笑うしかないよね、頑張ろうね

朝のジョギングの途中、いつも神社をきれいに掃除して札所を守っている牧山夫人と立ち話した。この神社と深いかかわりがある由緒ある家の奥様なのだが、自宅はべつのところにあって、ここではもっぱら草木の手入れや札所の仕事のようだ。私はたいてい朝の散歩やジョギングで通りかかるので、草花の育て方を教わったり、苗をいただいたりしている。だがこの日ばかりは、別の話題で盛り上がった。

 

牧山夫人の話はこんなふうだ。

「買い物ぐらいできるようになった方がいいと思って、スーパーへ行くときヒロさんを連れていくんですよ。そうするとすぐに買い物には飽きちゃって勝手にいなくなるの。だから、買い物終えてから携帯電話で呼び出すんです。もう帰るわよって。食料品のことも、まして料理なんかも、何か覚えようなんて、本人はまったく思わないみたい」

 

「あの人たち、なんでも自分が正しいと思ってるんじゃないかしら。うちはそれでも、食後の洗い物は全部やってくれるの。だけど、杓子やヘラなんかと一緒に置いてある泡だて器が、いつも引き出しに移されている。使おうとするとないから、あ、まただと思って、引き出しから出す。毎回なのよね。あの丸い形が邪魔だという理由で引き出しにしまっちゃうらしいけど、なぜいつも使っている私の意見を聞かずに勝手に動かすのかしらね」

 

「あの人たち」などと呼ばれている話題の主は、言わずと知れたそれぞれの夫である。私は夏風邪のせいで珍しく熱を出して寝込み、8日ぶりのジョギングだった。一方牧山夫人は、しばらく前に血液検査で全身の癌を発見してくれるという病院に夫婦で行き結果を聞いたところ、「お宅は奥さんが先になくなるでしょう」と言われたとのこと。それで双方、夫の家事能力のなさがハタと心配になった、という事情があった。

 

出てくる話題は実際、笑うしかない、お手上げ状態の話ばかりだ。妻が熱を出して寝ているのに、夫はいつもと変わらず夕飯が出てくるのをただじっと待っていた。夕飯を食卓に載せて、ちょっと流し周りを片付けて席に着くと、夫はもう食べ終えていた。いったいなんだ、あの人たちは。5歳やそこらの子供でもあるまいし、、、と。

 

夫が死ぬと、寂しさもあるらしいけれど、凄くせいせいするそうよ。両方とも味わってみたいわね。とにかく元気で長生きするよう、頑張ろうね。そう言って私たちは別れたのだが。はてさて、当の夫たちはどんなことを話しているのだろう。同じような話題は出ているのかしら。

相談できる人がいないなんて

私のひそかな楽しみは、無名の素晴らしいシンガーを見つけることだ。あちこちののど自慢みたいなプログラムを見ていて、この人いいなと思ったら、数年後あるいは数か月後にすごい歌手になっていたりすることがある。もちろん最初に聞いた時より数段うまくなっている。

 

最近アメリカのEdgarという家族3人のコーラスグループを聞いて、すごいと思った。32歳の女性が、夫と15歳の娘と一緒に歌いはじめたのだ。だが彼女には歌について苦い思い出があった。彼女は10代から教会で歌い始め、歌のうまさが認められて17歳の時にレコードを出すことになりコンサートツアーにも出かけた。ところがそのころ妊娠した。するとレコード契約は破棄され、その後は教会で歌うことも許されなくなった。そのとき生まれた娘がいまでは15歳になり、その後結婚した夫と3人で歌い始めたというわけだ。夫は結婚した時にすぐに彼女の娘を自分の養女にした、二重の喜びだった、という。夫のギターとボーカルに2人の女性のボーカル、それぞれの味がうまく生かされてほんとうに美しい濃やかなハーモニーを醸し出す。

 

