屋根掃除 と 島崎藤村の言葉

 

 

春めいてきて、気になることが出てきた。

昨秋、樋がつまって雨水があふれ出したことがあり、屋根屋に来てもらった。湾曲している部分にたまっていた枯れ葉を取り除くと問題は一応解決した。だがそのときに

「一度屋根の掃除をした方がいいですよ」と言われたのだ。屋根に枯れ葉がたまっているらしい。

時期はいつ頃がいいか訊くと、

「春先がいいでしょう」とのことだった。

 

 

我が家の庭は周囲の自然林の延長だから、広葉樹の大木が何本もある。樋に落ち葉がつまることは予想できたから、家を建てるときに樋に金網をかぶせてもらった。だからつまるほどの事態になったのは昨秋の一回きりだ。だが屋根ばかりは、もし問題が起きたら自力ではどうにもならない。それで春の兆しを感じながら「屋根掃除、屋根掃除」と心は焦っていた。

 

 

とりあえず昨年つまりを直してくれた屋根屋と、ネットで探した別荘管理会社とに、見積もりを頼むと、両方とも4,5万円ぐらいとのことだった。そんなにかかるだろうかという気がした。せいぜい2時間ほどの作業ではないかと、素人ながら思ったからだ。試みにネットで便利屋をチェックしてみると、見積もりおよび諸経費が3千円、プラス1時間あたり6千円というところのようだ。屋根掃除も営業項目に入ってはいるが、高所作業の素人にやってもらうのは、私は心配でたまらない。

 

 

じつは私は、もう50年近く前に、渋谷で高所作業事故を目撃してしまったことがある。ハチ公広場のすぐそばの西武百貨店で、外壁清掃をしていたゴンドラがブレーキの不調で地面に落下してしまった。ちょうど真下の歩道をどこかへ見学に行こうとしていた小学生の列が通っていて、小学生数人と作業員2人が死亡し、負傷者も出た。その日は地下鉄がストライキで、渋谷から先へ行かれなくなっていた私は、タクシーかバスを探してうろうろしていて、事故直後の負傷者搬出のようすを目撃してしまった。しかもそのとき私が編集に携わっていた雑誌がずばり「ビルメンテナンス」だった。私は新人編集者ながらとっさに取材らしきことをしてオフィスに駆けつけた。そしてその後、労働省が事故をふまえて「高所作業安全規則」を制定施行する過程を報道し続けた。だから高所作業については、いまだに人並み以上の知識もあるし警戒心や恐怖心を抱き続けている。

 

 

そんなある日、私の畑から見えるケヤキの大木を2本、伐採しているのを見かけた。なにしろ見上げるほどの大ケヤキとあって、臆病者の私などは足がすくんで見ていられないほど高い箇所まで登り、つぎつぎに枝を落としている。こわごわ見ていると、面倒をいとわず、きちんとヘルメットはもちろん命綱も使って作業を進めている。高所作業には精通している人と思われた。

 

 

そこで作業を終える時間を見計らい、屋根清掃を頼めないかと尋ねてみると、こころよく引き受けてくれた。家はすぐ近いので、あの屋根だと近くまで案内してみせると、その場で値段も提示してくれ、しかもだいぶ安い。

 

 

ところが実際に作業にとりかかると、北側に思ったよりも大量の落ち葉がたまっていたらしい。だいぶ手間取っているらしく、こわごわ屋内からようすをうかがっている私の目の前の窓の外を、落ち葉の固まりがどさどさと落ちてくる。

 

 

終わったらしいのを見届けて庭に出てみると、その職人さんは、悪びれもせずに率直に、

「先日言った値段を、上げてくれないか」と言った。

いくらにすればよいか、と訊くと、約2倍の値段を言った。

だが事前に調べてみた料金からすると、かかった手間から言って決して高いとは思えない。それで言われたとおりに支払った。

 

 

