瞽女 桜 そして癌   

 

 4月の10日を過ぎたころ、上越市高田へ出かけた。ここには瞽女(ごぜ)ミュージアムというのがあり、前から行きたいと思っていた。だが開館するのは土日だけとあって時間が取れずにいたのだ。
 瞽女というのは知られているように、盲目の旅芸人だ。盲人の身で、旅支度の大きな荷物を背負い、三味線も背負って、遠くの辺鄙な村々を旅した。いま私が暮らしている長野県小諸市にも明治時代ぐらいには瞽女がやって来たという記録がある。しかも町の中心部から徒歩で2時間もかかる、街道からも大きく外れている山の中の集落だ。
 こうした旅芸人などになぜ私が惹かれるのかは、私自身にも謎なのだが。


 上越妙高駅で新幹線を降り、えちごトキめきというローカル線に乗り換える。そのプラットホームに立ったとたん、にわかに旅心地が湧いてくる。あたりがひっそりと静まり返っているせいだ。新幹線の列車が轟音を立てて発車してしまえば、あとは三両編成のローカル電車がゴトゴトとホームに入るまで、ほとんど無音だ。そこに立って雪山の写真を撮った。1枚は山頂だけが雪で白くて青い山肌をみせている。もう1枚はもっと高くて全体が眩しいような雪に覆われ、青空を背景に屹立している。この2枚をその場で、いまは北の果てに住む友人に送った。たしかこのあたりの出身だと聞いていたからだ。近頃私は、何も文章をつけずに写真だけを数人の友人によく送る。
 
 
 高田駅で降りて街に脚を踏み入れる。ここには何回か来ているので、目指す瞽女ミュージアムはすぐにみつかった。けれど想像していたのとはだいぶ違い、周囲の建物と変わらぬ小ぶりな町家だった。両端のミュージアムと書いた大きい垂れ幕がなければ、通り過ぎてしまったことだろう。訊いてみたところ元は麻を商っていた家だそうだ。硝子戸の引き戸を開けて入ると、広くもない三和土があって、それは細長い家屋の端をずっと裏口まで貫いている。上がり框付近には瞽女に関する書籍やCDやDVDが並び、受付の小机がある。その背後は建具を取り払ったり明け放したりした展示室が続いている。
 炬燵のある小さい部屋で25分ほどの瞽女の記録映画を見せてもらった。50年ほど前に大島渚監督がテレビ放映のために撮ったものだという。
 昭和30年代、高度経済成長の時期に瞽女とその芸能は衰退していった。だが高田には高齢の瞽女が生存していて、彼女らに昔の旅回りを再現してもらい撮影したのだという。3人の瞽女が、いくらか視力の残る者を先頭にして、片手を前の人の肩に乗せ、鎖のように連なって旅に出る。昔と違い電車も利用する。長旅の先では門付けをして米などをもらい、夜になると瞽女宿と呼ばれる大きな家に村人が集い、瞽女唄を聞き、果ては自分たちも唄い踊る。薄暗い電灯の下、村人の顔は年に一度ほどの歌舞の宵に喜色満面だ。いま私たちの周りは歌や踊りが溢れているが、これほどの喜びの表情を見ることは無くなってしまった。


 展示されている資料は、斉藤真一が描いた多くの瞽女の絵、瞽女の足跡を追って調査した日誌、瞽女の足跡や各地に残る瞽女宿を細かく記した地図など、たくさんのものが丹念に集められ整理されている。どれも興味深くとても一日では見切れない。聞けばこのミュージアムは、瞽女の芸能や文化を保存し伝えていこうと、NPO法人が運営しているとのことだ。なるほど受付の女性も、知識が豊富で、それを来館者に伝えたいという熱意がうかがえる。いろいろな話を伺ったが、また来ることにしてミュージアムを後にした。

 

 雁木の残る街並みを、桜が満開だという高田城址公園方面に向かって歩く。ひとけのあまりない通りをあちこちよそ見をしながら歩いているうちに、私が何となくこの町が好きな理由が分かってきた。雁木が、私の生まれ故郷・台南の亭仔脚にちょっと似ているのだ。雁木は大雪を避けるため、亭仔脚は暑い日差しを避けるため、と用途はだいぶ違うが。それに雁木は木造、亭仔脚は石造りと、雰囲気もだいぶ違うが。
 そう、私は熱帯にある台湾南部の町で生まれたのだ。そんなことを雪深い冬を終えた街並みを歩きながら考える。それを強く感じるのがいまごろ、つまり冬の寒さが去って暖かくなってゆく春先だ。皆が暖かさを喜び冬服を脱ぎ捨てていくのに、私は寒さが怖くてそれができない。現にこの日も、急に暖かくなって道行く人は半分以上が半袖姿だというのに、私はといえばコートを羽織り、首元にはきっちりとマフラーまで巻き付けていた。
 さっきのミュージアムでも、ビデオを見ながらポカポカと暖かい炬燵が嬉しくて脚を突っ込んでいたのは私だけだった。


 高田城址公園は本当に桜が満開だった。公園はとても広く、人が多い。しばらく歩いてみたが、すぐに飽きてしまった。私が暮らしている信州の小都市は、浅間山南麓にへばりついた町だから坂道ばかりだ。家の近くに城址公園があるがここよりずっと小さい。何より違うのはこんなふうに平らではないことだ。傾斜地は不便といえば不便だが、その分景観の変化が微妙で面白い。同じ桜でも根元から見上げたり、もっと下から見上げたり、少し高い場所から花を真横に見たり、あるいはもっと高い場所から見下ろしたり、ということを私たちは日常的にやっている。それに比べればだだっ広い平らな場所に桜があちこち咲いていても、私はほとんど感興をもよおさない。桜の下で弁当を食べる家族を遠くから写真に撮り、また北方の友人に送った。