そのコーラスを楽しんでいたころに、たまたまネットのニュースで悲しい話を読んだ。日本で16歳の女の子と17歳の男の子が、生まれた子供を袋に入れて公園に埋め、逮捕されたというのだ。出産は男の子の家で2人だけで行い、すぐに2人で埋めてしまったという。

 

男の子は出産にまで、そして子殺しにまでもつきあったのだ。それならば妊娠発覚からこの事件を起こすまでのあいだに、2人で何とか知恵を絞ることはできなかったのだろうか。誰か相談する人はいなかったのだろうか。あまりにも寂しい話だ。

 

誰かがちょっと手助けをして、出産育児の大変な時期を乗り越えれば、その先にどんなことが待っているかはわからないのに。辛さもあろうが楽しみだって絶対あるはずなのに。日本はとかく、自業自得とか自己責任とか言って、過ちを犯した人を執拗に責める。周囲が一斉にそんな雰囲気に変わっていくという経験は、私自身も何回かしている。誰だって過ちは犯すだろう。そこから立ち直ることこそが大切で、そのために手を貸そうなどという考えが、この社会にはあまりにも乏しい。

カルテル・ランド

夏風邪とはいえ、私としては珍しく38度の熱が2日ほど続いた。普段の生活では考えないようなことも考えた。頭がふわっとする感じが残っているので、自分では病み上がりだなと思っている。

 

なのに、病み上がりの身としてはちょっとハードな映画、マシュー・ハイネマン監督の「カルテル・ランド」を見てきた。メキシコの恐ろしい麻薬戦争のドキュメンタリーだ。

 

メキシコのミチョアカン州で、麻薬カルテルによる市民を巻き込む凶悪犯罪に業を煮やした町医者ミレレスが、自警団を組織する。自警団は武器を調達し、市民の支持を得て、自警団を非合法組織として取り締まりに来た軍や警察を追い返すまでになる。

 

一方でこの映画は、メキシコから持ち込まれる麻薬や不法移民を阻止するためのアメリカ側の自警団も追っている。アリゾナ州アルター・バレーで、退役軍人ネイラーが率いるアリゾナ国境自警団だ。

 

自警団に集まるのは普通の市民なのだが、両方とも銃を手にバンバン撃ち合って戦う。両方のリーダーの主張も共通している。二人とも、自分がやっているのは正義だ、家族や市民は自分たちで守らなければならないとの堅い信念を持っている。

 

だがことはそれだけではすまない。自警団に権威ができ始めると、それをかさに着てちょっとした悪事を働くものが出てくる。市民の共感が薄れ、やがてミレレスを置き去りにしたまま、自警団は合法組織化されて軍や警察の傘下に入ってしまう。ミレレスは武器所持か何か小さい罪で収監されてしまっている、が結末だった。

 

ああ、どこに出口はあるのだろう。ミレレスの女好きなところ、その点に関しては妻も手を焼いていた、などというのは、結末から見れば、それくらいのこと何なのさ、というくらいのささやかないろどりといったところだ。

 

 

大暑だそうだけれど

昨日は大暑。暦の上ではいちばん暑い日なのだそうだ。

夏風邪からやっと回復し、さて日常生活を取り戻そうと気構えている。水曜日にはヨガに行った。病み上がりだがなんとかこなして、その日は気分よく熟睡した。その翌日は美容院にカットに行った。しばらく前から気になっていたから、晴れ晴れした気分になった。帰宅してから髪を染めた。

 

そしてその次の日の昨日。長野市まで映画を見に行く予定であった。「マイケルムーアの世界侵略のすすめ」が最終日なのだ。乗る電車の時間なども全部調べて準備していた。雨傘を持った方がよさそうだから、それに合わせてバッグもちょっとだけ大きめのにした。ここに住み始めてから、長野市程度の都会が私の好みに合う感じがして、たいていは映画のついでだが、長野に出かけるのを楽しみにしている。

 

