風邪と夢

 

軽い風邪をひいたようで、朝起きるとき喉がざらつき微かな頭痛がする。それで数日のあいだ用心して、朝晩念入りにうがいをし、時折風邪薬を飲んだりした。どうやら発熱にはいたらずにやり過ごしたが、思えば昨年もこの時期に風邪をひいて、熱のために8日間ぐらい寝込んだのではなかったか。初夏の風邪が癖になどならぬよう気をつけなければいけない。

 

私は薬に過敏な体質なので、薬は極力飲まないようにしている。だが今回はいくつか外せない予定が入っていたので、一日に一回夕飯後だけ風邪薬を服用して早々と寝床に入った。風邪のせいと薬のせいでよく眠れる。だが薬など飲んでいない時と比べて、どうも眠り方がヘンだ。半醒半睡というか、寝ているのに頭の一部が冴えているようで、妙にリアルな夢を見た。

 

ひとつは、絶対に思い出したくない恥ずべき行いが夢で事実どおりに再現された。夢の中に、こんなこと二度と思い出したくなかったのに夢に出てくるなんて、と嘆いている自分がいておかしかった。しかし幸いなことに、その行いが何だったかは目が覚めたら忘れてしまっていた。

 

もうひとつは、我が家のロボコンのことだ。ロボットクリーナーを、私はロボコンと呼んでいる。我が家で二台目の現在のロボコンは、ツカモトとかいう小さいメーカーの製品だが、小型でシンプルで価格も安く使い勝手もいい。一台目はバッテリーが切れそうになると自分で充電器に戻るおりこうさんだった。現在のロボコンはバッテリーが切れると止まってじっとしているので、よしよしと抱き上げて充電器まで戻す。前のはバッテリー切れ直前にあわててお尻を突き出して充電器に突進する姿がかわいかった。いまのはその点は、淡々と働き、動けなくなると止まるのみだが、それもまた愛らしい。

 

その2台目ロボコンが故障した。後ろ向きにしか進まなくなり、しかもわずか進むと止まってしまう。取扱説明書を取り出してチェックしてみたがどうにもならず、メーカーに連絡をして点検修理のために送り返すことになった。担当者からは本体と付属品のコードや充電器を同梱するようにと言われた。

 

いざ故障となるとやはり不便で仕方ないので、すぐに梱包して送った。しばらくすればロボコンは元気になって帰ってくるだろう。そんなことを思っている時期に、ロボコンの夢を見たのだ。ロボコンは旅に出ていた。電車に乗っている風な具合に、私がビニールや紙に包んで入れた箱の中に、窮屈そうに鎮座していた。わきに何やら黒くて四角い重そうなものがあり、ロボコンはそれが自分の肩あたりに触れるのを嫌がっているふうだった。

 

不思議な夢だったなあと思っているところへ、ロボコンが帰ってきた。修理完了品とのラベルが貼られたきれいな箱に入っていた。ああよかった元気になったのだな、と喜んで手早く荷を解いた。するとロボコンは点検時に汚れを取ってもらったらしく、出かけた時より心なしか美しくなっていた。添付されていた書類には、故障はなかったと書いてあり、使用上の注意事項が分かりやすく書かれた紙も添えられていた。

 

そして思いがけないことに、ロボコンの隣には、ロボコンとは無関係の大きい四角い充電器が入っていた。それは我が家の別の掃除機、マキタのコードレスクリーナー用の充電器で、それが証拠にマキタと大きく製品名も書いてある。ロボコンの充電器は本体にふさわしくコードにちんまりと付属している小型なものだ。それなのに、充電器を同梱しろと言われて、私がうっかり別の掃除機の充電器を入れてしまったらしい。

 

いずれにしても、ロボコンは元気できれいな姿で帰ってきた。そしてただロボコンにくっついて旅をしたに過ぎないマキタの充電器も、何食わぬ顔で帰ってきた。それにしても、ツカモトのお兄さんたち、笑ったことだろうな。このお客は、何を考えているのだろう、うちのロボコンにマキタの充電器が必要だと本当に思っているのだろうか。心配だなあ、これからも無事に使ってくれるかしら、などと。