 朝家を出るときは、もっとゆっくりと遊んで帰るつもりだったが、暑さのせいかだいぶ疲れたのでまっすぐ帰ることにした。夕闇ごろ着いた信州の我が町は、肌寒い風が吹いていた。
 くたびれたからそろそろ寝ようとふとスマホをチェックすると、写真を送った友人から、最近音沙汰がなかった割には素早く返信が届いていた。写真の礼のあと、こんな文面が続いていた。
「実は私、前立腺癌になりました。調べたところ骨や内臓への転移はなし。治療方針は30日ごとの男性ホルモン遮断の注射と毎日1錠の薬。日常生活に支障はなく、ゴルフも自由とのことで2回やりました。お知らせまで。」
 ううむ、と思いつつ私からも素早く次のように返信した。
「ううむ。年取って体力知力が落ち始めると、一気に思わぬ苦難が押し寄せる、というのがどうやら人生の筋書きみたいね。最近やっと分かってきました。私は相変わらず独り旅を楽しんでいます。お元気で。」
 友人へ、精一杯の本音を書いた。だが発信したあとすぐ、冷たいだろうか、と思った。いまの私にはこれでよかったかは分からない。

 

江文也を巡る思い出  1.「ブンちゃんのパート」の謎

*その1
「ブンちゃんのパート」の謎


 昔のことを調べていると、時折奇跡のようなことが起きる。そこからうまく知りたい事にたどり着ける場合もあれば、またすぐ行き止まってしまうこともあるが。数年前にも面白いことがあった。


 江文也(こう・ぶんや)という台湾人の作曲家がいる。日中戦争が始まるころ日本で戦意高揚の歌「肉弾三銃士」の歌手でレコードデビューした。その後作曲家に転じてベルリンオリンピックと併行して開催された芸術競技大会で日本人ではただ一人、かの山田耕筰をも差し置いて4位に入賞。その後日本帝国陸軍への協力を余儀なくされて北京に渡り、敗戦後も北京にとどまったが、日本軍への協力を糾弾され不運のうちに病死した。
 江文也のことは、拙著「李香蘭の恋人ーーキネマと戦争」に上海で映画音楽の作曲をしていた彼のことを書いた。彼の生涯を追ってみたこともある。だがまだ気になることがたくさんあったので、あんな出来事にもぶつかったのだ。それらを書いてみたい。


 だいぶ前のことになるが、私は子どものころ習ったことがあるピアノをまた弾こうと思い始めた。
 ピアノの先生の家に、私たちは姉妹そろってかよったのだが、私だけがあまり興味を持てなかった。それが今頃になってまた弾いてみようと考えたのは、本心を言えば音楽以外の目的があるのだ。脳の衰えを予防するには指先を動かすのがいい、誤嚥を防ぐには喉の筋肉を鍛えるべく歌をうたうのがいい、などの言葉に誘われて、ならばピアノをと思いついたのだ。


 かといって、あまりバカでかい物は部屋に置きたくない。何しろあと何年生きられるだろうかと時折考えてしまう年齢にさしかかっているのだから。ではよく聞く電子ピアノというのはどうだろう。などといろいろ考えてみるが、いかんせん門外漢だから何を選ぶべきか見当もつかない。それで東京に住む妹の意見を聞いてみようと久しぶりに連絡してみた。妹は私と違ってどんどんピアノが上手くなり、音大を出てピアニストになった。だからこそだろうが、
「ピアノと電子ピアノはまったく別物だから、電子ピアノのことは分からない」と素っ気なくあしらわれた。
 けれども、私の上の姉に訊いてみようかとも言ってくれた。姉は子どものときから歌が上手かったが、いまでも合唱団に入っているという。彼女の息子が大学時代からしばらくバンドに熱中していて、電子楽器なども購入したことがあるはずだから、何か知っているだろうとのことだった。


 我が家では父が音楽好きだったせいで、いつもクラシック音楽が流れていた。父の書斎は頑丈な鉄筋火山灰コンクリート造りで、音量をかなり上げても家族にも周辺にも迷惑にはならない構造だった。父の音楽好きは、どうやら私の姉妹には引き継がれたが、私は埒外だったということになる。ちなみに、父の自慢でもあった火山灰コンクリートは、父の父親が、関東大震災後の東京の惨状を見たのをきっかけに熱心に研究して創り上げたものだ。祖父はこれを実験的に自宅の建造の一部に採用したり、これで庭に温室を作ったりした。これについては別の機会に書いてみたい。


 私たちが小さい頃には家に4オクターブの足踏み式のオルガンがあった。父はオルガンを弾きながら、周りに子どもたちを集めてうたわせるのが好きだった。私たちは姿勢を正し、精一杯声を張りあげたものだ。うたったのは、父が子どものころから馴染んでいた小学唱歌、それから「かやの木山」「椰子の実」「からたち」「浜辺の歌」というような日本歌曲、さらには日本でよくうたわれていた外国の民謡などだった。「オールド・ブラック・ジョー」「オー・スザンナ」「ローレライ」「野ばら」「サンタルチア」「オーソレミオ」などは英語・ドイツ語・イタリア語と原語で教えられた。子どもの記憶力とは不思議なもので、当時はまったく意味も分からずに聞き覚えたわけだが、その後は合唱などにまったく縁がなかった私でさえ、いまでもこれらは始めから終わりまで原語でうたえる。


