狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ

 また分厚い本に手を出した。『狂うひと』(梯久美子著 666頁)。途中でやめときゃよかったとは思わなかったが、しかし、、、。

 著者ははじめは島尾ミホの半生を本にまとめようとしたが、途中で取材を断られてしまったという。しかしミホの死後に、残された膨大なノートや手紙、メモ、草稿などをすべて閲覧する機会に恵まれた。それらを駆使していわば「死の棘」創作の裏側を暴いたとでもいうのが、本書の内容だ。資料の読み込みは緻密を極め「死の棘」で夫婦が繰り広げる狂態が、実は阿吽の呼吸の協作だったかもしれないなどの、ひりひりする実態まで浮かび上がる。それはいかにもスリリングだ。

 島尾敏雄は知られているように特攻隊長の生き残りで、その体験や、自分が見た夢などの非現実的な話を書く地味な作家だった。それがある日、日記に記した情事の記述を読んだ妻が狂躁状態におちいってしまい、その妻をなだめつつ右往左往する「病妻もの」を書くようになる。これは短編の形で7年にわたって書き継がれ、短編集「死の棘」に結実した。

 この陰陰滅滅たる夫婦のいさかいの記録。そこには2人の子供もいたから、今でいう育児放棄の悲惨な描写。その暗い話が大衆的な知名度を得たのは、それにふさわしい包装がされたからだ。この夫婦が、たかが夫の浮気ぐらいでこれほど凄絶な争いをするのは、彼らの愛情がとくべつ崇高であるあかしだ、というような。また二人が出会ったのが戦時下の加計呂麻島であったことから、ミホは南島の神話的世界で育った純粋無垢な霊能力のある少女、敏雄は死を運命づけられた極限状態でミホに愛をささげた、というふうな。そんな書き方をしたのは男の評論家たち奥野健男中村光夫吉本隆明などだ。「死の棘」は芸術選奨を受賞し、のちに映画化されて世間に広まっていく。

 けれども本書「狂うひと」のずっと前から、女性の作家や評論家は「死の棘」の、そしてそれへの讃辞の欺瞞を見抜いていた。たとえば上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子著「男流文学論」などは、ミホと敏雄の恋愛はなにもとくべつなものではない、と指摘している。むしろミホが戦時中の隊長様へのあこがれを捨てられず、ロマンチックラブ幻想の呪縛から解かれていないことこそが問題なのだと。つまり「狂うひと」が描出したポイントは、大筋としてはすでに前の3人を含む女性の書き手たちが述べていたことでもある。

 ミホは加計呂麻島で裕福な叔父夫婦の養女となり、跡取りとしてわがままいっぱいに育ったという。結婚後はたぶん、幼時から培われた自尊心と、夫に求められ自分も内心あこがれてもいた従順な妻とのあいだで引き裂かれる日々を送ったのだろう。それが爆発した「死の棘」の時期を経て、葛藤の末彼女は作家となり「海辺の生と死」などの佳品を残した。それでいながら彼女は島尾敏雄の死後、また従順な妻、愛に殉ずる妻へともどってしまったのだろうか。チャンスをとらえては自分たちが崇高な愛を貫いたことを強調し、それを演出するかのように終生喪服で通したという。なんとも、痛ましいと言おうか、滑稽と言おうか。


 

『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう

 

 読み終えた分厚い本がある。『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』(宮田毬栄著 2015年 480頁2段組み)だ。数日間、食事と睡眠以外の時間をほとんど費やして読みふけった。なにがそんなに面白かったのだろう。

 高校時代に詩を読みあさったことがあるが、大木惇夫はそのころ好ましく思った詩人たちの一人だった。それほど印象は強くないが、彼の名前を目にして若かりしころの気分が心の底に蘇りかけたのが、この本を手に取った一番の動機だ。

 著者は、詩人の娘であるうえに中央公論社の文芸担当編集者であったから、父親の人生をたどりながら作品も漏れなく渉猟したのであろう。たくさんの詩が引用されていて、いままた詩の世界に浸ってみたいという私の望みは満たされた。そのうえ父の作品を読み込んだ娘の簡潔で的確な感想が添えてあり、それはなるほどと思わせるものが多く、自分の思いと対照してみるのはおもしろかった。詩人の父を持った娘は、こんなふうに長い時間その作品を掌に載せて、矯めつ眇めつ眺められるのだなと羨ましく思った。