 

だが考えてみれば風邪薬がもたらした夢は、このことだったのだ。私がロボコンに無駄な荷物を背負わせて旅立たせたことが、夢の中に出てきたわけだ。夢ってヘンなものだ。マキタの充電器を荷物に入れつつ、私の心の中にほんの微かな疑問がわいたのを、私本人は忘れてしまっていたのに、頭のどこかの回路を使って夢が教えてくれたということになる。しかしそれが風邪薬の作用であるとしたら、やはり薬はなんとなく怖い。

アカシヤが倒れた

 

3日ほど前、晴天続きで畑が悲鳴を上げていたところへ、やっと雨が降った。夜半から夜明けにかけてかなりの雨が降るとの予想だったから、これで畑の作物も生き返ると胸をなでおろした。

 

朝起きるとまだ雨はしとしとと降り続いていて、庭の草木も生き生きと美しくなっていた。もっと降れもっと降れと祈りながら朝ご飯を済ませた。いつものように新聞を取りに行った夫が、「大変だ」と言いながら戻ってきた。「門のそばの木が倒れている、道路をふさいでしまっている」などと言うが、木の名前を言わないので状況がつかめない。

 

とにかく傘をさして門まで出てみると、ほんとうに大変なことになっていた。いまをさかりにびっしりと白い花をつけたアカシヤが、根元からばったりと倒れている。どうやら花に雨水がたまってその重さに耐えられなかったらしい。幹の途中がフェンスによりかかり、斜めになった大きい樹木が白い花の房をゆさゆさと揺らしながら道路一面をおおってしまっている。

 

幸い我が家は住宅街のはずれにあり、交通量は少ないうえに簡単に迂回できる道路もある。だがどうしてもここを通りたい車も無いわけではないから、とにかく道路の半分だけでも通れるようにしなければならない。鋸を出して、自分で切れそうな枝を切り落とす一方で、手に負えそうにない太い幹を切ってくれそうな人を思い浮かべた。

 

桜田さんに頼もう。市役所関係の仕事で週に4日ほどは出勤しているようだが、この時間ならまだ家にいるだろう。3年ほど前に前代未聞の大雪に見舞われたときに、門から玄関までの雪かきを請け負ってくれた縁で、その後も何回か手に負えない庭仕事などを頼んでいる。

 

電話をして状況を説明すると、早朝の電話にべつに驚いた風もなく、桜田さんはすぐに軽トラックで駆けつけてくれた。そして手早くフェンスから飛び出している太い枝を切り落とし、軽トラックの荷台に積んで持ち去ってくれるという。フェンスのなかに斜めに倒れている幹は、数日中に片づけるからと言うと、雨の中をさっと走り去った。

 

それにしても我が夫のなんと頼りないことか。雨に濡れながら動き回る桜田さんと私の傍らで、この非常事態だというのに片手で傘をさしたまま、形だけ片手に鋸を持ってうろうろするのみだ。猫の手にも何もなりはしない。しっかりしてよ、この歳になってつれあいに愛想をつかすようなことになったら、おたがい面倒くさいよ。そう心中でつぶやきながら、さっさと家のなかへ消えた後ろ姿に舌打ちしたい思いで道具などの後始末をした。

畑のよろこび

 

今年の畑はどうしようか。キウリは作らないことにしよう。うちではいつもちょっとみじめなものしかできないし、歩いて10分ほどの駅の無人販売で、毎朝持ち込まれるおいしいキウリが山ほど手に入る。

 

ナスもやめておこうか。3年ほど前に水ナスというのがとてもおいしくできた。でもあれも偶然だったようだ。あれ以降、数回試みたがやはりたいしたものはできない。それにこれも駅で毎日新鮮なのが手に入る。

 

こう並べてみると、要するに私の畑仕事がいかに下手かということが暴露される。皆がちょっと庭先など利用して、自家用のキウリやナスやトマトを難なく作っているふうなのに、私が作るとどれもこれもそううまくはいかない、ということなのだから。

 

