ヴンさんは、1週間に1回ほど我が家にやってきて、日本語の勉強をする。
元気よく自転車を飛ばしてきて、庭先でひらりと飛び降り、こんにちはと叫ぶ。
ヴンさんはベトナムから日本にやってきて、1年半になるそうだ。
仕事の合間をみて1日3時間勉強したそうで、最近いろんな話ができるようになった。
ヴンさんの故郷は、ハノイの北のタイグェン省。実家は農家だそうだ。
ベトナムの写真集に水牛の顔のアップがあった。ヴンさんは写真を抱きしめた。
小さいころ、水牛の鼻につけた綱を引いて父を手伝った。父は牛の後で鋤を押して、畑を耕した。
水牛は頭がよくて、かわいい、と言う。
両親が忙しかったので、ヴンさんは皆より1年早く、5歳で小学校に入った。
のちにはタイグェン大学に進学し、テクノロジーを勉強した。
大学を卒業したとき考えた。
ベトナムで就職したら、月給は、よくても日本円でせいぜい5万円。2,3万円の場合もある。
日本へ行こう、とヴンさんは考えた。
ハノイにベトナム人が経営する紹介センターがある。
日本では企業が集まって組合をつくり、紹介センターに求人を依頼する。
紹介センターでは、就職希望者の面接をして採用を決定する。
採用が決まると、渡航手続きにうつり、日本語の勉強も始まる。
日本語学習は5ヶ月。寮生活をし、日本の生活習慣なども学ぶ。
学習の費用は5万円から6万円。
そのほかに手続き費用、渡航のための飛行機代で約65万円。
うち約20万円は保証金で、ベトナムへ帰国するときに返還される。
日本に来る前に70万円もかかるなんて。それはどうやって払うの?
ローンを組んだと、ヴンさんは言う。
日本に来たら給料は約束通り12万2千円だった。
皆勤手当が月1万円、残業手当は1時間1000円。
寮費1万3千円と保険料の合計で、4万5千円天引きされる。
すると手取りが約12万円。
生活費2万円を残して、10万円を実家に仕送りする。
そのなかから両親がローンの返済をしてくれる。
2年ほど前から勤務先は3交代制になった。
車の部品をつくっている会社だ。
夜勤と深夜勤はベトナム人だけだ。
日本人はやらない。
会社は自転車を貸与してくれる。
夜勤は14:00から1:00、深夜勤は0:00から9:ooだ。
真夜中に人っ子一人いない道を、自転車を押して出勤する。
退勤時は下り坂だから、10分ほどで帰れる。
私たちボランティア仲間は、毎週土曜日夜に日本語教室を開く。
教室を終えて、満天の星を見ながら、ひっそりとした道を帰るのが好きだ。
ただし教室は4月から11月まで。12がつから3月までは冬休みだ。
ここの冬は寒さが厳しいから、夜の教室はムリなのだ。。
けれど冬期の厳寒のなかも、ヴンさんたちは自転車で深夜に会社に通う。キツネの出そうな山道を。
例年7月には、日本語能力検定試験がある。
どうしても受かりたい、とヴンさんは言う。
冬休みだなんて、とんでもない。
するとボランティア仲間の宇野さんが、寮の近くの公民館に交渉して冬期クラスを開いた。
宇野さんは定年を過ぎたが、まだ会社勤めだ。
地元の工業高校を出て、機械の設計の仕事をしているという。
土日は畑で野菜をつくる。
だが冬は畑仕事はないからと、木枯らし吹きすさぶなか、公民館で日曜午後に教室を開いた。
4月になり、日本語教室の新学期が始まった。
夜勤のせいで、ヴンさんは1ヶ月に1回ぐらいしか行かれない、という。
日本語能力試験はせまっている。
そこで私が、1週間に1回、家で日本語を教えることにした。
先日、ヴンさんが「いたいです、いたいです」と言った。
なにが痛いのか聞きかえしたら、「言いたいです」の意味だった。
会社の給与計算が間違っていたり、シフトの組み方がヘンだったりする。
上司に話しても、日本語が下手だから言い負かされてしまう。
だから日本語の勉強をして、言いたいことを、言いたいのだ。
勉強がすむと、私の畑でパクチーを摘む。
ヴンさんは大喜びだ。一緒に暮らす寮の仲間も大喜びだ。
日本人で、パクチーが好きな人、珍しいですね、とヴンさんは言う。
ほとんどの人が、顔をしかめて臭いと言いますよ。
私はそれ以来、畑仕事に張り合いができた。
パクチーの摘み方を、ヴンさんから教わった。
なるほどヴンさんのように摘めば、つぎつぎに脇から葉が出る。
真ん中の茎に花がつき、やがてタネがこぼれ落ちて、またパクチーが生える。
ヴンさんの日本語の勉強は順調だ。
毎回、たくさんの質問を持ってくる。
畑でパクチーの育ちぐあいを見ながら、私は考える。
若いときから、なんとかこの社会を変えたいと、いろんなことを試みた。
どれもがほとんど失敗に終わった。そう思って時折気が沈む。
けれど、ヴンさんがあらわれて、少し心持ちが変わった。
給料も待遇も、日本人よりずっと悪い、とヴンさんは言う。
国家間の経済格差ゆえに、不平等な扱いに甘んじなければならない。
専門を生かせず、単純労働に追い回される、とヴンさんはくやしがる。
そうだ、そういう人たちが力をつければ、少しでも社会を変えられるかもしれない。
だが、それにしても、だ。
この市でも、定年退職後の男たちが、名目だけの施設長の職をあてがわれ、給与をもらう。
そこへ行くと、どうだ。日本語教室に集うボランティアスタッフは、まったく無給。
そして、いい加減な国の制度・技能実習制度の尻ぬぐいをする。
市もボランティアスタッフを頼っているくせに、手は貸そうとしない。
けれどゴチャゴチャは言っていられない。
ヴンさんたちにとっては、いまは光り輝く青春時代。
やりたいことをもっとやれるよう、少しでも楽しくなれるよう、と願うばかりだ。