と内科が専門なのだ。

 

かかりつけ医、須山先生のいいところは、説明が丁寧なこと。やたらに薬を出さないし、薬はたいてい医院にあるものだから、改めて処方箋持参で薬局へ行く必要がないこと。そして何よりも、すいていて静かなことだ。

 

行った日には熱はなかった。それで薬は咳止めのみとなった。ただし、もし熱が出たら咳止めの薬が残っていてもすぐにまた来るように、と言われた。そしてその2日後、前日夕方に体温が7度2分になり、夜中に眠れないほどせき込んだことから、もう一度行ったのだ。

 

こんどは夏風邪だろうということになり、抗生物質3日分と、のどの炎症を抑える薬4日分をもらった。抗生物質を飲みだしたその夜から熱が上がり、最高は38度までになった。私はあまり熱が出ないたちなので、38度にもなるととてもつらい。仕方ないので枕元に体温計と飲み水とティッシュペーパーを置いて、ひたすら眠り続けた。

 

そして今日がちょうど1週間。3日前には4日ぶりに風呂に入り、2日前には5日ぶりに畑に行ってトマトとキウリを収穫した。夕方4時に行ったのだがまだ日差しは暑く、危うく倒れそうであった。、陽光はぎらぎらとして、ああ身の回りにはこれほどメリハリも緊張感も満ちているのだな、と思わされた。

 

1週間も寝込むと、さまざまなことを考える。やはり死に支度も少しずつしなければ、とか、気管支を丈夫にする対策を打たねば、などと。そして心のどこかで、のど元過ぎれば暑さを忘れるというが、こんな反省も今のうちだけだろうと思っていたりする。

 

そうだ。睡眠時間が狂って時ならぬときに目覚めたりするので、本も枕元に持ち込んで読み続けた。1冊面白い本があった。パトリック・モディアノ著「ある青春」だ。20歳の男女の、先が見えない試行錯誤の日々が描かれている。彼らの35歳の生活が描かれ、そこからさかのぼって若い日々がつづられているため、こんなにわけの分からぬことをしている二人が、なぜ普通に子供を育てる生活が送れるようになったか知りたくて、どんどん読み進んだ。モディアノって、こんなに面白い作家だったのか、と思った。確かうちに彼の「暗いブティック通り」があったはずだ。出版当時目を通してみたが惹きつけられなくてすぐ投げ出したような気がする。まだあるだろうか。探して読んでみよう。

 

思えば私自身の青春も、ヘンなものだった。なぜあんなバカなことをしたのか分からないことがたくさんある。他の人はどうなのだろう。

 

そんな連想からか、本棚の隅からドリス・レッシング著「グランド・マザーズ」を引っ張り出して、同題の短編を、こちらは一気に読んだ。子供時代からずっと友だちで、いまともにかわいい孫娘を持つようになっている二人の女性。一見幸せに順調に生きてきたかに見える二人は、互いの息子と恋人関係であった。普通の日常の裂け目にするりと入ってしまったかのような、人生の迷い道。じつは私は、いまもずっと迷い道を歩いているような感覚に終始つきまとわれているのだが。他の人はどうなのだろう。

 

祇園祭 終わる

祇園祭が終わった。

小さい神社から神輿が担ぎ出されて、町内を練り歩く。神社の急な石段を駆け下ったり、数か所で神輿を勢いよくまわしたり、と勇壮な見せ場もいくつかある。ささやかな祭りではあるが、夏の風物詩として味わい深い。

 

ところが今年は祭りの気配をなんとなく感じながらも、一歩も外出はしなかった。

子供の時は、家の前が神輿の通り道であるばかりか、大きい見せ場の一つのぐるぐるとまわす場所だったせいで、この祭りと無縁ではいられなかった。この土地のものではない母も、神輿の担ぎ手や祭りを取り仕切る人々が途中で休む時の接待に追われて、他の女衆に後れを取るまいと必死の形相だった。