彼が荷物を車に積み込んで帰って行くのを見ながら、こんなことを思った。

決して若くはない彼が、あんなに商売下手で大丈夫だろうか。事前に見積もりを取ったべつの屋根屋はきっと、あとで値上げするよりは初めから高めに言った方がよいと思って、あんな値段を出したのだろう。そこへ行けば、実質でしかものを言わない彼のような人は商売人としては手際が悪い。もしも値上げを受け入れてもらえなかったら、ばかばかしく安い仕事をしてしまったことになるではないか。

 

 

だがこれは、もしかするとこの土地の人たちの気質かも知れない。

明治時代の中頃にこの町で8年間暮らして、そのようすを書き残した島崎藤村が、ここの商人のことを、こんなふうに書いている。

この町の商家では、客が入って行ってもろくに愛想も言わず、いやならお買いなさんなというような振る舞いをする。そのくせ欲しい品物について相談をもちかけると、思いがけないほど品のよい安価な物を出してきてくれたりする。

 

 

要するに、あまり商売っけがないのだ。それはここに暮らして、気が休まることのひとつだ。愛想を言わない代わりに、すべて実質通りだ。つまり、だまされたのではないか、損したのではないか、と思わされることがほとんど無い。額面通りに受け取ればよい。東京などでは絶対味わえない気楽さだ。

そのださん 2  女ともだちー3


そのださんにメールを書いた

 

 

その後、お元気でいらっしゃいますか?

春の気配のなか、なぜかきゅうに

そのださんのことを思い出しています

電話してみたのですが通じませんでした

このメールが届くことを祈りつつ

 

 

実はもっとあわてていた

聞いてもらいたいことがあった

人間関係のつまづき、いまさらまたと思ったが、やはりそのださんしかいなかった

恥を忍んで話そうと電話してみたら

この電話は使われておりません、とのメッセージが聞こえた

 


そのださんは私より10歳うえだから82歳

死んでもおかしくない、寝込んでいてもおかしくない

そう思ったら、死ぬ前に一度会いたくなった

思い詰めつつメールを送ったら、こともなげな返信があった

 


  メールありがとうございます

  私もあなたのことを思い出しています

  昨年10月6日に転居した、そのときからずっと

  転居したのは面影橋の近く

 

 

そうだったのか、私もずっと前に面影橋近くに住んでいた

引っ越してすぐに、そのださんがやってきた

大げさな鉢植えの引越祝いをくれたような気がする

そうだ、クリスマス前のことで、ポインセチアの鉢だった

そのださんのメールは続く

 

  ひとり暮らしを楽しみたくて娘たちとははなれたのですが

  UR都市機構(旧公団)賃貸の家賃はとても高額

  公営住宅の申し込みを続けていたけど落選ばかり

  このままでは死後の遺品整理のお金もなくなってしまう
 


わあ、よかった生きていた、仕事もしているなんてすごい

と思ったら、すっと会いたい気持ちはしぼんでいった

 


  私は82歳だけど元気です

  でも弟3人妹5人のきょうだいのうち単身者が

  入院とか老人保健施設入所とかで

  総領の私が身軽なので、おせっかいを焼いているので忙しい

 


そうだった、そのださんは長女で、親を助けてたくさんの弟妹の世話を焼いた

だからあんなにしっかりしちゃったんだ

いつも肩をいからせ、ギリギリいっぱい頑張っている

 


  一段落したらお手紙差し上げます

  春になってお会いできるのを楽しみにしています

 


もう会いたい気持ちは消えている

面影橋あたりの神田川は、川の両縁の桜がとても見事だ

今年は、一人で見に行ってみようか

 


もう20年になる

その年の4月1日、青空の下で神田川の桜は満開だった

そしてその日、私は父の訃報を受け取ったのだ 

 

まりこちゃん   女ともだちー2

 

近道して懐古園の三の門をぬけたら
まりこちゃんに会った
こんにちは、の合図に腰のあたりで手をひらひらさせ
そのまま通り過ぎた


まりこちゃんは観光ガイドの制服姿
オレンジの野球帽に緑のベスト
三の門を指さしながら、どこかのおじさんに説明している


通り過ぎたらまもなく、後ろからまりこちゃんの声がした
しづえちゃん、どこへ行くの
おじさんへの説明は終わったらしい


美容院へ行くのよ、まりこちゃんはどこの美容院?
あたしはいちばん安い二千円の店、カットだけだから
あらいいわね、それどこにあるの?


