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江文也 北京師範大学教授になる    江文也その6


 江文也は1936年6月、26歳のときはじめて中国に旅をした。そのころさまざまな助言を与えてくれていたロシアの作曲家アレクサンドル・チェレプニンに勧められてのことだったという。チェレプニンはこの前後4年間ぐらい、中国や日本などアジアを歴訪してアジアの民族音楽を学び、また若手音楽家を育てようとしていた。チェレプニンの旅に同行して、江文也は北京と上海を訪れた。


 北京の地に立った江文也は、激しい感動に心をふるわせた。
 江家は、江文也の祖父の代に福建省永定から台湾に移り住んだというから、中国大陸の記憶は家族のなかに息づいていたことだろう。父親の兄弟4人は、養子であった次男をのぞき、3人が福建省科挙試験を受けているという。2人の兄は挙人、父自身は秀才となった。江文也は幼いときから、祖父母や伯父たちから何かと中国の話を聞き、廈門で暮らした子供時代には直に中国の人びとやさまざまな音信にも触れたことだろう。彼にとって中国は、憧れに満ちた精神の故郷であった。


 初めての北京で受けた感激を、江文也はこんなふうに記している。
「脅えるような喜びで、私は、北京! 北京! と、その名を七たびも十たびもとなへ、心臓をにぎりつぶす程の興奮狂気とに馳せられた。私は恋人に会ったやうに、待ち遠しさで心は乱れ、魂は真紅に燃へ盛っていた」(「北京から上海へ」『月刊楽譜』1936年9月号)


 しばらくして、江文也にまた北京行きのチャンスが訪れる。
 1938年1月、北京師範大学音楽系主任の柯政和が東京にやってきて江文也に会った。柯政和は1889年に台湾の嘉義で生まれ、のちに日本に渡って東京音楽学校師範科を卒業した。台湾に戻って唱歌教育で重要な役割を果たしたが、その後再び東京音楽学校師範科の研究科で学び、1923年に北京師範大学で教職に就いた。東京で江文也に会ったころの彼は、新民会でも要職に就いていた。新民会というのは、1937年12月に北京に樹立された親日政権・中華民国臨時政府の傘下の組織だ。盧溝橋事件以来日本が支配下に置いた華北地方に居住する中国人の啓蒙、当時の言葉で「内面指導」するのが目的だった。日本軍が強権をふるわずとも、中国人たちが自らの意志によって日本に協力して親日政権を運営しているとの体裁をつくろうとしたのだ。日本の占領地にいる中国人たちを、蒋介石の国民党からも中国共産党からも精神的に引き離そうとして新民会が掲げたのは、儒教を復興させることであった。江文也は柯政和から、新民会の会歌の作曲を依頼された。


 1938年4月、江文也は完成させた新民会会歌をたずさえて北京に赴いた。歌詞は公募で集まった4000あまりのなかから選ばれたもので、文字通り鳴り物入りで中華民国臨時政府をもり立てる行事だった。会歌は同政府の国歌にあたるものと見なされ、華々しい初演の場がしつらえられた。北京中央公園に軍や政府の要人が集い、大吹奏楽団と合唱団を江文也が自ら指揮をした。都新聞(4月9日付)はこれを次のように報じている。「わがうら若い一青年作曲家の手による、中華民国臨時政府の『国歌』作曲が完成され、自ら北支に乗り込んで北京中央公園の大広場で日支混声の大ブラスバンドの指揮を執ることになった」。吹奏楽団は、日本軍直属のブラスバンドに中国北部から数十のブラスバンドをくわえるという大編成、そこへさらに大合唱団を交えた演奏の模様は、北京放送局から全国に放送された。


 これを機に、江文也の家族にも大きい変化が訪れることになった。妻乃ぶと3歳の長女もともに北京に移り住んだのだ。乃ぶが後年語ったところによると、このとき彼女は文也から「北京に行く」と告げられただけで、詳しい説明は何も聞かされなかったという。ただ陸軍の重要人物に会ったことなどは聞かされていたので、北京行きは軍の関与があって決められたものと推測していた。当時は軍関係のことや情報局からの話などは、肉親であっても内容を漏らすことができないのが、当たり前とされていた。