それで今年は、簡単には手に入らない私の好きな野菜、または腕に関係なく収穫できる野菜に限ることにした。まずは欠かせないビーツを蒔いた。これは毎年うまくいくのだ。フェネルは昨年根を残したので、自然に青々とした葉を茂らせ始めた。コリアンダーは、増えて困るくらい畑のあちこちに生い茂る。キクイモも自然に生えてきてくれる。カモミールもそのうち群れ咲くことだろう。

 

これに加えて、ジャガイモを蒔いた。庭の木の枝を伐採してくれた桜田さんが、自分の畑の余りだと下さったのだ。私の腕を見透かして、桜田さんは細かく栽培手順を教えてくれた。深く掘ること、芽が出たら芽と芽のあいだに化成肥料を一握りずつ撒くこと、など。でも私はその通りにはやらない。自然農法を実行している人の真似をして、土を耕しもせずにスコップで割れ目をつくって、20センチほどの深さにポトリポトリと埋めただけだ。これがひと月以上たったいま、かなりの高率で芽を出し始めた。よその畑ではもうジャガイモは大きく葉を茂らせている。私の畑では芽が出たばかりだが、心なしか元気のよい濃い緑色をしている。

 

それからネギも植えた。ただし、他の畑では見かけたことがないが、南北と東西向きの直角に交わる畝を作った。日差しや風向きの加減で、どちらがうまく育つか見てみたいと思ったのだ。いずれにしてもネギはあまり失敗がないから、安心して見守れる。これで何とか格好もつくだろうと思っていたら、ヨガ友達の杉山さんから連絡が来た。苗をあげる、というのだ。

 

杉山さんは実家が米つくりまでやっているらしく、畑仕事も堂に入っている。なのに彼女は漫然と慣行農法に甘んじてはいない。自然農法を教えてくれたのも杉山さんだ。化学肥料や農薬を使わないのはもちろんだが、雑草だからと取り除いてしまうのではなく、雑草とともに野菜を育てようというわけだ。

 

そればかりでなく、杉山さんはタネも安易に買ってくることはしない。いま普通に売られている種は、それで野菜を育てても、その野菜は子孫を残せない。つまり種が実らない野菜だ。私も野菜を作るなら、昔のように自分のうちで種を取ることができる伝統野菜を育てたいと思っていた。埼玉県にそういう健全な種を売る小さい種屋「野口種苗」があるので、私はそこから種を買う。するとある日、杉山さんもそこから種を買っていることが分かった。

 

杉山さんが、野口の種から育てた苗を分けてくれるとあっては、粗末にはできない。持ってきてくれたのは、苗は、カボチャ、キウリ、トマト、ピーマン、唐辛子。種も自分が使った残りを分けてくれた。トウモロコシ、青豆、大根、春菊、落花生と色とりどりだ。おまけに庭に増えすぎたからと、コゴミも一株持ってきてくれた。

 

さあ、忙しくなったぞ。私の怠け心も吹っ飛んだ。畑の地図を思い浮かべ、雑草や周りの野菜との相性を考えて、どの場所に何を植えようか何を蒔こうかと頭を悩ませた。それは私流のパッチワークみたいな畑で、何とか乗り切れそうだが、困ったのはトウモロコシだ。

 

というのも私の畑には狸も出るし鹿も出る。昨年もトマトを盗みに来る狸と知恵の出し比べをし攻防戦を繰り広げた。だがトウモロコシに手を出す鹿とは、どうも渡りあえそうもない。鹿はかなり暴力的で、ちょうど食べごろを狙って一夜でトウモロコシを根こそぎにして畑を荒らし、食い尽くすからだ。仕方がない。トウモロコシは庭に蒔こう。

 

ところが我が庭は、自然林の続きのように大木が生い茂っているせいで日当たりがよくない。朝から夕方まで日差しを追いかけて観察した結果、まあまあ日の当たりそうなフェンス沿いにトウモロコシを蒔くことにした。時節がら開きかけた花が甘やかな香りを放つアカシヤに囲まれて、フェンス沿いを耕した。この辺りは火山灰地だから、軽石がゴロゴロと出てくる。これでもトウモロコシは育ってくれるだろうか。

 

気づけば昨日は、つい夢中になって5時間も畑仕事をした。くたくたに疲れて8時には寝てしまった。そうそう、こんな年甲斐もないような熟睡まで含めて、畑のもたらしてくれるよろこびは、大きい。

ユリノキを返せ!