と、まりこちゃんはきゅうに話題を変えた
しづえちゃん、お母さんにそっくりになってきたね


その言葉で、ガイドの制服のまりこちゃんが消えて
短いワンピース姿のまりこちゃんがあらわれた
ひとけのない北国街道沿いの金物屋
まりこちゃんは、店番しながら遊んでいる


しづえちゃんのお母さん
いつも、こんにちは、って丁寧にお辞儀して下さって


ちがうのよ、まりこちゃん、母はこの町がきらいだったの、と私は心の中でつぶやく
遠くから来て、この町のことが分からなかった母は
仕方ないのでいつもにこにこ、こんにちは、こんにちは
そうしていれば大丈夫、と自分に言い聞かせていた


私もほんとはこの町がきらい、なのに帰ってきてしまった


まりこちゃんは、この町が好きなの?
と聞きたいけど聞かない
好きだから観光ガイドをしているの?
それとも、寂しくて人に会いたいだけ?


しいんとした夏の日の午後
オレンジの野球帽のまりこちゃんと
白い日傘のしづえちゃんは
じゃあねと手を振り
それぞれ街へ、公園へと足をむける

 

そのださん      女ともだちー1

 

 

 

80歳になりました

と、そのださんからメールが来た

70代の最後の年だった去年、引っ越しました

人生の最後はひとりで暮らしたい

 

 

そのださんらしいなあ

昔からずっと、いつも肩をいからせていた

 

 

歳をとるにしたがって、ありがとう、と言われなくなる

ありがとうと言われると元気が出るから

ひと月に一回、お年寄り向けの食事会を開いています

 

 

そのださんはきりりと三角巾をかぶり

額に汗をにじませて、手際よく料理をしているのだろう

助っ人はいるのかしら

 

 

それに一週間に一回

成城学園前のあるお宅にうかがって

夕飯のごちそうづくりを引き受けています

 

 

私よりちょうど10歳うえのそのださん

進駐軍の軍人の家で、メイドをしたことがあると言っていた

でもあの料理の腕は、その程度のものじゃない

しょっちゅう飲んだくれていた元亭主にも

文句言いつつせっせとごちそうをつくったのだろうな

そのださんのことだから

 

 

ひとり暮らしを目指して十年以上も公営住宅の申し込みを続けたけど

どうしても当たらないので

娘たちの住むマンションの一階上に引っ越しました

 

 

よかった、たったひとりじゃないのね、そのださん

いまどきらしく、ふたりの娘さんはどうやら、いまも結婚していない

それはうちも同じ

それを嘆きもしないのも、私と同じ

 

ここは家賃が高いから

貯金が尽きるのが先か、私の命が尽きるのが先か

人生最後までスリリングです

遊びにいらっしゃいませんか

 

 

行かないよ、私は

もう25年も前

街角でばったりそのださんに会った

仕事で一年間家を空ける、と私が話したら

そのださんは、私の夫の名前を親しげに口にして

○○さん盗っちゃおうかな、と言ったよね

 

 

私は2日後には旅立つことになってて

駅前商店街でこまごました買い物に追われていた

あのときのそのださんの顔、本気だったよ

それで、どうなったの? 