ところが、諸事情で私としては珍しく映画は取りやめにした。無茶はするな、と体が言ったのだ。来週も見たい映画があるから、まあ今日のところはやめておくか、残念だが。そう思ったらとたんに眠くなって午前中に昼寝を30分してしまった。

 

昼食後、隣町の図書館へでかけた。隣町はわが町より人口も少なく、駅前商店街も本当に静かなものだが、私はこの街が好きだ。図書館ではフィリップ・ロスパトリック・モディアノを借りた。この2人は、今の私の好みに合っている。風邪をひいていた間も、彼らのおかげで布団の中にとどまることができた。あとは、自分でも意外だが宮沢賢治中島敦図書館というのは、本を眺めているうちに思わぬ感覚を呼び覚まされるのがいい。この2人の名前を目にしたとき、自分が読み残したものがある、という意識が働いたのだ。宮沢賢治を嫌いだと公言してきたが、好きなところをみつけてみようか、とも思った。

 

そして、ひっそり閑とした商店街に足を延ばす。歩いてみると、ちょっと足元が心もとない。やはり夏風邪の影響が残っている。そしてひと気のない通りの、ひと気のない小間物店に立ち寄る。迷惑は承知でたまにおしゃべりに立ち寄るのだ。

 

きょう盛り上がった話は、スイスのベーシックインカムの話。この店を切り盛りしている直美さんは、ベーシックインカムのことは知らなかったが、へえそれで?へえそれはなぜ?次々畳みかけてくるので、ここに来ると思わぬ話が飛び出すのだ。ごくふつうの店。でも大きいショウウィンドウに、あまり目立たない商品を背景に「9条をこわすな」のポスター。そして店の片隅にはパレスチナ支援の石鹸やオリーブオイルもある。

 

お喋りしている間にも、いくら静かな店でも数人の客は現れる。なんといっても、ここは駅前商店街なのだから。私は夏風邪の名残の咳がまだ取れないし、直美さんは嫌な顔一つしないけれど、しかしやはり余りの長居は迷惑だろうと適当に席を立ち帰ってきた。

 

大暑、と言っていたけれど、今日は寒いくらいだった。

夕飯をすませて早めに風呂に入ったが、多めの湯を張って体を沈めた。長湯して体を温めよう、とほんとうに思ったのだ。ここでは、そんな大暑の日であった。

呆けと向き合う

自分の記憶力や体力の衰えに向き合うのは、つらいことだ。

つれあいのそれに向き合うのは、つらくもあるが悲しみが大きい。

 

今年は畑仕事にだいぶ力を入れた。意図したわけでもなく、偶然の重なりでそうなったのだ。歩いて10分ほどの鉄道の駅には野菜売り場がある。毎朝獲れたての野菜が持ち寄られて、旬の野菜が山をなす。新鮮でしかも安い。散歩がてら立ち寄っては何かを買ってくる。

 

あるとき、モチキビを買った。小さい袋入りで400円か500円だった。炊くために計ってみたらちょうど4合だったから、この野菜売り場では高い商品ということになる。近頃の雑穀の人気、でありながらそれほど売れるものでもなく、商品にするまでにかかる手間を考えれば合理的な値段ではあるが。

 

モチキビを米に混ぜて炊く人は多いようだが、私はこれだけを炊いてみた。とてもおいしかった。米がそれほど好きではなく、なくても不便ではないぐらいの常食者である私は、キビの方が私の好みにはあっているかもしれない、と思った。米を作るのはムリだが、キビなら作れるのではないか、とも思った。

 

それで、キビとアワの種を買った。蒔くには新たに土を耕さなければならず手を捏ねていたところ、ちょうどその時期に娘が現れた。物珍しさも手伝ったのだろう、キビとアワ蒔こうとしていた場所を、あっという間に耕してくれた。それで今年は粟畑と黍畑が増えた。とこんなふうにして、昨年よりは作物が増えた。昨年ミニトマトのなりがとてもよかったものだから、今年は大玉のトマトにも挑戦してミニトマトと大玉トマトをそれぞれ2本苗を植えた。

