ビーツを播く

花粉症の季節が終わるのを、いまかいまかと待っていた。

この冬は、室内で足踏みふうのジョギングを毎日欠かさずにやった。だから早く戸外で腕だめしならぬ脚だめしをしてみたかった。もうひとつは、畑仕事だ。

裏の窓から見ていると、もう畑仕事が始まっている。私が「畑マン」と密かに呼んでいるご近所の定年退職者がせっせと畑にかよってきて土を耕しはじめている。私もへたくそながら畑仕事4年目を迎えたので、さまざまなプランが胸中にあるのだ。

 

天気予報ではまだ花粉の量が「大変多い」と言っていたが、そろそろ我慢できなくなった。17日の日曜日に、すぐ近くの懐古園で例年よりだいぶ早い桜の満開を楽しんだあと活動開始を決めた。月曜日朝、花見客はもういないだろうと見込んで懐古園馬場でジョギングをする。この春初めてだが、休まずに7周完走。

気をよくしてその日から畑仕事も始めた。

 

私はじつは心の奥底で、雑草と共生させる野菜作りを目指している。多くの人がやっているように、雑草を一本残らず抜いてしまうというのにあまり意義を見いだせない。第一可憐な花をつけている草を無惨に引き抜くことなど、私にはできない。そんなことにエネルギーを使う必要があるのだろうかといつも思う。ただ、畑仕事は全くの素人だとは自認しているので、雑草と共生云々などと偉そうに口にはできない。それは畑仕事を始めてから、痛感していることだ。どんなに簡単に見えることでも、経験がないということは、赤子のようにおぼつかないやり方しかできないものだ。

 

だからもう少し雑草を取り除いてきれいにしたらどうか、との陰口にも黙って耐えてきた。そして今年は4年目だ。偶然も幸いして、私の畑はしだいに雑草との共生が実現しつつある。昨秋に植えたタマネギは、私の計算違いのせいで50本の苗を2カ所に分けて植える羽目になった。春になって見てみると、片方はタマネギのまわりにカキドウシ、イヌフグリハコベ、パクチが生い茂っているが、片方は地肌が露出していて、雑草はほとんどない。見比べると、雑草に取り囲まれているタマネギの方が断然元気がいいのだ。

 

しめしめこの手でいこう、と思いつつ、ビーツの種を蒔く準備をする。これは心のはずむ作業なのだ。私が畑をやる理由は、ビーツやパクチといった私が大好きな、しかも店では手に入りにくいものを作りたいからだ。ビーツは昨年もまあまあのできだった。収穫できるようになってからは、毎日シチューやスープなど手を変え品を変えてビーツ料理をつくって楽しんだ。

あの経験からして、たぶん今年もあの程度の収穫があるだろうと思う。

 

今日は午後から雨になるそうなので、種蒔きには絶好だ。

ビーツは2日前に播いたから、今日はフェネル、ケール、かき菜、カブ、ホオズキを蒔いた。実を言うと、種を収穫したときに袋にメモを書き忘れて、何の種か分からないものも2種類あり、それも播いた。何が出てくるかは、お楽しみといったところだ。

 

いい気分になって作業を終えた畑を見まわしていると、隣の畑の有賀さんがニコニコと近寄ってきた。

「またライ麦播いたね」と言う。足元には昨秋播いたライ麦が20センチほどに育っ手くにゃくにゃと曲がった列をなしている。

「あのね、麦はこうして、ぱらぱらと播くんだよ。こういうふうに、どさっと播いちゃダメ」と有賀さんは腰をかがめて手真似で説明してくれた。そこには列の途中のコブのように、密生した麦のひとかたまりがある。

 

「知っています。ぱらぱらと播いたつもりなんです。一生懸命やっても、どうしてもこういうかたまりができるのです。そのうちうまくなりますから、もう4,5年待って下さい」と私は、できるだけ丁寧な口調で真面目に答える。

 

有賀さんは、

「そうなの」と不思議そうな顔をした。

有賀さんだって、初めからぱらぱらと均一な密度で播けたわけではないだろう。それとも、均一に播けない時期があったなどということは忘れてしまうほど、幼いときにその技術を身につけてしまったのだろうか。

まあいい。この歳であっても、初めてやることというのはあるのだから。