 さて、電子ピアノの件だ。妹と話してからしばらくすると、妹からLINE電話がかかってきた。出てみると、ビデオ通話にしてくれと言うので画面を切り替えた。すると向こうには妹と姉が顔を並べている。姉の顔を見るのは本当に久しぶりだった。相変わらず奇麗に装っているが、やはり頬のあたりがたるみ始めている。たぶん姉も私を見て同じように感じていることだろう。私たち姉妹は、べつに仲が悪いわけではないが用事がなければ連絡はしない。年賀状その他、時候の挨拶などもまったくなしだ。もっともこれは私だけがそうで、他の姉妹や親戚同士は連絡を取り合っているのかも知れないが。


 姉は律儀な性格だから、息子から聞いてきた電子ピアノ情報をメモを見ながら教えてくれた。高校生の時最初に買ったキーボードは、バンドの練習のために持ち運びできる安価なものだったが、すぐに飽きてしまい行方知れずになった。だからああいうのは買わない方がいい。その後3回ぐらい自分であるいはバンド仲間と購入した経験から言うと、音質の点で満足いくのはやはりそれなりに高価だ。姉は、私にメモをするように促して、いくつかの商品名をあげた。それぞれの長所短所なども教えてくれた。姉が丁寧に私の質問に答えてくれたせいか、私たちは一気に和やかな気分になった。


 用件がすんでしまうと、姉のお喋りが始まった。そういえば姉の長電話は昔から有名だった。私が仕事で忙しかったころは、姉から電話が来ると話を打ち切るタイミングを見計らうのに苦労したものだ。あれからもう長い年月が過ぎ、インターネット電話で姉と話しているのも不思議な気分だ。こうして電話代を気にせず話せるようになって、会話の内容や雰囲気もずいぶん変わった気がする。まるで喫茶店でお茶を飲みながら話すような、気ままな会話を楽しめるようになった。


 姉は、私にこう尋ねた。
「それで、電子ピアノを買って何を弾くつもりなの?」
 私は一瞬言葉に詰まる。2人とも私の腕前は先刻承知なわけだが、初心者用の曲名など言いたくない。かと言って正直に脳トレだなどとも言いたくない。
「久しぶりだから、まず知っている歌ぐらいから始めようかな」と、これも偽りない答えだと思いながら私は言った。


 するといきなり姉がうたいだした。きれいなソプラノだった。
「♪ 歌に疲れ 文に倦みて たずさえ行くや 春の野」
 そこで姉の歌は止まってしまった。歌詞を忘れたらしく、その先をラララとメロディーだけうたう姉に合わせて、私が続きをうたった。
「♪ 小川の根芹 押し分け逃ぐる 小鮒の腹 白く光る」
 うたい終えると、画面の向こうから姉と妹の爆笑が響いた。そして2人は笑いをこらえながら口々にこう言った。
「ブンちゃん、相変わらずねえ。記憶力はいいけど、音程が・・・」
 2人はまだお腹をよじって笑い転げている。


「ブンちゃん」というのは、私の呼び名だ。小さい頃私は、自分のことを「ジブン」と言えずに「ブン」と言い、何かというと「ブンがする、ブンがやりたい」と自己主張したそうだ。それで「ブンちゃん」と呼ばれるようになった。


 さっき姉がうたったのは、タイトルは知らないが父に教えられた歌だ。こういう古びた歌詞の歌を父はいくつも教えてくれた。こういうのこそが、私たち姉妹にとっては父の思い出の歌なのかもしれない。思えばそのお陰で私は、台湾や旧満州日本語教育を受けさせられた人たちと、いくつもの歌を一緒に歌うことができて、喜ばれたり驚かれたりした。たとえば父や彼らの年代だと卒業式にうたったのは、こんな歌だ。
「♪ 年月廻りて早ここに 卒業証書を受くるべく なりつる君らの嬉しさは そもそも何にか例うべき」


 それはともあれ姉のようなソプラノの音程は、私には到底出せない。だから自分の音程でうたったつもりだが、どうやら調子外れだったのだ。姉と妹はひとしきり笑って笑いがおさまると、「♪ 歌に疲れ……」をごく自然な調子で見事にハモってうたいあげた。
 

 この日のようなLINE電話だと、タイムラグのせいであちらとこちらでハモることができないのは、私には幸いだった。お喋りをはさみながら2人は次々に思いつくままにうたった。私はこちらで、あちらには聞こえない程度の音量で口ずさみ、充分楽しかった。
 姉がまたうたいだした。
「♪ ザーアイン クナーブアイン レスラインシュテーン レスラインアウフデア ハイデン」
 ヴェルナーの野ばらだ。ドイツ語が少し間違っているが口を出さずに聞くだけにする。これは調子外れを恐れてのことではない。姉は何歳になってもやはり姉なのだ。年下の私に間違いを正されるとプライドに触るらしい。原因は忘れたが、びっくりするほど怒らせてしまった経験があるのだ。
 姉に合わせて低音のパートをうたった妹が、
「つぎはシューベルトだよね、ブンちゃん」と言った。