 妻子を伴って北京に移り住んだ江文也には、北京師範大学の教授職が用意されていた。招聘状の日付は民国27(1938)年4月25日付、国立北京師範学院長・王漢の名前で出されていて、江文也の職名は北京師範学院体育音楽科音楽組教授である。だが江文也が唐突に教授職に就いた背景には、日中戦争開戦後の中国の大学の激変があり、日本軍の意向があった。


 中国の大学は、もともと東海岸よりの都市に多かった。日中戦争が始まるとそれらの大学にも日本軍の強権がおよんだ。そんななかで教授や学生は日本の支配下に置かれることを嫌い、日本軍の力がおよばない大後方と呼ばれた西北方面の地域へ移動していき、そこで研究や教育を継続した。北京にあった北京大学清華大学、それに天津にあった南開大学は長沙へと移っていき、さらに昆明へと移動して西南連合大学となった。同じく北京にあった北平大学と北京師範大学は陕西省西安へ移動し、北京師範大学はさらに甘粛省蘭州へと移動した。大学をあげて遠方へ移動し、8年ものあいだその地で大学を存続させたのは、世界史上でもまれな出来事かも知れない。


「北京師範大学校史 1902ー1982」(北京師範大学出版社 1982年)によれば、北京師範大学の卒業生は、1937年は以前とあまり変わらない227人、移動後に西北師範学院と名前を変えてからは、1938年が129人、39年が70人と激減していて、移動に伴う困難をうかがわせる。だが40年には222人と以前の規模を回復し、その後は百数十人規模を保っている。1938年から46年までの北京を離れていた時期の卒業生総数は1516人とあり、大学を維持し続けたことが分かる。ちなみに、この校史には北京に残った北京師範大学のことは一切記録されていない。日本でも現在のところ、この時期の北京に残った北京師範大学についての詳細な記録は見あたらないので、その実情はどうも分かりにくい。


 ともあれ北京師範大学が遠く西安や蘭州まで大学ごと移住してしまったあと、北京に残された大学では柯政和が音楽系主任、江文也が音楽系教授の職についていたということだ。二人とも台湾出身で国籍が日本であったからで、北京を占領していた日本軍はこうして大学の体裁を維持し続けたということだろうか。ちなみに柯政和は日本の敗戦後は、北京における対日協力文化人の一人と見なされ、「漢奸」として罰せられた。特に問題視されたのが新民会の重職を担っていたことだという。彼は獄中生活のあとも苦難の人生を送り、寧夏回族自治区で没している。江文也の戦後については後に述べるが、中国で暮らした台湾人の多くがこうした悲哀や辛苦をなめた。


 北京で暮らしはじめた江文也は、北京師範大学で教授職につく一方で、作曲および儒教音楽の研究に没頭した。彼は孔子廟にかよいつめて、かろうじて残されていた儒教音楽を採譜した。それをもとにオーケストラ用に自由に作曲したのが「孔廟大成楽章」で、これは6章から成っている。「迎神」「初献」「亜献」「終献」「徹饌」「送神」だ。「迎神」を聞いてみたが、平淡でありながら荘厳さがわき上がってくるような曲で、江文也が強烈に憧れた中国の伝統や文化とはこういうものであったかと思わされる。そして彼が儒教音楽の研究をまとめて書き上げたのが『上代支那正楽考----孔子の音楽論』で、1942年に日本で刊行された。


 江文也は日本の植民地・台湾で生まれ、少年時代を廈門や日本の長野県上田や東京で過ごした。声楽家としてまた作曲家として故郷の台湾に赴いた際には、古い廟やさまざまな風物に熱く胸をふるわせて数々の曲を書いた。20代半ばで初めて中国を訪れたときは、その伝統文化に圧倒され歓喜の声をあげた。その熱情で突っ走ったのが儒教音楽の研究とそのあらたな創造であった。その背景には折しも支配者側の日本が支配の道具として儒教を復興させようとする動きがあった。しかしながら、人間は誰しもが時代の枠を越えて生きることはできない。ならば時代の誓約のなかに否応なく置かれつつも、精一杯の未来につながる何かをつくるのこそが、望みうる精一杯の生き方かもしれない。


