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江文也少年をとりまく上田の音楽事情   江文也 その4


 13歳の江文也少年は、兄と2人で遠い上田の地にやってきて、着なれぬ絣の筒袖の着物を着せられて、尋常小学校の生徒になった。小柄で大人しい子供であったが、学校に1台だけのピアノを弾くことを許されていたという。これは、同じ尋常小学校6年の女子組にいた江文也夫人・乃ぶさんが子供時代の思い出として語ったことだ。


 江文也は私の父と同い年だから想像がつくのだが、そのころの上田で身のまわりにある音楽といえば邦楽が圧倒的に多かったことだろう。しかし、若者たちのあいだには洋楽が少しずつ浸透し始めていた。私の父が西洋のクラシック音楽にのめり込んだのも、上田中学時代だったようだ。中学卒業を目前にして進学先について祖父と話し合ったとき、父は音楽学校に行きたいと主張して、祖父とあわやつかみ合いを演じそうになって義兄に止められたとの笑い話が、我が家には残されていた。


 私の父は音楽学校進学の夢はかなわなかったが、その代わり終生かなりの西洋クラシック音楽ファンだった。のちに私の妹が交響楽団の指揮者と結婚すると、彼が訪れるたびに二人で書斎にこもりレコードやCDを聞きながら語り合うのを楽しみにしていた。それよりずっと若い30代半ばのころには、音楽に心底慰められたこんな体験があった。


 1945年、日本が戦争に負けて植民地台湾から撤退したあと、台南の陸軍病院勤務だった父は、大陸から来た中国軍に徴用されて日本軍が残した山中の医療品倉庫の管理をさせられた。父は敗戦まぎわに台南が空襲されたとき、急ぎ台南にあった自宅に戻って蓄音機とベートーヴェン交響曲などのSPレコードを担ぎ出していた。敗戦後に台湾に取り残された1年4ヶ月、毎晩それを聞くのがどれほどの楽しみだったかと、父は何度となく語った。


 しかし父の姉妹たちをみわたせば、洋楽の歌などをなめらかにうたえるのは父だけだった。ちなみに、父の妹は琴と三味線の師匠になった。父方の祖母は自分の蓄音機を持っていて、時折ハンドルをまわしてはSPレコードをかけていたが、それらは能楽、歌舞伎、箏曲謡曲などといったもので、私たちにはわけの分からないものだった。時折、父がオペラのレコードをかけたりすると、祖母はソプラノの歌声をひどく嫌って「おおいやだ、気が触れてでもいるのかね、この人は」と、席を立ったものだ。つまり、家の中に洋楽派と邦楽派が対立気味に混在していたことになる。


 我が家には、私が生まれる前からのオルガンが2台あった。いずれも足踏みのペダルで空気を送る仕組みのもので、4オクターブの小さいものと、6オクターブほどの鍵盤の上に風量を調節するボタンが並んだものだった。父は独学でオルガンを弾くことができた。オルガンを弾きながら『出船』『からたちの花』『かやの木山』というような日本歌曲をうたうのが好きだった。母は少女時代を神戸で過ごしたせいでもう少しハイカラだったようだ。焦げ茶色の美しいドイツ製のピアノを持っていたという。それが空襲で焼けてしまったことを、時折思い出しては嘆いていた。


 では江文也に話を戻して、1923(大正12)年に上田尋常小学校6年生に編入したとき、彼がとくべつに弾くことを許されていた、学校に1台しかないピアノというのはどんなものだったのだろう。


 そもそも日本の学校教育に音楽が取り入れられたのは、1872(明治5)年に近代的な教育体系を構築すべく発布された学制がきっかけだ。しかし目論まれていた唱歌教育は、教員および教材の不足で実施できなかった。教材として「小学唱歌集」3編が作成されたのは1879(明治12)年のことだ。ここでは最初に基礎的な音階、リズム、拍子を教えることになっていて、数字を用いた音階の読み方でドレミファソラシドを教えた。思えば西洋の旋律はこうして小学校教育を通して普及していったことになる。


「小学唱歌集」は、新しくつくられた歌曲もあったが、多くは欧米の教科書から採られた曲に日本語の歌詞をつけたものだった。歌詞は変えられてもメロディはすっかり日本に定着した曲も多い。「仰げば尊し」や「アンニー・ローリー」などだ。唱歌集にはほんの数曲和旋律の曲も入れられたが、それも雅楽に限られ、わらべ歌などは気品がないとか、俗悪だなどとして排除された。と同時に歌詞には、忠、孝などの徳を教え込む役割が負わされた。


 さて、音楽教育の現場では唱歌を教えるための伴奏楽器も試行錯誤が続いた。風琴(オルガン)か洋琴(ピアノ)が好ましいとされたが、高価なうえ入手は困難だった。そこでとりあえず箏、二胡、尺八を用いるようとの指導が文部省からあったが、和楽器で洋楽の伴奏などムリなこととで、提琴(ヴァイオリン)を使う例も見られた。実際上田でも授業でヴァイオリンを使った記録が残されている。


 文部省は唱歌伝習所を各地に開設するなどして唱歌教育の普及をはかったが、定着には長い時間がかかったようだ。小学校で唱歌が必修科目になったのは1926(大正15)年のことだが、長野県では明治39年の調査ですでに6割が唱歌を実際に教えていたという。