花見が終わり、木々の若緑がまぶしく萌え出る季節になった。周囲の緑が日に日に増えて窓の外を見ても、山を見ても、地面を見ても、そして鏡の中までが緑色になっていく。いつもなら心躍る時期のはずなのだが、今年は気が沈みがちだ。というのもこんなことがあったのだ。

 

1月末のことだ。前の道路にいきなりクレーン車が現れた。市立ふれあい会館の横手の生け垣を刈りだしたと思ったら、その内側にある木を切り始めた。あれよあれよと思う間に大木が3本なぎ倒されてしまった。市役所に電話をして担当部署を探してもらい、なぜ木を切るのかと抗議などをしているうちに、1本の木を残してクレーン車は引き上げていった。いま思えばこのとき私は、私の抗議が功を奏したのかなどと能天気なことを思っていた。

 

ところが翌々日、またクレーン車が来た。と思ったら残った1本にロープをかけ始めた。たまらず私は家を飛び出し、作業監督をしていた区長にやめてくれと訴えた。一昨日市役所に電話をしてもらちが明かなかったし、その日は土曜日で市役所には担当者が出ていないとのことだったから、それしかないと思ったのだ。

 

区長の説明を聞いて驚いた。伐採する理由は、落ち葉が多いからだというのだ。しかも、伐採は区の三役会議で決めて、市役所に何回も足を運び1年かけて決裁を下してもらったもので、手続きに遺漏はない、という。いまになって思えば、この区長の言いぐさはつまり「役員が決めたことだから、ただの区民がつべこべ言うな」ということだ。

 

この4本の木は、樹齢30年を超えるユリノキだった。なるほど落ち葉は多いが、若緑の芽吹きから始まって、夏には深い木陰をつくり、ユリに似た白い大ぶりの花をつける。ユリノキを「妖精が住む木」と呼ぶ地方があると聞いたことがあるが、花が咲くとほんとうに葉陰から妖精がのぞいているような雰囲気がある。そんな雰囲気のある木に無意識のうちにも愛着を抱き、それにまつわる思い出を育んできた人も多いはずだ。そんなことを必死に言ってみたが、区長は聞く耳を持たずに作業の指示を出した。抗議する私の目の前で伐採は着々と進められ、あとには4本の木が枝を広げていたあたりにぽっかりとした空間だけが残された。

 

それにしても必死で切らないでくれと頼んでいる人がいるのに、あれほどの大木を平然と切る区長の心中は、私には理解不能だ。それもただ「落ち葉が多い」という理由だけで。4本の木があった場所に目が行くたびに、「ユリノキを返せ」と叫びたくなる。今度区長に会ったら言ってやろう。「ユリノキを元に戻してください」と。市の木なのに、周辺の住民の意見も聞かずに、しかも事前の通知も一切なしに切ってしまったのだから。

 

 

アニータ・ブルックナー著『嘘』

アニータ・ブルックナー著『嘘』を読んだ。

あれ、この人、こんなに面白い作品を書く人だったかしら。前にちらっと読んだのがいつのことなのか覚えてはいないが、あのときは読み取れなかったのかなあ。

 

 

主人公はロンドンに住むアナ。中年を過ぎた独り身の女性。彼女は母の最期を献身的に世話をして看取り、すると母と二人で長年暮らしたどっしりとしたマンションの住まいをあっさりと処分して、こぎれいな高級マンションで一人暮らしを始めた。

 

 

思えばアナは、母が望むとおりに生きてきた。裕福に育ち、大学卒業後はパリに1年留学して19世紀フランス社交界の研究に手を染めた。その研究を断続的に進めながらも、それを職業とするまでにはいかず、積極的に結婚しようともしなかった。

 

 