 シューベルトの「野ばら」は同じ歌詞でもう少しテンポが速い。それを私にうたえとでも言うのだろうか。
 妹はこう言葉を継いだ。
「ブンちゃん、お父さんに『ブンちゃんのパート』を仕込まれたでしょ」
 なんのことかと訊き返すと、妹はこんな説明をした。
 どうやら私の調子外れは、子どものときかららしい。どうやってもハモれない私を何とか仲間に入れようと、父は比較的単純でうたいやすいメロディがあると「ブンちゃんのパート」と名づけて私に教え込んだという。そうやって何とか私もハモれる歌がいくつかあり、シューベルトの「野ばら」はそのひとつなのだそうだ。
 なぜだろうか、私にはそんな記憶はまったくなかった。調子外れの自覚がないままに、得意満面で声を張りあげていたのだろうか。


 すると妹がシューベルトの「野ばら」をピアノで弾いてくれた。低音部の音量を大きくして私に分かりやすいようにしている。聞いているうちに、このメロディなら知っている、うたえる、という気がしてきた。思い出したメロディを口ずさむと、妹が小さい声でハモってくれる。タイムラグもうまく胡麻化してくれる。なんだかやっと子どものころ楽しくうたっていた気分がよみがえってきた。もしかすると妹は小さいときから、年長の私がうまくうたえないのを不審に思いつつ、脇からなにかと応援してくれていたのかも知れない。


「『ブンちゃんのパート』なんてあったけ? 私は知らないけど」と姉が言い出した。
 私自身が覚えていないのだから、無理もない。
 姉と妹はそれぞれ私より3,4歳年長と年少だ。子どもにとってはこの差は大きいから、経験も記憶も驚くほど違っていることがある。しかも私たちが育った戦後まもないころは社会の変化が激しかった。たとえば小学校入学時、姉は従姉に譲ってもらった布の手提げカバンで登校したという。私は神戸にいた祖母に茶色の皮のランドセルを送ってもらったが、クラスで皮のランドセルの子は2人しかいなかった。それが妹になると、父が東京で買ってきたピカピカの赤い皮のランドセルになった。
 そんな他愛ない話を私はしてみたが、姉は聞いてもいない様子で口をとがらせている。


「『ブンちゃんのパート』なんてヘンじゃない? 私たちには自分だけのパートなんてなかったのに」と姉はあからさまに不機嫌な顔をして言いつのる。
 妹は言いにくそうに口ごもりながら、
「だってブンちゃんがなかなかうまくうたえないから、お父さんだって助けたかったんでしょ」と言った。


 姉はなぜか昔から、何かと父の愛情を独り占めしたがる、と私は感じている。いつだったか忘れたが、もう私たちが立派に大人になりそれぞれが子どももいるような年頃だったのに、姉は皆の前で父に食って掛かった。
「お父さんはおかしい。なぜブンちゃんとばかり親しくするの?」
 父はあっけにとられた顔で、咄嗟にこう答えた。
「なんだって? 僕がブンちゃんと怪しい仲だと言うのか?」
 笑ってすませようとした父の思惑は外れ、姉は額に青筋を立てたままだった。姉は最初の子どもだったから、父がどれほど喜び可愛がったかは、母や叔母たちの語り草だった。だからこそ姉は父の関心を自分だけに集めておきたいのだろうか。


 なんだか気まずい雰囲気のままお開きにしようとすると、姉がこんなことをつぶやいた。
「『ブンちゃんのパート』はあったような気もするけど、あれはうちのブンちゃんじゃないのよ」
 また始まった、と私は心の中で思う。私こそが知っているという物言いも、長女の悪い癖だ。妹は何を思っているのかは分からないが、取り出していた楽譜などをしまい始めた。あ~あ、久しぶりに会ったのに、私たちはにこやかに別れることもできないのか、と私は心の中で嘆く。


 すると姉は、妹たちの心中など歯牙にもかけず、勝手に話題を変えた。
「お父さんは中学で、野球部に入りたかったんだって」
 相槌も打たずに姉が喋るにまかせていると、話はこんなふうに進んだ。父は入学後まもなく野球部の入部希望者の列に並んだ。父の順番になると、ボールを渡されて投げろと指示された。父がボールを投げると、上級生に「いらない」とあっさり言われて、父は列を離れた。入部はできなかった。
 私と妹はつい声をたてて笑う。そうだよね、お父さんは運動神経は鈍かったもの、と。「それで合唱部に入ったの」と姉は話し続ける。
 妹は聞いたことがあると言ったが、私は初めて聞く話だった。


「お父さんは中学に入ると、お祖父ちゃんからドイツ語を習い始めたの」と姉の話題はまた気ままに変わる。これも私は聞いたことがない。だが、祖父は19歳で金沢医専で医師免許を取った神童だったそうだから、あり得る話だ。
「あ、そうなの? お父さんとお祖父ちゃんが勉強のためにドイツ語で文通してた手紙は見たことがあるけど」と妹はお菓子をつまみながらお喋りにくわわる。
「お父さん『冬の旅』が好きだったよね。あれは全曲空でうたえたんじゃない?」と妹。
 父がフィッシャー=ディスカウの「冬の旅」のレコードをかけ、それに合わせて口ずさむのは私もよく見かけた気がする。


