映画「セールスマン」アスガー・ファルハディ監督


 イランの、たぶんテヘランの話だ。冒頭、アパートが崩壊するから避難しろと呼びかけられ、主人公夫妻や他の住人たちがあわただしく逃げ出す。その間にも窓ガラスや壁に、音を立てて大きなひびが走る。どうやら隣地の建築工事の影響らしいが、急速に進む都市化に不安を覚えさせる導入だ。


 主人公夫妻はともに同じ劇団に所属する俳優だ。夫は高校教師でもある。彼らはアーサー・ミラーの「セールスマンの死」の公演を間近に控えていて、劇中でも彼らは夫妻役を演じている。


 舞台稽古の最終日、「セールスマンの死」のなかで私には最も印象的だった場面が演じられている。劇中劇のセールスマンであるウィリーの出張先に、長男のビフが深刻な相談事をもって出向く場面だ。ビフはフットボールの花形選手で、父親からも周囲からもちやほやされ、大学にも簡単に迎え入れられると思い込んでいた。だが数学の教師は厳しくて、単位を落としてしまう。その尻拭いを父親に頼もうとして旅先まで会いに来たというのに、ビフが目にしたのは父親がホテルの部屋に娼婦を連れ込んでいた姿だ。「セールスマンの死」で、最後まで続く父と息子のあいだの齟齬や軋轢は、このあたりから始まっている。ビフはその後何もかもうまくいかず、自分に期待を寄せた父親を怨むようにさえなっていく。


 この劇中劇が巧妙にその後の展開を暗示し、現実のなかでふと生じた食い違いが思わぬ方向に発展するさまが描かれる。劇中劇の娼婦役の女優は、息子役の俳優がふともらした笑いを侮辱的だと受け取って怒りだし、稽古なかばで帰ってしまう。続きの稽古ができなくなり、主人公の妻は先に引っ越したばかりのアパートへ帰宅する。そして妻は、ドアホンが鳴ったのを夫の帰宅と思い込んでドアを開けておきレイプ事件の被害者となった。どうやら夫妻の前の住人が客を家に連れ込んで売春をしていたようだ。劇中劇に連なる不穏な娼婦の存在がここにもある。そこでレイプ犯は、かつての住人の客であろうと噂された。劇中劇の父と息子、あるいは夫と妻のあいだのわだかまりが、まるで木魂のように事件後の俳優夫妻の心のすれ違いへとつながっていく。


 妻は事件を警察に届けるのを拒み、劇団の仲間にさえ知られないようにする。公にしたら社会から抹殺されてしまうと恐れていて、またそれは現実なのだ。夫は犯人が落とした鍵束から犯人の車をみつけだし、さらに犯人を割り出す。ところが実は、真犯人は車の持ち主の若い男ではなく、彼が結婚しようとしている娘の父親だった。彼は老いぼれのセールスマンだ。おまけに心臓病を抱えている。彼はたまに将来の娘婿の車を使って荷物を運んだりしていたのだ。


 夫は復讐のため、彼がレイプ犯であることを家族に暴こうとする。娘の結婚を間近に控えた老いぼれセールスマンは、どうかやめてくれと懇願する。そのようすを見ていたレイプ被害者の妻は、犯人に憐れみを感じて夫に止めるよう諭す。


 結局家族に犯行を暴かれずにすんだセールスマンだが、主人公夫妻のもとから迎えに来た家族ともども家に帰ろうとしたところで心臓発作で死んでしまう。何も知らない妻は、夫への愛を口にしすがりついて泣く。


 場面は変わって劇場の楽日、「セールスマンの死」のラストシーンだ。今日家のローンも保険金もすべて払い終えたというのに、夫は自殺してしまった。棺に横たわる夫の遺体に、妻が問いかける。「ウィリー、私は泣くこともできない。あなたはなぜこんなことをしたの。いくら考えても私にはわからない」


 妻の夫への思いが、夫の妻への思いが、現実と劇中劇が響きあうように重層的に描かれる。近しい家族との心のすれ違い、生きることのむなしさと、ささやかな喜び。名作「セールスマンの死」を配することで、人間心理の奥深さを描くことに成功したかに見える。だが計算されすぎたドラマの落とし穴とでも言おうか、しっとりとした情感が感じ取れるかといえば、そこにはいささか不満が残る。