 父の人生をたどるということは、家族と父との関わりをも語ることになるから、著者自身の来し方にも多くの紙幅が割かれている。著者は敗戦時に8歳だというから、戦争や疎開の記憶をはっきりと残していて、戦後の貧しさの真っただ中で学び働き始めた。そして父親のせいで生活の重荷もかなり背負わされるのだが、その生き方は困難な中を突き進むような趣があり、それも私が勢い込んでこの本を読み進めた理由の一つになっている。

 父・大木惇夫の作品についても、戦争中の軍讃美になびいた言動についても、歯に衣着せず切り込む著者が、唯一切っ先を丸くしたのが、父と母の関係についてではないか。そういう感想を、読了後のいま、私は胸に抱いている。そして、それこそが家族というものを雄弁に語っているようにも感じている。

 大木惇夫は、思えば不思議な人生をたどっている。16歳で出会った2歳年長の恋人が、親に言われるままに他の男に嫁ぎ、6年後に結核を病んだ身で戻ってくると、その2年後に彼女の離婚成立を待って結婚した。大木惇夫、24歳である。この病妻との結婚生活は、彼女の死で幕を閉じるが、そのとき大木惇夫は37歳だ。

 ところが大木惇夫は死が間近にせまりつつある妻がサナトリウムに入ったころ、10歳年下の著者らの母親となる女性と暮らし始める。このとき大木惇夫は33歳、35歳で長男が、36歳で次男(幼時に死去)が生まれている。37歳で病妻が死去し、39歳で長女が生まれ、40歳で彼らの母親と入籍した。41歳で著者である次女、46歳で三女が生まれている。ちなみに次女が生まれた翌年には日中戦争がはじまり、三女が生まれた年には太平洋戦争がはじまった。

 とはいえ日本が戦争に突入したこのころが、著者にとっては幸せな家庭生活で、目白の庭のある家で楽しい子ども時代を過ごしたという。ところが父親には親しい女性ができて家を空けることが多くなり、三女を妊娠中の母親が出がけの父親を面罵したり、怪しげな女性が鍵穴から家の中をうかがうのを兄がつかまえそうになったり、とのエピソードもはさまれている。この怪しい女性を子どもたちは「カギ」と呼んでいたそうだが、大木惇夫は戦中の疎開時も子どもを抱えて苦労していた妻とではなく「カギ」と過ごし、結局は長い年月を「カギ」と共に過ごしてその元で死んだ。82歳であった。

 あの美しい抒情詩の作者の実人生を生々しい筆致で知らされるというのも、私がさらに興味を募らせて読み進んだ理由であろう。その意味では有名人のスキャンダルに飛びつくミーハー族の心情とも通じるところがあるわけだ。にしても、大木惇夫のいわば女性遍歴や家族との軋轢の軌跡と、そのなかから生み出されていった詩や訳詩の仕事を丹念に重ね合わせて示されると、こんな思いがわく。詩人にとって、家族は、いやもっとはっきり言えば子どもは、本質的に邪魔だったのではないか。

 著者は父方の祖母の死にまつわって、祖母が情の薄い人であったことが、父にあのような人生を歩ませたのではないか、というようなことを書いている。つまり一人の女性と安定した関係を築いて家庭に落ち着くことができなかったのは、あのような母親に育てられたせいではないか、というわけだ。父にまつわるこれだけの資料を集めて読み込みながら、そんなふうにオチをつけるのはもったいない、というのが私の率直な感想だ。著者の「カギ」に対する憎しみは理解できるにしても、「カギ」のことがもう少し客観的に書かれ、大木惇夫がなぜそちらで暮らすことを選んだかを推測できる何かがつかめたら、大木惇夫のとくに晩年の仕事の意味がより鮮明に浮かび上がったのではないか。それは新たな家族観をも示唆したかもしれない。大木敦夫にとっては、詩を生み出せる場こそが大事だったのだろうから。