それも知らずに私は夫とは結局別れてしまった

でもそのださん、ああいうこと言うもんじゃないよ 

やっぱり私、いまでもうらんでいる

 

 

行政の魑魅魍魎  日本語教室で

 以前に「ディアスポラ、その後 日本語教室で」という記事を書いた。偶然読み返して、ああ日本語教室は私にとっても楽しいところだったなあ、と思い返した。私自身が台湾で生まれて引き揚げ者として日本へ来たし、母も台湾生まれで神戸・横浜育ちというよそ者だったせいもあり、外来者という意味では日本語教室に日本語を学びにくる人たちと、話が合う面もあった。

 

 だが、さんざん考えた末、日本語教室で日本語を教える活動はやめることにした。理由は、団体の運営の不透明さに我慢がならないからだ。

 

 日本語教室の活動に加わって1年目ぐらいに、なんだかヘンだと思い始めた。代表者はこの活動をもう10年も続けているそうで、その点では頭が下がる。だが運営面は問題だらけだった。活動に参加している人の名簿、学習者から徴収している教材費で買った教材なども、代表者が一手に管理していて、私たちボランティアスタッフは教材を使うとか、学習者と連絡を取ることすら自由がきかない。

 

 一体これは何なのだ、と思っていたら、思わぬ事実を知った。代表者は市から事業委託費その他の名目でお金を受け取っていた。もちろん代表者個人としてではなく、日本語教室という団体として、だ。ところが代表者は、そのお金の中身や使い道などに関しては、日本語教室に参加しているボランティアスタッフには一切知らせず、実質個人で決めて使っている一方で、団体名を使った事業報告書なるものを市に提出している。実質個人でやっているのに団体名を使うのは詐称ではないか、と代表者に進言したが「へえ、詐称ねえ」と受け流された。

 

 ほかにもある。市の他の施設の一角に、リソースコーナーなるものがあって、そこには外国人が日本語を学ぶための教材が集められている。それも毎年市から与えられる予算を、実質日本語教室代表者が受け取り教材を購入しているという。リソースコーナーには名ばかりの運営委員会があるというが、機能していないらしい。

 

 そうやってリソースコーナーに集められた教材はと言えば、私たち日本語教室のボランティアスタッフには、使う権利は与えられていない。その部屋まで行って見ることはできるが、教室で使おうとすると代表者に頼んで持ち出してもらうしかない。

 

 こうした不都合や理不尽は、多かれ少なかれどんな活動にもあるだろう。しかし理解できないのは市の担当者の態度だ。日本語教室の委託事業が実質的には個人で行われているという事実、リソースコーナーが購入した教材がやはり個人で運用されて、最も必要としている日本語教室のボランティアスタッフが自由には使えない事実。これらを市の担当者にいくら訴えても、無視されて、何も改善されないままいままで通りに事が進む。

 

 地方行政って、こんなものだろうか? 隣の市などを見ると、もっとうまくやっているように見えるのだが。

『童年往時』 日のあたる縁側で 人知れず死んだ祖母

このところ、ホウシャオシエン監督の作品「童年往時」(1985年)を、しきりに思い出している。

 

この作品は、監督の生い立ちをたどったものだ。1945年の戦争終結後、父は教育関係の役人として広東省から台湾にやってくる。台湾に来て1年ほどたったころ、父は妻子を呼び寄せた。このときホウシャオシエンは1歳ぐらいだ。

 

高雄の近くの鳳山という町で、家族は日本家屋を官舎としてあてがわれて暮らしている。父母、祖母、そして姉、兄、阿孝(アハ)と呼ばれるホウ監督、2人の弟という家族だ。

 

アハが小学生のとき、父が死ぬ。父はどうやら台湾で数年暮らして故郷に帰るつもりだったのだが、帰れるはずもない政治情勢であった。中学生のとき、母が死ぬ。母が病床にいるときさえアハは仲間とケンカに明け暮れ、母を嘆かせていたが、葬儀の席で賛美歌が流れるなかアハは号泣をおさえられない。