「ああそうだ。ブンちゃんというのは、『冬の旅』を一緒にうたった友だちじゃなかったかしら?」と姉が言う。
「私は知らないけど、その人はなんでブンちゃんなの?」と妹。
「だってお父さんは、カンちゃんじゃない」と姉が言うと、画面の向こうの2人と私はそろって爆笑した。
 父は小学校のとき、皆が我先に先生の質問に答えようと「先生!」と叫びながら手を挙げるなかで、「母ちゃん!」と叫んでしまったのだそうだ。それ以来父の呼び名は「カアちゃん」になり、後に訛って「カンちゃん」になった。


「カンちゃんとブンちゃんは仲がよかったんでしょ、きっと。でもブンちゃんは英語がペラペラだったんだって。だから英語やドイツ語の歌もうまかったんじゃない?」と姉。
「そう言えば、お母さんだってエスペラント語を最初に教わったのは、女学校の先生からなんでしょ?」と妹。
「そうよ、あのころの方がもしかするといまより国際的だったのかもね」と姉。
 2人の話はあちこちに飛んでとめどない。
 私はこっそり退席した。あの調子だといつの間にか私がいなくなっても2人とも気にも留めないだろう。


 ところがしばらくして、私は姉妹の話に最後までつきあわなかったことを後悔するはめになった。というのも、あの時話題になった「ブンちゃん」は、もしかすると「ピンちゃん」ではないかと突然思いついたからだ。「ピンちゃん」は、冒頭で書いた江文也の子ども時代の呼び名だ。
 江文也は幼名が江文彬(ジャン・ウェンピン)、台湾では阿彬(アピン)と呼ばれ、これは日本語だと「ピンちゃん」なので、そう呼ばれたという。江文也本人も、日記にこの呼び名を書き残している。


 江文也は台湾で生まれ、小学校時代を厦門(アモイ)で、中学時代を長野県上田市で過ごした。厦門で貿易商をやっていた父親が、江文也と兄の2人を上田に送り出したのだ。そのころ母親を亡くしたせいもあったが、当時の植民地統治下の台湾人は、裕福な子弟は中学から日本内地に留学する例が少なくなかった。台湾では教育の場でも台湾人は不平等に扱われ、望む勉学を続けるのは難しかったからだ。
 そのうえ実は江文也と私の父は偶然にも1910年生まれの同い年。しかも同じ上田中学で学んだ。ただし学年は江文也が1年下だった。厦門の小学校では台湾に準じた日本教育が行われたが、それでも日本語力が不足していたのだろう。江文也は尋常小学校6年に編入してから中学に進んだ。中学生の年頃だと学年が違えば接触はないだろうとの先入観で、江文也を想像するとき父の思い出話が参考になるという程度にしか私の考えは及ばなかった。けれどもあの日姉から初めて聞いたのだが、父が合唱部にいたとすれば、そこで江文也と知り合った可能性は大いにある。
 カンちゃんが一緒にうたったブンちゃんは、もしかするとピンちゃん、つまり江文也ではないか。そう考えると私は居ても立ってもいられなくなった。
 親元から遠く離れた15歳と13歳の台湾人兄弟が、見も知らぬ日本の田舎町でどのように暮らしたか。詳細はもう分らないだろうと諦めていたが、何か手掛かりがみつかるかも知れない。


 姉にもう少し詳しく訊こうと思い、電話をしてみた。
「カンちゃんの歌仲間のブンちゃんのことだけど」と私は単刀直入に切り出した。
 姉は、そんな話はもう忘れたというふうに一瞬沈黙したが、朗らかな声でこう言った。
「おかしかったわね、お父さんがSPレコードをかついで下宿を逃げ出す話」
 私には何のことかまったく分からない。私がそっとLINE電話から離れたあとに出た話題なのだろう。
 私は姉に、父と同い年の台湾人・江文也という人が、同じ上田中学で学んでいたいきさつを、なるべく分かりやすく簡潔に話そうと努力した。けれど姉はほとんど関心を示さなかった。姉は実は台湾・台北の生まれだ。けれど、大半の戦前に台湾在住経験のある日本人のように、あの時代の台湾人や自分が離れた後の台湾にはほとんど興味がない。


 仕方ない、話を聞くのはまたの機会にしよう、と諦めて電話を切ろうとすると、姉がこう言った。
「きょうはこれから、絵のクラスなの」
 姉は油絵を描いているのだ。絵や歌や陶芸で日々の時間を埋めているようだ。だが出かける前に電話をしてしまったなら、間が悪かっただけとも思える。
「そう、いってらっしゃい」と私は応じた。
「そのあと珍しくヤスコちゃんとお茶するの」と姉は言う。
 ヤスコちゃんは従姉で、年齢が近い姉はつきあいがあるようだが、私はかなり前に一度会っただけだ。その時は別件の調べ物で昔の写真を見せてもらいに家を訪ねた。ヤスコちゃんの母親は父の姉で、長女だったせいかマメな性格のせいか古い写真をたくさん保存していた。一人っ子のヤスコちゃんは全部そっくり引き継いでいた。
「そう、ヤスコちゃんによろしく。また昔の写真を見せてもらおうかな。写真は捨てないで、いらなくなったら私に頂戴と言っておいて」
 最後の方は、なるべく冗談めかして言った。私たちは皆そろそろ持物を整理しなければならない年齢に差し掛かっている。
 姉も、冗談ぽくこんなことを言った。
「ヤスコちゃんが、もしもブンちゃんのことを覚えていたら、そう伝えておくわよ」
 けれどこの最後のやりとりが、また意外な展開につながるとは、このときは思いもしなかった。

 

テレビのリモコンがない!