 人は、残念ながら一通りの人生しか生きることができない。しかしぐちゃぐちゃの惨めな現実生活の中から、美しい抒情詩を生み出していた詩人大木敦夫は、人生はどこまでもこの面倒な現実が続いていくと知りながら、気を惹かれる曲がり角をふと曲がってしまい、そうすると案外そこに執着してしまう人だったようだ。

 

サツマイモ収穫

昨日と一昨日、サツマイモを収穫した。今年で3回目だが、やっとサツマイモの生り方がわかった気がした。一回目は4年前だったか、福島原発事故の影響がいちいち心配だったころだ。根菜は地中の放射性物質を吸収しやすいと聞いていたので、市役所の計測器で測ってもらった。検査のために最低でも1キログラム必要だったような気がする。それを砕いて持ってこいと言われて、加熱して柔らかくしてつぶして持って行った。せっかく収穫したイモを食べられずに検査して捨てるのかともったいない思いをした。福島で検査のためだけに稲を栽培したり魚を獲ったりしなければならない人は、ほんとに虚しい思いをしていることだろう。このときは検査結果は検査可能最低値に達していないということで、残りは食べた。だがこの検査のせいで、意気込んで自分の収穫物にかぶりつく気がそがれて、味は覚えていない。

 

その次に作ったのは2年前だったか。巨大なイモができてしまい、あとは小さいのばかりで、これも味わうというところまではいかなかった。畑仕事の先輩の有坂さんが、ツルはあまり伸ばさずに切ること、とか、ツルの途中から根が出ないようにすること、とかいろいろ教えてくれたのだが、あの時はそれが大事なことだということが理解できなかった。

 

そして今年。今年はサツマイモの苗を8本手に入れた。町中にある種苗店で買ったせいか、植え方を丁寧に教えてくれた。庭の手近なところにとりあえず植えて毎日水をやって根を出してから畑に植えなさいとのことだった。その通りにして、畑も2か所に分けて植えてみた。

 

今年はなぜか、葉があまり勢い良く伸びなかった。それがなぜなのかは分からない。今年は天候も随分不順だったし、苗のもともとの質ということもあるだろうし。それでも秋になって収穫時をいまかいまかと待った。きっかけとなったのは、駅近くの公園でほほえましい光景を見たことだ。私と同年配の女性が二人、久しぶりに会った風なあいさつを交わしながら公園の丸いベンチに並んで腰かけた。二人とも手作り風の大きめの布の袋を下げている。それを膝にのせて何やらプレゼントをしあっている風だ。漬物のおすそ分け、庭の果実や草花などいろいろのようだ。そのうち一人がサツマイモをひとつ、またひとつと取り出してわたしはじめた。互いに袋をのぞき込みながら、ああこれでウチはたくさん、あとはxxさんにあげたら?などと言い合っている。

 

それで一昨日ためしに1本のサツマイモを掘ってみた。7つぐらい獲れた。うれしい。だがサツマイモは確か、掘ってから10日ぐらいたたないと味が良くならないそうだ。それで収穫した分を干しつつ、残りを収穫しようと昨日また畑へ出かけた。1本、また1本、もう少し土の中に置いておくべきかどうか、などと考えつつ、とうとう8本全部掘り返した。しかし、だ。あんなに面積を採っていた割には、小さい段ボール箱にいっぱいにもならないほどの収穫量だ。どうしたことだろう。しかし今回こそはサツマイモの生り方がわかった。ツルはあまり伸ばさずに適当に切れ、ツルの途中から根が出ないように時々ツルを引っ張ってもちあげろ、の意味もやっとよく分かった。

 

よし、来年はもっとうまく作ってみせるぞ。

 

 

 

野菜情報

午前中、原稿を書こうとしているとチャイムが鳴った。机上のアイホンのボタンを押すと「××です」と、名前が切れた応答が聞こえた。だが声の様子から親しい友達だと推測できたので、階段を駆け下りて玄関のドアを開けた。杉田さんだった。

 