 

姉は結婚して家を出たので、家には祖母と4人の孫息子が残された。ある日気づくと、祖母は日のあたる縁側の畳の上でいつもの昼寝のような姿で横たわっていたが、その腕を蟻が列をなして這っていた。不審に思って見ると、祖母は死んでいた。

 

孫息子たちは、食事を作れば祖母を起こして食べさせたりもした。だが長兄は働きだしたばかり、2番目のアハは高校生、その下はまだ腕白盛りで、皆自分のことに忙しかったのだろう。葬儀屋を呼んで祖母の体を拭き着物を着替えさせてもらうと、下の始末ができなくなっていた祖母の体は、畳に触れたところがただれていた。孫息子たちは呆然と立ちつくすばかりだ。

 

住み慣れた家で、しだいに食欲も体力もなくして、孫たちの生活の物音を夢うつつのように聞きながら死んでいったであろう祖母。いまあのシーンを思い起こせば、むしろ幸せな死という感じが強い。

 

このエピソードを思い起こしたのは、最近世間を騒がせている事件のせいだ。川崎市の老人ホームで、当時21歳の男性介護職員が、80代90代の男女3人を4階や6階のベランダから投げ落として死なせてしまった。

 

介護職員に対する非難の声は当然起きる。しかし声にならない声を飲み込んでしまっている年配者は多いのではないか。それにあえて耳を澄ませばそれは、自分の力で日々の生活がまかなえなくなったとき、あるいは下の世話まで他人に頼るようになったとき、果たして自分はどのような心持ちで生きるのであろうか、ということだ。

 

だからこそ映画のなかのアハの祖母が、ごく自然に、孫息子たちをほとんど煩わせもせずに死んでいったのが、崇高にさえ思えるのだ。

 

冬冬(トントン)の夏休み

台湾の侯孝賢(ホウシャオシエン)監督が、30年前につくった映画、『冬冬(トントン)の夏休み』を見る機会があった。なんでも日本であらたに上映されることになったそうで、1990年に公開されたときに私が入れた字幕を使いたいとの申し出にがあった。それで字幕をチェックするために見たのだ。

 

映画を見方は立場によって変わってくる。一観客として見るのがいちばん自由とも言える。しかし他方で、制作や上映に関わる仕事として見る方が、緊張感もあり細部や深いところにまで目が届くとも言える。だが今回はなぜだろう、この両方の立場に同時にたったかのような濃密な感情にとらわれ、我を忘れるような時間を過ごした。

 

この映画は、小学校を卒業したばかりの兄と幼い妹が、田舎の祖父母の家でひと夏を過ごすという内容だ。野面いっぱいに降り注ぐ夏の光。祠をとりかこむ天空に枝を広げる大木。川があり田畑があり線路もある田舎人の生活の場で、時を忘れて遊びほうける子供たち。

 

ホウシャオシエン監督は、不在を描くのがうまい。日々遊んで過ごす兄妹の心の底には、台北で入院中の母への思いがある。夕餉の食卓に座ることを拒否した12歳の少年トントン。彼の不在は、厳格な祖父への反発と畏敬、だらしのない若い叔父への同情めいた複雑な思いを、短いシーンで雄弁に語る。

 

子供というものは、人間の深い悲しみも、大人の理不尽な怒りも、黙って自分の中に取り込む。それは時間をかけて消化してされるものもあれば、そのままこころにわだかまるものもある。子供たちの無言があらわすこうした深い感情も、ホウシャオシエンはていねいに追う。

 

作品の舞台は苗栗だが、スクリーンに広がる風景は私のなかに、頬をなぶる熱い風の記憶を呼び覚ました。生まれ故郷・台南の風だ。その記憶に浸りつつ画面を追ううちに、子供時代に感じた数々の理不尽をも思い起こしたが、知らぬ間にそれらにさえ懐かしさを抱くようになった気がする。