そのアナが、突然失踪した。届け出たのは行きつけの医師ハリディ。診療予約をしたアナが、一向に受診に来ないのを不審に思ったのだ。彼はアナの母親のかかりつけ医として、アナとも長年にわたるつきあいがあった。というよりもアナの母親に、アナとの結婚を望まれるほど、好意を持たれていた。彼はそれを知りながら、べつの派手好きな女性と結婚した。アナは彼から結婚の予定を告げられたとき、死期がせまっている母親には知らせずに、彼と娘との結婚の望みを抱いたまま死なせてくれと、彼に頼んだほどだ。

 

 

アナ失踪の届け出をきっかけに、アナがかかわりを持った女性たちが登場する。彼女たちとアナがどんなつきあい方をしていたかが語られ、アナが素早く相手の意図を汲み、先回りをするように落ち度のない気づかいをし、手助けをする女性であることがこまかに描かれる。

 

 

こういう女性は、じつは世の中にたくさんいる。日本ではいまだにこの種の女性が圧倒的多数のような気がする。女性はとかく周囲に気づかい周囲に役立つようにと育てられ、それが習い性となって一生を過ごす。だから、それがあたかも自然な姿なのだと周囲のみならず本人さえも思ってしまう。

 

 

しかし、この主人公のアナは、その自分の「嘘」に気づくのだ。そしてそうでない自分の人生を取り戻そうと、50歳を過ぎた身で一人決然と生き始めるのだ。その姿を、日常のこまごました出来事や所作や会話を通して描き、ひとりで新しい生き方を始めるアナを日常のなにか一つを変えただけ、というような軽やかさで書いているところが、この作品の特筆すべき美点だろう。

 

 

つづいて、アニータ・ブルックナーの代表作とされるブッカ―賞受賞作『秋のホテル』も読んでみた。『嘘』のほうが、数段すぐれた作品のように思えた。

友の死

数日前、友人のkさんが1年余り前に亡くなっていたことを知った。享年65歳。勤務先で最後の1年の仕事を始めようとしていた矢先の4月に病が見つかり、3か月ほどの闘病ののちに亡くなったようだ。

 

知らせてくれたのはkさんと共通の友人のLさん。いま81歳か82歳で、彼女にとっては異国の地である日本で、留学をきっかけに住み着いて以来40年。数年前から脚がだいぶ不自由なはずだから、老いの身の一人暮らしということになる。

 

その日、めったに電話など来ない私の携帯電話に、珍しく3件の着信記録があった。1件は取りまとめを頼んでおいた会合の日取りが決定したという通知だったから、急いで了解の旨の返信をした。もう1件は、聞き取りにくい伝言メッセージで、かろうじて聞き取れたのがLさんの名前だった。しかも発信番号は、発信者不明のため私がずっと無視し続けてきた東京の電話番号だった。Lさんは、私に電話をし続け、10数回めにはじめて伝言メッセージを吹き込んでくれたのだ。

 

それでLさんに2年ぶりぐらいで電話したその電話でLさんから知らされたのが、kさんの死だった。Lさんは私がkさんと何の連絡も取っていなかったことにあきれたようすだった。kさんとは実は、2年ほど前まで職場を同じくしていた。だが私はある日突然そこを辞した。しかも私には、だがなにゆえか分からないが、あるとき知り合いときれいに関係を断ってしまう癖がある。学校を卒業したり、職場を離れたり、あるいは数年つきあった趣味のグループをやめたりすると、以後は一切の連絡を絶ってしまう。だからあの職場からも、ある日きれいに姿を消した。思い出してみれば、昼に弁当を食べながらそれなりに楽しくおしゃべりした友人などもいたのだが。2年もたたぬというのに、名前さえさだかには思い出せない。

 

そして、死についても私にはヘンな癖がある。死の受け止め方は、人それぞれ違うだろう。だが私の場合は、人が死んで悲しんだことがない。ああ、死んだのか、と思うだけだ。いちばん身近な死は、高校時代に親しかった同級生、それに母や父だが、そのひとたちのことさえやはり悲しいとは言えない、うっすらとした寂しさを感じるだけなのだ。

 

kさんは、いまどきの人らしくブログを書き残していた。どんなふうに亡くなったのか知りたくて、ブログを探し出して目を通してみた。死の3年ほど前、東北大震災に続く福島原発事故をきっかけに書き始めたらしいブログは、安保法制反対の声明で終わっていた。死の20日ほど前だ。へえ、kさんてこういう人だったのか、政治オンチかと思っていたが、と苦笑した。