 

祭りだというのに、思い出す光景はなにやらもの哀しさに彩られている。今思えば母は、忙しい中でどうやって時間をつくったのか、祭りの朝に縫い上げた浴衣を着せてくれた。誇らしい思いで門の前に立っていると、通りかかった老婆がつかつかと近寄って私の浴衣の襟元や袖口を撫でまわし、「まあまあ、上等なおべべで」と言った。

 

その時はわからなかったが、あれは母の着物の裏地を仕立て直した絽の小紋ではなかったか。あのころは、子供の浴衣地など簡単には手に入らなかったのか。それとも、母には他の理由があって、あれを仕立ててくれたのだろうか。なるほど他の子供たちとはだいぶ違う装いではあったが、私はいまでもあれを欲しいと思っている。あれが母の着物の裏地だとすれば、それは私たちの台湾からの逃避行の荷物の中に、母がやっとの思いでしのばせた数枚の着物の一枚だったはずだ。あれは敗戦数か月前の命がけの船旅だったことが、いまとなれば分かる。

 

子供のころにくらべれば、祭りの賑わいはすっかり下火になった。昔は夜明け近くまで提灯に灯をともしたまま表戸をあけ放っていなければならなかったが、いまは時間が決められていて十時かそこらで神輿は神社に収められる。昔と違ってすっかりひと気のなくなった通りを、疲れ切って酔ったような足取りになっている神輿が神社へと坂道を下る。そのときの掛け声は、終日続いていた「ワイヨイワイヨイ」というのとは違って「ヨイトーヨイトー」というものだ。

 

昔に比べれば、通り沿いの各戸がともしている提灯もぐんと数は減り、うすぼんやりとした街灯に浮かぶ疲れ切った神輿の最後は、小さい町の祭りらしい風情を濃密に醸し出す。

 

だがそれさえも今年は見に行かなかった。

「子供の時は、自分が年々大きくなるから祭りも毎年楽しみだったけれど、いまは昨年も今年も同じという気がする」というのが私の今年の祭りに行かなかった言い訳だ。

 

 

狸と闘う

今年初挑戦している大玉のトマトが色づいてきた。

八百屋で売っているのとの大きな違いは、無農薬無化学肥料で育てているのはもちろんだが、真赤に熟れてから収穫するところにある。そのおいしさといったら、たまらない。

そこで難しいのが採り時だ。朝夕見に行き、もう一日待ってみよう、明日こそ食べてみよう、と素人農業者は散々迷うことになる。

で、明日まで待ってみようと畑を去り、翌朝ようすを見に畑へ行ったところ、なんと赤いトマトが無残にも土の上に転がっているではないか。手に取ってみると、半分ほど食われている。狸の仕業だ、と頭に血が上る。いや実は、狸ではなくハクビシンかもしれない。だが日々畑に出ている私には、匂うのだ。トマトの周りに、獣の匂いがするのだ。これはたぶん狸だ。

 

さてどうするか。こうなってみて初めて、畑をつくっている人たちが必死に野獣対策をする気持ちが分かる。せっかくおいしくしたものを、タッチの差で狸などに食べられてたまるものか。しかもトマトは採れ始めたばかりだ。これから日々おいしいトマトにありつけると意気込んでいたその時に、先を越してかじりつき、しかも半分食べて捨て置くなどは、なんとにっくき奴、とファイトがわく。

 

畑の周りの竹やぶから、邪魔だとて切り倒された竹を3本ほど運んでくる。のこぎりで適当な長さに切り、枝をつけたままトマトの周りに刺す。さらに棕櫚縄を持ってきて、周りに立てた棒をつなぐ。少しでも邪魔者をつくって、狸をひるませようという算段だ。

 

さて、この素人技が功を奏すかどうかは、明日からの観察にゆだねよう。

 