大分の親戚から送ってきたので、と見事なカボスを7個もいただく。それと畑でとれたので、とこれも見事なレタスをひとつ。この町で暮らしてうれしいのは、こういうもののやり取りだ。頂き物が多ければすぐにおすそ分けし、畑に差し上げられるものがあれば手土産がわりに持っていく。それにしても、なぜわざわざ下さるのだろうと思うくらい、皆さん気前がいい。

 

すぐ近くの私の畑に案内しながら、野菜の話をする。キャベツを上げようかと言って、ひとつだけぽつりとなっているのを見せた。すると杉田さんは、それはまだ小さい、取らない方がいい、という。フェネルの花を見せて、種を取って来年また蒔くのだというと、葉っぱを味わっていいかと言う。ちぎって渡すと、その場で噛んでみて、私にも種をちょうだい、とのこと。

 

クコが長く枝を伸ばしているのも見せる。その先の方を切って渡す。杉田さんの近くにもクコと思われるものがあるが、実をつけたことがないのだという。持って帰って比べてみて、植えておくと言う。畑を歩きまわりながら、杉田さんが今年はニンニクを植えるつもりだという。私はいままで2回ニンニクを栽培したことがある。その経験談など話す。杉田さんの方が畑の腕はずっといいはずなのに、私の経験談を熱心に聞いてくれた。

 

その杉田さんの話がきっかけになって、数日後にニンニクを植える場所を耕した。ひまわりや紫蘇やビーツを育てたところで、冬の間も比較的日当たりがいい場所だ。一日目は耕して、翌日堆肥を埋めた。堆肥は庭のコンポストに生ごみや刈り取った雑草を入れて作ったものだ。一回目にニンニクを作ったときは、比較的うまくでき、その時は確か堆肥をつかったのだ。

 

庭から畑までは徒歩1分足らずの距離だが、堆肥は重い。バケツにいっぱい入れるて下げると、そちら側に体が弓なりにしなうほど重い。その重い堆肥を3回運んだ。畑仕事はやはり肉体労働だ。汗でぐっしょり濡れたシャツを脱ぎ捨てながら、時折の肉体労働が身体にとって良い作用をしてくれることだろうと考える。生きている限りは丈夫でよく動く体でいたいものだ。

キビを収穫

キビの穂を厚めのビニール袋に入れて、ゴムのハンマーで叩く。

叩きながら、用途も分からないままだったが、このゴムのハンマーを買っておいてよかったと、知らず知らず口元が緩む。あれはこの人口4万足らずの小さい町に引っ越した年のことではなかったか。秋晴れのある日、駅前の目抜き通りで骨董市と地元野菜や果物の市が開かれた。そこに農家や大工など職人たちが使った古道具が並べられていたのだ。手に取ってみると、どれもこれも使いこなされたもので手になじむ。金槌や釘抜きと一緒に、使用目的もないままにこのゴムのハンマーを買ったのだ。

 

ここ2年ほどは、小さい畑で作り始めたライムギやキビやアワの脱穀に、このゴムのハンマーはとても重宝している。これがなかったら、昔風にむしろでも広げて長い竹の棒か何かで、種が飛び散るのに気を使いながら叩きでもしただろうか。

 

こんな単純な作業でも繰り返すうちに要領がよくなる。家には私だけしかいないのをよいことに、ずっと昔によく聞いたオーティス・レディングのレコードをかけた。3,40年ぶりだというのに曲の順番をおぼえている。好きな曲は聞き逃さないよう、作業手順を考える。しかも、叩くのは一番手近な玄関の三和土でやっても不都合はないことにまで気づいた。

 

I've got dreams というスローテンポの曲に浸りつつ、まるで違うテンポでゴムハンマーをふるう。そしたら、ふと母のことを思い出した。母は裕福な家で育てられた。兄と弟にはさまれた女の子で、父親に溺愛されたという。活発で女学校時代は水泳選手として県の代表になり全国大会にまで出場した。一方で勉強好きでもあり、女学校時代からエスペラント語に取り組んで、重要な通訳などもやってのけた。

 