 

素人仕事のわが畑も、ありがたいことに時期が来れば野菜ができる。毎日見回りに行き、キウリ、ナス、インゲン、ケール、トマトなどは少々ではあれ必ず収穫がある。獲りたてはおいしい。これはわが畑から、と必ず注釈をつけて、夕飯の食卓で楽しむ。

 

このところ夏風邪で寝込んだものだから、2日だけつれあいに畑の見回りを頼んだ。キウリやトマトを収穫してきてくれた。大きいのを見落としてはいないか、トマトの周りは狸が入らないようにしている柵を、抜いたり倒したりしていないか。いろいろ心配は尽きないが、まあ自分では行かれないのだから仕方がない。

 

ところが、である。私が何とか畑に行かれるようになったら、わがつれあいは、でかけるたびに駅の野菜売り場で何かを買ってくるようになった。私が作っていないものならいい。作っているトマトやキウリなどを買ってくるのだ。なぜなのだろう。おいしそうな野菜を目にすると、瞬間的に私の畑のことなど忘れて手が出てしまうのだろうか。彼の食欲はわかる。買い物の楽しみもわかる。それと私の畑の関連が切れてしまっているのだろう。文句は言いたくない。ひたすら悲しい。

夏風邪

夏風邪をひいてしまった。

咳がひどくなったのが1週間前。かかりつけの医者に行った。かかりつけと言っても私は割合健康らしく、1年に1回ぐらいしか病院に行くことなどない。だが今回は1か月ぶりだった。1か月前には髪を染めたところ、眠れないほど頭がかゆくなり医者に行った。ここは皮膚科と内科が専門なのだ。

 

かかりつけ医、須山先生のいいところは、説明が丁寧なこと。やたらに薬を出さないし、薬はたいてい医院にあるものだから、改めて処方箋持参で薬局へ行く必要がないこと。そして何よりも、すいていて静かなことだ。

 

行った日には熱はなかった。それで薬は咳止めのみとなった。ただし、もし熱が出たら咳止めの薬が残っていてもすぐにまた来るように、と言われた。そしてその2日後、前日夕方に体温が7度2分になり、夜中に眠れないほどせき込んだことから、もう一度行ったのだ。

 

こんどは夏風邪だろうということになり、抗生物質3日分と、のどの炎症を抑える薬4日分をもらった。抗生物質を飲みだしたその夜から熱が上がり、最高は38度までになった。私はあまり熱が出ないたちなので、38度にもなるととてもつらい。仕方ないので枕元に体温計と飲み水とティッシュペーパーを置いて、ひたすら眠り続けた。

 

そして今日がちょうど1週間。3日前には4日ぶりに風呂に入り、2日前には5日ぶりに畑に行ってトマトとキウリを収穫した。夕方4時に行ったのだがまだ日差しは暑く、危うく倒れそうであった。、陽光はぎらぎらとして、ああ身の回りにはこれほどメリハリも緊張感も満ちているのだな、と思わされた。

 

1週間も寝込むと、さまざまなことを考える。やはり死に支度も少しずつしなければ、とか、気管支を丈夫にする対策を打たねば、などと。そして心のどこかで、のど元過ぎれば暑さを忘れるというが、こんな反省も今のうちだけだろうと思っていたりする。

 

そうだ。睡眠時間が狂って時ならぬときに目覚めたりするので、本も枕元に持ち込んで読み続けた。1冊面白い本があった。パトリック・モディアノ著「ある青春」だ。20歳の男女の、先が見えない試行錯誤の日々が描かれている。彼らの35歳の生活が描かれ、そこからさかのぼって若い日々がつづられているため、こんなにわけの分からぬことをしている二人が、なぜ普通に子供を育てる生活が送れるようになったか知りたくて、どんどん読み進んだ。モディアノって、こんなに面白い作家だったのか、と思った。確かうちに彼の「暗いブティック通り」があったはずだ。出版当時目を通してみたが惹きつけられなくてすぐ投げ出したような気がする。まだあるだろうか。探して読んでみよう。