畑三昧

このところ畑三昧だ。

今年は様々な挑戦をしてみた。ビーツや香菜は昨年もうまくいったので、今年も順調にとりかかった。それ以外に手を出したものが、山ほどある。

 

まずクコ。この漢字が出てこないなんて腹が立つが、「木偏に句」と「木偏に己」だ。赤い実がなって、その乾燥したものが中国のスープなどによく使われる。何に効くのかは正確には知らないが漢方薬の一種だ。スープに使うと深みのある甘みを出してくれる。家の近くの道の駅というところへ行ったら、粗末な鉢植えが100円で売られていた。矯めつ眇めつした挙句に買おうとすると、売っていたおじさんが「何だか分かっているの?」と言う。このあたりの人は言葉はきついが率直で親切だ。前からほしかったのだというと、植えるに適した場所や、実以外にも葉っぱが若いうちなら食べられることなど教えてくれた。

 

次は、ハックルベリー。これはトムソーヤーの友達と同じ変な名前だなあ、という感想しかなかったが、友人の杉田さんがくれた。ブルーベリーぐらいの大きさの黒い実がなるが、甘いだけで風味に欠けるという印象がある。だが栄養価は高いそうだから、実が取れたら夏ミカンと合わせてジャムにしてみようかと考えている。

 

次は、ケール。娘がキャベツよりもケールが好き、といったのが作るきっかけだ。調べてみると玉にならないキャベツのようなもので、葉を一枚ずつ収穫すること、冬場まで獲れること、栄養価が高いことなどが気に入った。最近はもう葉が栽培できるようになったので、毎朝ジュースにして飲んでいる。バナナと豆乳を加えると、ケールの適度な苦みがちょうどいい。

 

トマトも初めて作った。ミニトマトは昨年大豊作だったので、気をよくして今年は大玉のトマトに挑戦した。芽の摘み方などが難しそうに思えたが、今のところうまくいっていて、実は今日初めての一個を食べた。おいしかった。

 

ほかにもいろいろあるが、これから大変だろうが楽しみなのが、粟と黍だ。これがうまくいったら、雑穀を豊富にまぜた健康的な食事が実現する。

 

ほかにも今畑で育っているのは、ゴーヤ、キウリ、ナス、ネギ、サツマイモ、落花生、ピーマン、カブ、エンツァイ、ルッコラ、バジル、ルバーブ、カボチャ、ミョウガ、キクイモ、ヤーコン、カブ、オクラなどなど。

 

楽しみなことだ。畑仕事は知らぬ間によほど熱中すると見える。黍を蒔き終えて、粟を蒔いていた時に、知り合いに「こんにちは」と声をかけられたら、びっくりして片手に持っていた種をひっくり返してしまった。だからいま粟畑の一か所は、粟が密生した状態になっている。

『片手の郵便配達』  ナチ時代末期の記録

グールドン・バウゼヴァング著『片手の郵便配達』を読んだ。

 

ナチス・ドイツのポーランド侵攻で始まった第二次大戦の末期、ロシア戦線で片手を失った17歳のヨハンは、故郷の村に戻って郵便配達人になった。

 

郵便配達人は、映画や小説でも取り上げられやすいキャラクターだ。中国映画「山の郵便配達」、イタリア映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」などなど。配達する手紙を通して微妙に私生活を知っていく立場であり、往々にして待ちわびる情報をもたらしてくれる重要人物でもあるからだろう。

 

ヨハンは暑い日も寒い日も周辺の村を回って日々郵便を届ける。時局がら戦死の通知を届けなければならない場合もよくある。長い山道を一人黙々と歩いて手紙を届けるヨハンは、手紙の受け取り手にとっては大切な人で、人々は手紙にまつわってつい秘事をヨハンに漏らしたりする。

 

そんなふうに日々を送り、人々の悲しみや喜びを見聞きしてきたヨハンは、やっと戦争が終わり、輝く青春を取りもどせそうになったときに、理不尽な死を迎えてしまう。

 