 

 つい先日、テレビのリモコンが見当たらなくなった。
 テレビはあまり見ないが、それでもニュースの時間だと気づけばスイッチを入れて、気になっている出来事のその後を見届けようとしたりする。リモコンの決まった置き場はないが、テレビがある部屋の二つのテーブルのどちらかにたいていは置いてある。


 はじめは、まあそのうちみつかるだろうと暢気に構えていた。リモコンがなくても、テレビの側面の小さいボタンを押せば、電源を入れたり、チャンネルを変えたり、音量を調節することはできる。だから特に支障はないだろうと踏んだのだ。
 ところが、リモコンがないと操作できないことがいくつもあるらしいと分かった。リモコンが無くなる前に、音声切り替えを副音声にしていた。これは台湾の総統選挙を中国のニュースはどう伝えているかを知りたくて、同時通訳者を疑うわけではないが、元の中国語の音声に耳をそばだてたせいだ。
 この副音声を主音声に切り替えるのが、テレビ本体のボタンではできなさそうで、国際ニュースは全然理解できない外国語もそのまま聞くしかなくなった。地デジのNHKニュースも英語になっていて、アナウンサーの顔や雰囲気と全く合わない英語が棒読みで流れてきて、気持ち悪い。
 そのほか、入力切替をしてインターネットをテレビ画面で見るなも、出来なくなってしまった。


 やはりいろいろ不便はあるので、リモコンを探すことにした。無くなったころに自分がしたことを思い出してみる。問題がありそうなのは屑籠かも知れない。テレビのある部屋には屑籠が3個ある。こうなってみると、一部屋に3個も屑籠を置くなど、私がいかに不精者かを示しているような気がしてくる。屑籠の近くまで数歩あるくのさえ厭わしいということだろうか。それはともかく、その3個が全部満杯に近くなっていたので燃えるゴミの袋にまとめたのがつい先日だ。もしかしてゴミと一緒にリモコンを捨てたかもしれない。テーブルのひとつは、読みかけの本や郵便物やさまざまな書類が山積みになっているから、テーブルの端っこにリモコンを置いたら、書類に押されて滑り落ち、運悪く屑籠にスポンと入ったということもあり得る。それで、燃えるゴミの袋に手を突っ込み中身をかき回してみた。リモコンは無かった。


 玄関に置いてある木箱の中身もひっくり返してみた。ここには外出時のマフラー、帽子、手袋などを入れている。もしもうっかりリモコンを持ったまま玄関に行ったりすれば、防寒具を身につけて、その代わりに手に持ったリモコンをここに入れそうな気がする。だがやはりリモコンは無い。だがこんなことをしていると、妄想が広がって無用な不安を掻き立てられそうでもある。


 物を失くすというのは、それだけでも不愉快なものだ。大したものではなくても、急にその価値に気づいたりして惜しくなる。どんな些細なものであれ、使っていたものがなくなるのはやはり不便だ。あちこち探した挙句、不愉快や不安を振り払うために友人に話してみることにした。こういう時に気づかうのは、惚けだとバカにされないような相手を選ぶことだ。
 私より5歳年下だが、老いの心境も理解し、かつ頭もかなりはっきりしている台湾の友人にLINEを送ることにした。中国語で書くというのも、感情の生々しさを消すのには効果的かもしれない。


 私「あ~あ、テレビのリモコンが見当たらない」
 すると、こんな返信が来た。
「ゆっくり探しなよ。そのうちみつかるよ。みつからなかったら、リモコンだけ買えばいい。(台湾ならそれもできそうだが、日本ではどうだろう?うちのテレビはかなり古いのだ)」
 返信はさらに続く。
「年取ったら、物はきちんと元の場所に戻すのが肝心。僕は大事な物の置き場所は、全部備忘録に記録してある」
 ちょっと大げさすぎないか?と噴き出したくなる。超几帳面な彼らしいけど、リモコンの置き場まで備忘録に書くのだろうか。書いたってうっかり失くすこともあろう。などと思いつつ頬が緩み、少し切迫感がほぐれる。これは書かれた内容のせいばかりではない。台南の暖かさも関係ありそうだ。数日前にもこんなやり取りをした。
 私「今日は寒い。いま10時だけど、出かけようとしたら気温はマイナス3度」
 彼「台南はいま29度」
 えっ、夏じゃないか。彼の返信には暑い空気がまつわっている。


 その後も、あちこちを探したがみつからず、この際だからテレビを買い替えようかと考え始めた。もやもやを吹っ切りたいのだ。今年からNHKBSで4K8Kなどの放送が始まったそうだが、我が家のテレビではそれは観られないのだ。うん、いいチャンスかもしれない。BS料金を払っているのに4K8Kが観られないのも理不尽だとは思っていた。


 それでも妄想のおもむくまま食器棚、風呂場、台所なんかまでリモコンを探した。そしてその日の終わり、まさに寝床に就こうとした瞬間、ふと思いついて書斎の机を見に行った。そこへリモコンをもっていく理由などまったくないのだが、私がいちばんよく行く場所といえばその書机だからだ。
 そしたら、ありました。黒い長細いリモコンが、まったく意味もなくパソコンの前に鎮座しておりました。
 こういうのを果して惚けと言うべきだろうか。いやもうどうでもいい。とにかくみつかったのだから。

映画「福田村事件」への疑問  静子とは何者か?