 そう見ていくと、江文也の音楽の歩みには、常に時局の影が色濃く差してはいたが、彼はぎりぎりの自分なりの音楽活動をも目指していた。それは少年時代に音楽に情熱を燃やしつつも、父親の意を汲んで武蔵高等工業学校に進んだときから、一貫しているようだ。工業学校にかようかたわら東京音楽学校お茶の水分校で音楽を学んでいた彼は、通学時にさえ歌の練習に余念がなかったという。池上線五反田駅のホームでうたっているところを見出されて、合唱団リーダーターフェルに入団したのは21歳だ。入団後はバリトン歌手として頭角を現した。


 1932年、江文也はレコードデビューを果たす。コロンビアレコードから出たレコードはなんと「肉弾三勇士の歌」だ。曲名で分かるように、これは同年2月の上海事変で国のために命を捨てたいわゆる「爆弾三勇士」を讃美する歌だ。歌詞は朝日新聞社が公募して2点を選び、それぞれ山田耕筰古賀政男が作曲した。歌手として江文也が抜擢されたのは、東京音楽学校お茶の水分校での師であった山田耕筰が推薦したせいだ。ちなみに山田耕筰はいまでこそ「からたちの花」「赤とんぼ」などの叙情歌の作曲者としてのみ記憶されているようだが、実は「戦争大好き」という表現がぴったりの行動をとる人でもあった。1941年には音楽挺身隊を結成し、軍服姿で軍刀を携え得意顔だったという。ともあれ時代の花形・爆弾三勇士をうたったとあって、「肉弾三勇士の歌」は当然注目を集めた。江文也はキャンペーンのため山田耕筰とともに日本各地をまわり、一躍名を売ることになった。


 江文也が初めて北京を訪れたころ、彼は作曲家として活躍する大きな地歩を築いた。1936年8月にベルリン・オリンピックが開催され、これはヒットラーが権力とアーリア民族の優秀さを世界に誇示する絶好の機会となったことから、ナチのオリンピックと呼ばれている。それに先立つ同年6月、ベルリン・オリンピックの芸術競技音楽部門で、江文也作曲「台湾舞曲」の管弦楽版が入選を果たしたのだ。入賞者は1位ドイツ、2位イタリア、3位チェコと圧倒的に欧州勢だったが、江文也は等外佳作の事実上第4位を獲得した。日本からは他に山田耕筰ら4,5名が出品していたが受賞にはいたらなかった。入賞曲の管弦楽版「台湾舞曲」の日本初演は同年11月、山田耕筰指揮で日本放送交響楽団演奏でラジオ放送された。


 江文也はもちろん軍歌のほかに叙情歌のレコードも残している。「沖の鴎に」(山田耕筰作曲)、「春風のロンド」(三木露風作詞・井上武士作曲)「芭蕉紀行集」(箕作秋吉作曲)などだ。1933年、瀧澤乃ぶと結婚したころには、音楽コンクールの声楽部門に連続入賞をしていた。オペラ歌手としてもデビューを果たし、オペラにも意欲を示していた。当時はオペラをスタジオで演奏してラジオ放送していたという。ラジオのオペラで江文也がワーグナーの「タンホイザー」で大役をつとめたのは1933年10月だ。翌34年には藤原歌劇団に招かれてオペラの舞台に立った。日比谷公会堂で公演したプッチーニの「ラ・ボエーム」だ。さらに翌35年には同歌劇団プッチーニの「トスカ」にも出演した。まさに、時代が違えば江文也は叙情歌の歌手として活躍したかも知れないし、オペラ歌手の道を歩んだ可能性もあったかも知れない。


 けれど江文也は声楽家よりも作曲家になりたかった。彼の初期の作品、1935年36年に作曲したピアノ曲集のCDを聞いてみる。このころの作品の楽譜は「チェレプニン・コレクション」として欧米で出版されたものもあり、それらは幸いにも現在まで残っている。ここに集められた若き江文也の作品は、その歩みを語るかのように、少年時代を過ごした信州の思い出、台湾への郷愁、そして北京への憧れが奏でられている。