著者グードルン・バウゼヴァングは1928年に当時ドイツ領、現在ではチェコ領のボヘミア東部で生まれている。15歳で父親が戦死、17歳で第二次大戦の終戦を迎えた。だからこの小説は少年を主人公にしているが、彼女自身がこの時代に見てきたことを語っているのだろう。

 

戦後は教職について、チリやベネズエラのドイツ人学校で教えたこともある。ドイツと南米を行き来して教職を続けつつ、たくさんの小説を書いてきた。自分が生きた時代、見逃してはならぬナチス・ドイツ時代のことを後世に伝えたい、という思いが彼女の旺盛な表現意欲を支えたのだろう。

台湾1949年 本屋設立計画

陳舜臣は神戸で生まれ育ったが、1945年に日本が敗戦したときに、その後の人生を考えるためもあり父母の実家のある台湾にいったん戻ったという。22歳であった。彼は3年制の大阪外語印度語科を出て大学に残る望みを持っていたが、国籍が日本ではなくなってしまったため、国立大学での任官は不可能になってしまったのだという。

 

台湾でさまざま試みた彼は結局、1946年9月に開校した台北県立新荘初級中学の英語教師になった。新しく公用語となる北京語の習得に励んだが、その頃はまだ過渡期でもあり閩南語の使用も許されていた。しかも、英語の授業はなるべく英語でやるよう指示があったのは、北京語が不得意な当時の陳舜臣にとっては幸いなことであった。

 

1947年の228事件は、台北から30分ほどの距離にあった新荘では、情報が少ないせいもあってそれほどの緊迫感もなかったという。しかしその後は白色テロの恐怖が身近に迫るようになっていった。同僚の教師が共産主義活動の疑いで学校から連行され、それに抗議した校長もともに連行されたりした。陳舜臣は、3年間の英語教師生活を打ち切り、日本に戻ることに決めた。

 

台湾に別れを告げるにあたり、陳舜臣台湾大学医学部にいた何既明に会った。何既明とは彼が医学生として東京で学んでいた時代からつきあいがあった。神戸育ちの陳舜臣は、植民地統治下での台湾人差別の実情の多くを、何既明を通して知った。

 

何既明はその後医者になってからもずっと大変な読書家だった。国民党統治下で自由に本が手に入らない時期には、日本にやってきて数日ホテルにこもって読書にふけったりしたという。ところが戦後すぐの台湾への引揚船のなかで、彼は自分を上回る読書家に出会った。当時京大農学部から学徒兵として日本の部隊に入った、のちの総統、李登輝であった。

 

日本に帰るからと別れを告げる陳舜臣に向かって、何既明は台湾の民度をあげるために本屋を開きたいという夢を語った。日本の岩波書店も小さい本屋から始めたそうだから、自分は台湾の岩波を目指すのだ、と。そのときもう5人の仲間が集めてあった。医者の卵である何既明、当時台湾大学農学院の助手であった李登輝、そしてあと3人。陳舜臣も仲間に誘われたが、日本に持ち帰る予定の本の一部を寄贈しただけで、日本に帰ってきてしまった。

 

青年たちが知識を求め啓蒙運動のつもりで始めた本屋の計画も、蒋介石政権は見逃さなかった。知識青年が集まることに過度な警戒感をもっていた同政権の手で、仲間のうち2人は白色テロで逮捕銃殺され、1人は大学助教授の時に病死してしまったという。ずっとのち、陳舜臣が作家として活躍するようになったとき、何既明はこんな文章を寄せたそうだ。

 

「もしあのとき陳舜臣が本屋の仲間に加わっていたら、逃げ足の遅い彼はつかまって、今の文豪陳舜臣は誕生しなかったかもしれない」と。

 

