江文也、上田での少年時代      江文也その2

 
 1923年9月7日、江文也は兄と二人で上田駅に降り立った。江文也はこのとき13歳。ほぼ一月前の8月4日に母を亡くし、その3週間後には廈門の父の元を離れ、12日間の長旅の末に上田に到着したのだった。江兄弟は上田で、父の知人である山崎あき宅に身を寄せ、学校にかようことになっていた。

 

 信州の夏は短い。夏休みは4週間しかない。8月中旬を過ぎるともう2学期が始まる。


 廈門では江文也は兄や弟とともに、旭瀛書院という学校にかよっていた。この学校は台湾における台湾人向け初等教育機関・公学校に準じるものだった。というのも日本はヨーロッパ列強が清末に中国を分割統治し始めたのをまねて、廈門や福建省沿岸の独占租界権を獲得していたのだ。廈門には領事館、病院、学校、台湾銀行支店などを設立して、台湾人の移住をうながし、その結果1万人ほどの台湾人コミュニティができていた。


 台湾でも公学校を出た台湾人は、中学に入って初めて小学校を出た日本人と席を並べることになった。そのときの戸惑いや大変さを、私はたくさんの人から聞いてきた。台湾人は入学までは家庭でそれぞれの母語を使っている。台湾語客家語、先住少数民族のそれぞれの民族語などだ。公学校に入ると日本語を教えられるわけだが、言葉はそう簡単に身につくわけではない。


 江文也の場合は、父親は客家客家語を話した。母親は台湾東海岸の花蓮の出身で台湾語を話した。幼時には台北の台湾人繁華街であった大稲埕で暮らしていたから、たぶん母親や周囲の人が話す台湾語が、彼のいちばん得意な言語だったのではないか。廈門に渡ったのが何歳かははっきりとは分からないが、住んでいたのは台湾人コミュニティのようだから、やはり台湾語を使い続けたであろう。廈門語は台湾語と似ているから、廈門語もある程度習得したかも知れない。もちろん旭瀛書院では植民地統治下の学校として、国語である日本語も教えられたはずだ。


 上田に来た江文也は年齢的には中学1年生だが、学年途中からの編入は無理と見なされ、上田尋常小学校の6年生に入った。現在上田の中心街・大手にある清明小学校が、その後身であろうと思われる。江文也がその後進学した上田中学(現・上田高等学校)、レコードコンサートを楽しんだ梅花幼稚園なども、すぐ近くにある。子供らしくすんなりと環境に馴染んだかに見える江文也だが、彼がこのころ書き残した日記は中国語で書かれている。まだ幼い彼が、ひそかに二重の言語生活を送っていたことを、周囲の日本人で気にとめる人は少なかっただろう。

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 江文也はピンちゃんと呼ばれていたらしい。本名は江文彬で、台湾や廈門では阿彬(アピン)と呼ばれていたから、それにならってピンちゃんが愛称とされたのだろう。小柄で大人しかった彼は、日本人の生徒と同じように絣の筒袖で膝丈の着物を着て学校にかよった。親代わりに面倒を見た山崎あきは和裁が得意だったそうだから、周囲の子供と同じような着物を縫って着せたのだろう。


 上田尋常小学校のやはり6年生だった瀧澤乃ぶは、休み時間に「台湾から来たピンちゃん」を見に行ったという。当時は男子と女子はべつべつの学級だったから、ピンちゃんの評判は女子学級にまで伝わっていたことになる。小柄で寡黙なピンちゃんは、ピアノがうまいと評判で、学校に一台だけあったピアノを弾くことを許されていた。


 翌年4月、江文也は上田中学に進学した。中学にはいると服装も学生服、学生帽に編み上げ靴に変わる。現在そこは上田高校になっているが、もともとは上田藩主館跡とあって、校門はまるで城の門のように立派な構えだ。武家屋敷名残の石垣塀の外には小さいながら堀まであるから、学生は堀にかかる橋を渡り校門をくぐることになる。ここに通学した江文也を想像してみる。当時はいまのように整備されていないぶん、あたりはたっぷりと江戸情緒をたたえていたであろう。彼にとっては異国的と感じられる美しい道筋を毎日歩いていた、と思うと、他人事ながら私もうれしい。このころ彼は、父親から山崎あきの生活費まで含む潤沢な仕送りを受け、蓄音機やレコードを買ってクラシック音楽に親しんだ。

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 上田尋常小学校からも上田中学からも近い場所に、梅花幼稚園がある。建物は手直しはされたものの設立当初の構造や雰囲気が維持されている。ここは上田メソジスト教会の宣教師が、教会の付属幼稚園として1902年に開園したものだという。カナダ人の女性宣教師メアリー・スカットは、1922年に上田に派遣されるとすぐに梅花幼稚園で日曜学校を開いた。青少年に聖書を教え、レコードコンサートなどを催したのだが、ここには中学生、女学生、上田蚕糸専門学校(現・信州大学繊維学部)の学生などが集った。

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 江文也は梅花幼稚園の日曜学校にかよい、音楽を楽しんだ。しばらくすると瀧澤乃ぶも日曜学校の仲間にくわわった。じつは瀧澤乃ぶは尋常小学校を出ると、東京の雙葉女学校に進んだのだ。父親は17世紀初頭から続く上田宿の問屋の十一代目で、目抜き通りの原町に広壮な屋敷を構えていた。上田銀行の頭取でもあり財力のあった彼は、長女乃ぶに東京の上流階級の子女と交わり、フランス語を学ぶことを望んだ。ところが乃ぶは、せっかく入った雙葉女学校を2年で止めて上田に戻った。きっかけは父親の再婚で、再婚相手の女性が乃ぶを呼び戻すことを強く主張したのだという。継母の立場からすれば、娘を東京でひとり暮らしさせておくのは世間体が悪いと考えたのだ。


 瀧澤乃ぶは東京暮らしのあいだに、レコードをたくさん買い求めていた。日曜学校でのレコード鑑賞会には、それらをこころよく提供した。江文也が乃ぶからレコードを借りて、家へ持ち帰ることもあった。こんなふうにして二人は親しさを増していった。乃ぶも短いあいだではあるが東京生活を経験してきて、異邦人である江文也を理解し始めたのかも知れない。


 大正末期の上田。車の通行などほとんどなく、町中さえも静かだっただろう。江少年は瀧澤家の脇の小道を通るときにはしばしば、レコードで習い覚えた曲を朗々とうたいながら通り過ぎていったという。乃ぶはその歌声を聞くたびに、あ、ピンちゃんだと思った。二人はときには瀧澤家の門口で立ち話をすることもあった。だが乃ぶの父親は、これをこころよく思っていなかった。江少年は裕福な育ちではあっても、台湾人だ。


 瀧澤乃ぶは、85歳のときに若いころを振り返ってこんなふうに語っている。
「私は、当時の言葉で言う『新しい女性』でした。封建的なものや、古くさい世の中が嫌いで、あのころ危険思想なんて言われた社会主義の本も読みました。平塚らいてうのような、進んだ女性思想家に共感することも多かったのです」