 

思えば私自身の青春も、ヘンなものだった。なぜあんなバカなことをしたのか分からないことがたくさんある。他の人はどうなのだろう。

 

そんな連想からか、本棚の隅からドリス・レッシング著「グランド・マザーズ」を引っ張り出して、同題の短編を、こちらは一気に読んだ。子供時代からずっと友だちで、いまともにかわいい孫娘を持つようになっている二人の女性。一見幸せに順調に生きてきたかに見える二人は、互いの息子と恋人関係であった。普通の日常の裂け目にするりと入ってしまったかのような、人生の迷い道。じつは私は、いまもずっと迷い道を歩いているような感覚に終始つきまとわれているのだが。他の人はどうなのだろう。

 

祇園祭 終わる

祇園祭が終わった。

小さい神社から神輿が担ぎ出されて、町内を練り歩く。神社の急な石段を駆け下ったり、数か所で神輿を勢いよくまわしたり、と勇壮な見せ場もいくつかある。ささやかな祭りではあるが、夏の風物詩として味わい深い。

 

ところが今年は祭りの気配をなんとなく感じながらも、一歩も外出はしなかった。

子供の時は、家の前が神輿の通り道であるばかりか、大きい見せ場の一つのぐるぐるとまわす場所だったせいで、この祭りと無縁ではいられなかった。この土地のものではない母も、神輿の担ぎ手や祭りを取り仕切る人々が途中で休む時の接待に追われて、他の女衆に後れを取るまいと必死の形相だった。

 

祭りだというのに、思い出す光景はなにやらもの哀しさに彩られている。今思えば母は、忙しい中でどうやって時間をつくったのか、祭りの朝に縫い上げた浴衣を着せてくれた。誇らしい思いで門の前に立っていると、通りかかった老婆がつかつかと近寄って私の浴衣の襟元や袖口を撫でまわし、「まあまあ、上等なおべべで」と言った。

 

その時はわからなかったが、あれは母の着物の裏地を仕立て直した絽の小紋ではなかったか。あのころは、子供の浴衣地など簡単には手に入らなかったのか。それとも、母には他の理由があって、あれを仕立ててくれたのだろうか。なるほど他の子供たちとはだいぶ違う装いではあったが、私はいまでもあれを欲しいと思っている。あれが母の着物の裏地だとすれば、それは私たちの台湾からの逃避行の荷物の中に、母がやっとの思いでしのばせた数枚の着物の一枚だったはずだ。あれは敗戦数か月前の命がけの船旅だったことが、いまとなれば分かる。

 

子供のころにくらべれば、祭りの賑わいはすっかり下火になった。昔は夜明け近くまで提灯に灯をともしたまま表戸をあけ放っていなければならなかったが、いまは時間が決められていて十時かそこらで神輿は神社に収められる。昔と違ってすっかりひと気のなくなった通りを、疲れ切って酔ったような足取りになっている神輿が神社へと坂道を下る。そのときの掛け声は、終日続いていた「ワイヨイワイヨイ」というのとは違って「ヨイトーヨイトー」というものだ。

 

昔に比べれば、通り沿いの各戸がともしている提灯もぐんと数は減り、うすぼんやりとした街灯に浮かぶ疲れ切った神輿の最後は、小さい町の祭りらしい風情を濃密に醸し出す。

 

だがそれさえも今年は見に行かなかった。

「子供の時は、自分が年々大きくなるから祭りも毎年楽しみだったけれど、いまは昨年も今年も同じという気がする」というのが私の今年の祭りに行かなかった言い訳だ。