 江文也がのちにかよった上田尋常小学校では、1899(明治32)年にオルガン1台とメトロノーム1台を購入している。オルガンは108円だったが、当時の小学校教員初任給17円から見ると、やはり高価なものだった。だがこれで唱歌の授業は軌道に乗り、同校では1907(明治40)年にオルガンをもう1台を購入、この価格は20円だった。この背景には1884(明治17)年からオルガンが日本でつくられるようになり、しだいに製造台数が増えて明治30年代ごろから急速に普及したことがある。


 ピアノも1897(明治30)年頃には国産品もでまわるようになったが、やはり高価なために普及は進まなかった。上田地域の小学校にピアノが置かれるようになったのは明治末ごろのことだ。江文也が上田尋常小学校で弾くことを許されたピアノはどんなものかと考えてみると、3種類ほどの可能性がありそうだ。日本楽器製造(株)のセミグランド型やアップライト型などは、生糸製造のさかんな上田では豪商が購入した例があり、篤志家が学校に寄付する例もあったという。もうひとつの可能性は、いまではもう見られなくなってしまったアメリカ製のスクエアーピアノだ。


 スクエアーピアノはアメリカで19世紀に大量生産されたもので、蓋を閉めてしまうと長方形の机のような形になる。文部省では唱歌教育を普及させるためにまず指導者を養成しようと考えて1880(明治13)年にアメリカからスクエアーピアノを10数台購入した。このうちの1台が上田の唱歌伝習所に導入され、のちに学校で使われるようになった可能性も否定はできない。


 ともあれ江文也が日本の学校教育を受けたのは、小学校では唱歌教育が軌道に乗り始めた時期で、中学では音楽好きな少年たちが数少ない西洋クラシック音楽をむさぼり聴いた時期だ。それでも1920(大正9)年に始まったラジオ放送、あるいは生活の周辺では、日本の庶民的な伝統的旋律があふれていたことだろう。


 こう考えると、音楽の道を歩み出す前の少年江文也のなかには、西洋音楽とは異なる多様なアジアのリズムや旋律がつまっていたことが分かる。


 江文也の家族は、彼の祖父の時代に福建省からわたってきた客家の一族だ。祖父は地主で知識人だったから、江文也の父親の兄弟たちは福建省科挙試験を受けて挙人や秀才になっている。このような文人たちのあいだでは、たぶん客家の伝統的な音楽なども大切にされて身近で聞くことができたのではないか。


 一方で江文也の母親は、台湾東海岸・花蓮の商人の娘だったという。花蓮あたりは台湾民謡の宝庫だ。文也の母も歌がとても上手で、台湾語の歌をよくうたっていたという。台湾の研究者・劉美蓮によれば、江文也は3歳のときにはもう、母親に代わって弟に子守歌をうたってやっていた。母のうたう花蓮地方の民謡も聞き覚えてうたっていたという。


 江文也が幼児期を過ごしたのは台北にある台湾人の繁華街・大稲だ。そこは淡水河沿いに豪商が軒を並べ、中国大陸はもとより東南アジア一帯ともさかんに商取引が行われていた。江文也の家の近くには貿易商で敬虔なクリスチャンでもあった李春生が設立した教会があった。5歳頃には江文也は、聞き覚えた賛美歌を上手にうたったという。街角や廟では台湾の代表的な伝統芸能・歌仔戯(コアヒ)などもさかんに演じられた。歌仔戯は日本では台湾オペラと呼ばれるが、台詞にメロディをつけて演じる芝居だ。文也はそれらもやはり上手にうたった。
 

 やがて江文也の家族は父親の兄家族とともに廈門に移住する。一族で手分けして台湾と廈門で事業を発展させようとしたのだ。伯父は役所に食い込んでいき、父親は海運貿易事業にたずさわった。一方で父親は文芸を好んだから、詩人をはじめとして芸術家らとのつきあいも多かった。だから家では文芸をはじめ、中国の伝統的な音楽や芸能はもちろん、西洋音楽もふくめ多様な芸術に触れる機会がたくさんあった。父親はまた台湾同郷会に加入し有力者であったから、台湾から廈門を訪れる著名人とのつきあいも増えた。実業家、学者、文人、医師などさまざまな人が廈門で江家を訪れている。


 このころの江文也には、面白い特技があったという。それは台湾民謡「天黒黒」を福建省各地のさまざまな言語で唄うことだった。これは、おじいさんとおばあさんのユーモラスなやりとりをうたったコミカルな、台湾では非常に親しまれている歌だ。台湾では台湾語、つまりもともとは福建省南部の言葉であった南語(ミンナンゴ)でうたわれる。だが江文也は、それとは微妙にイントネーションの違う地方語、同省北部の北語、同省中部の中語などで見事に「天黒黒」を唄い分けて喝采を浴びたという。卓抜な音感の持ち主であったことをうかがわせるエピソードだ。


 さてこのようにして江文也のなかに培われた音楽の素地が、のちに音楽家・江文也の作品にどのように生かされたかは、非常に興味深いテーマなのだが。