 森達也監督の「福田村事件」が話題を呼んでいる。
 1923年に起きた関東大震災から100年目の今年、震災の混乱の中で起きた朝鮮人虐殺問題に、日本はまだきちんと向き合えていない。そんななかで森監督はこの作品で、虐殺に加担してしまった普通の市民を描こうとした、という。それが観客を集めた大きな理由だろうと思う。

 

 

 この映画は、関東大震災直後に千葉県の福田村で実際に起きた事件をもとに作られたものだ。
 地震発生から5日後の9月6日、福田村の100人余りの村人が、香川県から来た薬の行商団15人のうち9人を惨殺した。行商団は被差別部落の人たちであった。だが彼らが殺されたのは、香川県の地元の讃岐弁を話していてうまく言葉が通じず、朝鮮人と疑われたのが原因だったとされる。
 とはいえ、実際の事件については加害側・被害側とも口をつぐんでしまったし、記録はわずかしか残されていない。映画化にあたっては多くのフィクションが加えられている。

 

 

 映画は、震災前の村の人々の生活を追っていく。一見のどかそうだが面倒なしがらみに縛られ、家父長制や封建制に抑圧される人をも描いている。
 大震災が発生すると、人々の大混乱に対する不満が政府に向かわないようにと、内務省や警察から意図的にデマが流された。「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「朝鮮人が日本人を襲撃している」と。村人たちは不安をかきたてられ、在郷軍人や自警団を先頭に武器を手にしていきりたつ。そのときたまたま村を通りかかった他所者の集団が、香川県から来た薬売りの一行だった。彼らが話す聞き慣れない讃岐弁に、朝鮮人ではないかと猜疑を募らせた村人たちは、「国を守れ、村を守れ」と正義を振りかざし9人を殺してしまった。
 だがそれを何とか止めようとした村人も数人いた。インテリの村長、朝鮮で教師の職を辞めて村に戻った澤田、人妻とのあいびきを揶揄され非難されている船頭、千葉日日の新聞記者の女性、それに前記の澤田の妻・静子だ。

 

 

 これらの人びとについて思うことはいくつかあるが、私がいちばん気になるのは朝鮮から帰って来た元教師・澤田の妻の静子だ。
 静子は、自分は東洋拓殖の重役の娘だと、船頭に向かって自分から名乗っている。気まぐれにふらりと散歩に出て船に乗ったときの軽い話題だった。
 東洋拓殖は周知のように、日本が朝鮮を植民地統治していた時代に、植民地経営のための事業を多岐にわたって行った半官半民の国策会社だ。朝鮮の土地を買収して日本の農民を移民させ、あるいは地主として朝鮮の農民に小作をさせた。さらには日本政府の植民地政策を背景に多くの特権を付与されて、金融、水利事業、建設業などに事業を拡げた。終戦時には関連会社や子会社は膨大な数に上り、朝鮮最大の土地所有者であったというから、悪辣さも想像できようというものだ。

 

 

 その会社の重役の娘が一介の教師と結婚するなど、そもそもありそうもない話だ。しかもその教師は、当時の朝鮮在住の日本人としては数少ない考えの持ち主だった。朝鮮で暮らすからにはと朝鮮語を学び、朝鮮人に対して同情的だったのだ。それならばなおさらこのこの2人の接点は想像しにくい。
 それはさておき、植民地における宗主国側の特権階級として暴利をむさぼっていた会社の重役の娘が、この映画では単に苦労知らずの奔放で天真爛漫なお嬢さんというような描き方をされているのには、疑問を感じずにはいられない。

 

 

 そう感じるのはたぶん、私の来歴のせいだ。
 私は1944年、植民地統治下の台湾・台南市で生まれた。思えば私は、日本の統治下にあった植民地に在住経験のある最後の年代ということになる。
 私は生後1年余りを台湾で過ごして日本に来てしまったが、台湾との縁は深い。母方の祖父母が台湾に渡ったのは1908年。母は1912年に屏東で生まれ高雄で小学校に通った。女学校時代を神戸や東京で過ごしたが、結婚するとすぐ1938年に再び台湾に渡った。私の父が台北帝国大学に転勤になったためだ。父は1940年に陸軍に徴用され台南陸軍病院勤務となったので、その後は家族は台南で暮らした。
 台湾の50年間の植民地時代に、私の母方は4代が父方は2代がさまざまな形で台湾での生活を経験したことになる。そんなわけで、我が家や母の実家では台湾がよく話題にのぼった。私だけが幼少時の台湾の記憶がないため、そのぶん興味津々で皆の話に耳を傾けた。

 

 

 その後私は、ロンドン映画祭で偶然台湾映画に出会ったのをきっかけに、1983年から台湾映画を日本に紹介する仕事をはじめた。するとあのような映画が生まれた背景を知りたくなり、台湾映画や台湾社会にまつわるノンフィクションを書くようになった。台湾人および日本人から植民地時代の話もたくさん聞いた。
 また同世代や年下の台湾人の友人大勢でき、そのなかのポスト植民地世代と自称する数人とは、家族や年長者から聞いた植民地時代の思い出話を交換しあった。私は、自分の曽祖父、祖父母、父母たちが台湾でどんな風に暮らしたかを知りたかったのだ。

 

 