 

そのなかのほんの数行が、私の心から離れない。kさんは母親と二人暮らしだったらしい。母親が数年前から認知症になって、漢字が分からなくなり、ひらがなが分からなくなり、娘たちのことも分からなくなった。そして口癖になった言葉が「私はどうしちゃったのだろう、バカになってしまった」だった。kさんは「お母さん、そんなことないよ。ぜんぶ分かっているじゃない」と言い続けたという。

 

kさんの病が発覚して以来、母親は夜床に就くと両手を組んで祈りの姿勢を取るようになった。kさんは、老いて先の分からぬ深い闇の淵に立つ母親のために、自分は祈ったことがあっただろうか、と自問している。そう、これが私の知るkさんだ。

 

 

狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ

 また分厚い本に手を出した。『狂うひと』(梯久美子著 666頁)。途中でやめときゃよかったとは思わなかったが、しかし、、、。

 著者ははじめは島尾ミホの半生を本にまとめようとしたが、途中で取材を断られてしまったという。しかしミホの死後に、残された膨大なノートや手紙、メモ、草稿などをすべて閲覧する機会に恵まれた。それらを駆使していわば「死の棘」創作の裏側を暴いたとでもいうのが、本書の内容だ。資料の読み込みは緻密を極め「死の棘」で夫婦が繰り広げる狂態が、実は阿吽の呼吸の協作だったかもしれないなどの、ひりひりする実態まで浮かび上がる。それはいかにもスリリングだ。

 島尾敏雄は知られているように特攻隊長の生き残りで、その体験や、自分が見た夢などの非現実的な話を書く地味な作家だった。それがある日、日記に記した情事の記述を読んだ妻が狂躁状態におちいってしまい、その妻をなだめつつ右往左往する「病妻もの」を書くようになる。これは短編の形で7年にわたって書き継がれ、短編集「死の棘」に結実した。

 この陰陰滅滅たる夫婦のいさかいの記録。そこには2人の子供もいたから、今でいう育児放棄の悲惨な描写。その暗い話が大衆的な知名度を得たのは、それにふさわしい包装がされたからだ。この夫婦が、たかが夫の浮気ぐらいでこれほど凄絶な争いをするのは、彼らの愛情がとくべつ崇高であるあかしだ、というような。また二人が出会ったのが戦時下の加計呂麻島であったことから、ミホは南島の神話的世界で育った純粋無垢な霊能力のある少女、敏雄は死を運命づけられた極限状態でミホに愛をささげた、というふうな。そんな書き方をしたのは男の評論家たち奥野健男中村光夫吉本隆明などだ。「死の棘」は芸術選奨を受賞し、のちに映画化されて世間に広まっていく。

 けれども本書「狂うひと」のずっと前から、女性の作家や評論家は「死の棘」の、そしてそれへの讃辞の欺瞞を見抜いていた。たとえば上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子著「男流文学論」などは、ミホと敏雄の恋愛はなにもとくべつなものではない、と指摘している。むしろミホが戦時中の隊長様へのあこがれを捨てられず、ロマンチックラブ幻想の呪縛から解かれていないことこそが問題なのだと。つまり「狂うひと」が描出したポイントは、大筋としてはすでに前の3人を含む女性の書き手たちが述べていたことでもある。

 ミホは加計呂麻島で裕福な叔父夫婦の養女となり、跡取りとしてわがままいっぱいに育ったという。結婚後はたぶん、幼時から培われた自尊心と、夫に求められ自分も内心あこがれてもいた従順な妻とのあいだで引き裂かれる日々を送ったのだろう。それが爆発した「死の棘」の時期を経て、葛藤の末彼女は作家となり「海辺の生と死」などの佳品を残した。それでいながら彼女は島尾敏雄の死後、また従順な妻、愛に殉ずる妻へともどってしまったのだろうか。チャンスをとらえては自分たちが崇高な愛を貫いたことを強調し、それを演出するかのように終生喪服で通したという。なんとも、痛ましいと言おうか、滑稽と言おうか。