あの母が、贅沢な趣味の反面で妙に貧乏くさいところがあったのは、いったいなぜなのだろう。そして私は、やはり裕福な家で育ったのでとんでもなくおおざっぱで気前のよいところがある反面、母などとは比較にならないほどの貧乏くささを身に着けている。これは若いころに一緒に暮らした夫がひどく貧乏だったせいで身についた癖かもしれない。しかし、この貧乏くささを私は自分でもて余している。

 

いま叩いているこのキビを作ったのはいったい、私のなかの何がさせたことなのだろう。

いまとなれば買っておいてよかった。年間通しても使うのはほんの数回だが、これがなかったらどうしただろう、と思う。こうしてキビやライムギの脱穀に使い、あとは家具や建具のちょっとした不具合をたたいて直すぐらいだが。

 

 

キビを収穫

今年も10月に突入。

けれど9月があまりにも雨が多くて、まるでなかったような気がする。私は毎朝ジョギングか速足のウォーキングをして、大体の距離を記録している。何もしなかった朝は、しなかった理由を「寝坊」とか「雨」とか書いているのだが、なんと11日も雨が続いた日があった。

 

雨天が続くというのは天気予報で聞いていたから、キビは早めに穂だけを刈り取った。種を蒔くときに袋に書かれた説明を読んだら、熟すと自然に脱粒するからとの注意書きがあったからだ。

 

刈った穂は居間の南向きの窓際に空き箱に入れて干していた。雨続きだから干せたかどうか分からぬままもうだいぶ日数がたった。連れ合いがカーテンを閉めるたびに、箱にひっかけて舌打ちしたり、足で箱の位置を直したりしている。彼は記憶力が衰え始めているうえ、しゃがむのが苦痛になっているらしい。だから体をかがめるのを嫌って、足で用を足そうとすることが多い。私には不愉快なことだ。

 

そんな不愉快さをなくすには、キビをちゃんと食べられる状態にして空き缶なりなんなりに保管してしまうのが一番だ。そこで今日は午前中から、その作業に取り掛かった。

 

これは昨年ライムギを収穫したときに私が編み出した方法だ。米の袋が厚いビニールなのに目をつけた。そこに穂を入れて口を緩やかに閉じ、袋の外からゴムのハンマーでたたくのだ。ライムギがうまくいったから、キビはそれよりも簡単にできるだろうと見込んで、やってみた。うまい具合にキビの粒を集めることができた。

 

さて次の段階は、キビに混じっている殻やゴミを取り除くことだ。まず始めは平らな盆にでもキビを薄く広げて、団扇で扇ぐなり息を吹きかけるなりしてみようと思う。次の段階もう少し厳密に細かいゴミまで除去したいから、扇風機を回してその前でパラパラと黍を落とし、ゴミだけを吹き飛ばしてみようか。

 

さてうまくいくかどうか、結果はまた報告します。

神話をつくる人々

台湾では清朝の統治時代に、強奪にも等しい土地取得が横行した。清朝政府が発給した墾照という一片の証明書を盾にして、権力者が好き勝手に土地を私有化した。私有地を膨れ上がらせた権力者たちはそれを守るために私兵を雇い、弱肉強食の争いを繰り広げた。

 

これに勝利した者たちが、豪族となり、由緒ある旧家などと呼ばれるようになっているわけだが。彼らはこういう行為を隠蔽したいという気持ちが無意識のうちに働くのだろう、子々孫々にわたって祖先の遺徳をしのばせるための神話を、親族内で語り伝えている例がよくみられる。

 

ある旧家に伝わる話。昔々、日が暮れてからみすぼらしい旅人が一夜の宿を請うて戸口に立った。どこの家でも断られて困り果て疲れ果てていた。その家の祖先は旅人を招じ入れて温かくもてなし一夜の宿を与えた。翌朝、旅人の部屋を見てみると彼の姿はなく、かわりに葛籠が置き去りにされていた。開けてみると金塊がいっぱいに詰まっている。祖先はそれを天与の贈り物としていただき、土地の権利を次々と買い取って、以来豪族として代々繁栄してきたという。

 

やはりどの国でも、どの家でも、こうした類の話は眉唾なのですねえ。