まことに台湾人にとっては動乱の時代であったのだ。2001年陳舜臣はロサンゼルスで在留邦人400人ほどを集めた講演会で講演をした。すると新荘での新米英語教師時代の教え子に会った。新荘初級中学1期生、陳垣光であった。彼の叔父が当時同校の校長で逮捕連行される教師をかばって憲兵隊まで同行した陳炯澤であった。事件から半世紀以上たったこのとき、校長はそのために半年も拘留されたことを知った。

 

教え子・陳垣光の人生もまた動乱の時代を反映したものだった。彼は日本教育を6年受けた後、いきなり中国教育に切り替えねばならなかった。彼はその後台北の高級中学、台湾大学電気科をへて台湾電力で数年働いた。その後渡米してボーイング社に勤め英語常用の生活を何十年も送った。そして70歳を過ぎた彼は、子供時代の日本語を忘れないよう在米日本人と交流を始めたところであったという。

 

以上の話は、陳舜臣著『道半ば』に書かれていたことだ。日本の植民地統治を受けて、いやがうえにも複雑な紆余曲折をせまられた台湾人の人生に、私は頭をたれて耳を傾けるしかない。

この日本に生きるということ

1975年、昭和天皇は日本記者クラブとの会見で、次のようなことを語ったという。

戦争責任問題について。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

広島への原爆投下についての感想。

「どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

 

愕然とさせられる。この発言は戦争が終わってから30年後のことだ。30年間、彼は何を考えて生きてきたのだろう。だが一方で、私が感じた愕然は、身に覚えのある感情であった。同種の苛立ちを、ずっと感じながら生きてきた気がする。論理が通じない、論点をずらされる、論点がかみ合わない。もしかしたらこの日本では、この種の受け答えが割とふつうのことなのか。だって、これがそれほど問題にならなかったかに見えるではないか。

 

この出来事を記述している安丸良夫は著書「近代天皇像の形成」のなかで、この言葉の持つ意味をこんなふうに読み解こうとしている。上記の二点について尋ねられたとき、天皇は「立憲君主」としての自分の権限や努力の範囲から逸脱した、茫漠ととらえがたい次元が問われていると感じたのではないか。戦争は、天皇の職分に即した努力にもかかわらず発生したのだから、「深く悲しみとする」不幸な事件ではあったが、その全体について責任を云々されても答えようがない。君主の責任についての規定とは別の次元の「文学的方面」の問題だというのだろう。

 

同書によれば、この記者会見は1975年10月31日に行われたもので、日本人記者団との公式会見としては初めてのものだったという。天皇はアメリカ旅行から帰国したばかりで、訪米に先立ってアメリカ人記者と会見を行ったので、帰国した際に日本人記者との会見も行わざるを得なくなった。質問は前もって提出され、それに対しては天皇は一語一語言葉を選んで慎重に答えた。だが関連質問として上記の問いがでたときに、天皇は奇妙なほど無責任な答えをしてしまった。

 

つづいて安丸はこう書いている。おそらく近現代ヨーロッパの君主たちは、昭和天皇よりもずっと雄弁に自分の立場や役割について弁明や宣伝をしなければならないだろう。それは、市民社会という言説的世界に君主制も適応しなければならないからだ。最近の天皇制論議のなかで、現代ヨーロッパ君主制に学んで「開かれた皇室」に向けて努力すべきだという主張があるが、これに対して反論する人々がいる。彼らは、一般国民から隔離されることで天皇の権威が保持されるのだと強調する。つまり天皇が市民社会的言説世界にさらされることで脱神秘化することを恐れているのだ。

 

私たちがいま進めるべきは、脱神秘化だろう。そうしてこそ古臭い権威づけ価値づけから脱して、私たちらしい社会をつくることができる。なぜなら天皇制は、いまだに誰もが否定してはならない権威の中心として、目に見えない形で社会の隅々まで秩序の網の目を張り巡らしているからだ。

 

 

 

先にあげた昭和天皇の発言は、安丸良夫著「近代天皇像の形成」のなかに記されていた。