 そうした経験の中から思うのは、植民地での民族差別は、映画「福田村事件」で静子が口にするような生易しいものではないということだ。静子は船頭に対して東洋拓殖を説明するのに、「朝鮮人をだまして大儲けしている会社」だと言う。また夫から朝鮮独立に関わった朝鮮人が殺された話を聞いて、「ひどいことをしたのね」と感想を述べる。
 だが私は、とりわけ静子のような植民地制度に支えられて暴利をむさぼっていた人の家族から、このような言葉が出るとは思えない。断っておくが、私は静子を個人攻撃するつもりはない。むしろ、植民地で暮らす以上は、支配民族と被支配民族のあいだの差別を当然のものとして受け入れなければ生きていけないとさえ考えている。
 差別を成り立たせるための法や制度や慣習は網の目のように張り巡らされていたはずだ。あたかも、戦争では人を殺すことを何とも思わなくなるように、植民地で暮らす日本人の大部分にとっては被統治者側の人びとを差別するのが当然のこととなっていた。植民地とはそうした差別制度の上に成り立っていたから、朝鮮でも台湾でも、日本の支配に抵抗したり、日本人と同等の権利を求めて独立を主張したために命を奪われた人は大勢いるはずだ。

 

 

 映画「福田村事件」のなかでは、静子の夫が初めて朝鮮での辛かった経験を静子に話す場面がある。彼は、朝鮮独立を主張して捕らわれた朝鮮人の通訳をさせられた。そしてその朝鮮人が惨殺される場に居合わせてしまったという。
 夫はなぜかその部分を話すときに、不自然なことにいきなり朝鮮語を喋る。そして映画では夫の朝鮮語を静子が理解したことになっているが、これもまずあり得ないことだと思う。日本人は、朝鮮でも台湾でも満州でも、また日本占領時代の上海でも、日本語だけを使って威張って暮らしていた。当時の日本では、植民地の人びとが使う言葉を下品な低俗な言葉とさえみなしていたのだから。

 

 

 私は、静子の描き方に違和感を覚えた理由を説明するために、台湾で聞いた植民地での体験談を書こうと試みてみた。だがそれはどうやら出来そうにない。どのエピソードも背景にある差別の構造は複雑で根深く、かいつまんで語るのは無理だからだ。
 それでここでは拙著『台湾人と日本人 基隆中学「Fマン事件」』の概要を書くことにした。扱っているのはひとつの小さい事件だが、植民地での支配者側・被支配者側の関係を象徴するような出来事だと思うからだ。
 太平洋戦争開戦から2か月余り経った1942年2月、台湾の基隆中学で卒業を目前に控えた5年生の台湾人が5人、いきなり特高警察に逮捕された。卒業記念に同級生から集めていたサインブックの、いまから思えば他愛無い文言が、台湾独立を主張していると疑われたのだ。特高に逮捕されれば拷問で殺されることもあった時代だから、台湾人学生は家族ともども恐怖に震えた。台湾人に対する激しい殴打事件も起きたし、逮捕された5人はその後の人生も大きく狂わされた。
 この事件を私が知って、取材を重ねて事件のいきさつをまとめて出版したのは、事件から半世紀後のことだ。それだけの時間を経ても、この事件の受け取り方は、台湾人と日本人とではまったく違っていた。
 台湾人は、思い出すのさえ恐ろしい、と家族にもまったく話していない人もいた。私が取材に行って話を聞いていると、家族が吃驚して割り込んできて私以上に質問を浴びせかけたりもした。事件の話は沈痛な面持ちで、重い口を開いて語られるのが常だった。
 だが日本人はほぼ全員が、事件を面白可笑しい話ととらえていた。なかに事件のきっかけを作った人がいたが、彼はニコニコ顔で手柄話としていきさつを語った。彼が隣席の台湾人の机からサインブックを盗り、それが級長経由で体育教師に届けられたことが台湾人学生逮捕につながったという。日本人の中には、逮捕された同級生の台湾人を案じていた人は一人もいなかった。

 

 

 話を映画「福田村事件」に戻す。
 関東大震災後の朝鮮人虐殺は、政府が流したデマと従来日本人の心中にあった朝鮮人に対する差別意識が結びついて起きたものだろう。ではなぜ日本人は朝鮮人差別意識をもつようになったのだろう。植民地での民族差別感情は日本内地よりずっと激しかった、というのは経験者がよく語ることだ。
 ならば、植民地での差別意識を無意識のうちに血肉としてしまっているであろう静子を、あんな無垢で善良な人のように描いてしまったのは残念なことだ。静子を登場させたなら、無自覚に根深い差別意識を持ってしまった日本人像を、もっとえぐり出すことができたのではないか、と私は思う。
 さらに思うのは、静子の描き方は、日本での植民地統治に対する反省の無さの反映かもしれないということだ。

 

80歳の日々

 もう少しで私は80歳になる。そう気づいたら急に気分が変わった。死が近づいてきた、という実感がわいてきたのだ。生きる時間が短いのを悔やむ気分、やりたいことがまだたくさんあるのに、と焦る気分。いろんな気分がないまぜになっている。

 

 死、ということをいままであまり真剣に考えたことがなかったと気づく。だから正直なところ、だいぶ戸惑っている。やることがちぐはぐになっている。けれどもまあ仕方がない。これから死を含めて自分の人生について考えてみることにしよう。

遺失物管理所(ジークフリード・レンツ著) 届けられたさまざまな忘れ物 それらが紡ぐ物語

    

 


 近ごろ小説を読む機会が減ったような気がする。理由のひとつは新型コロナウィルスの感染拡大に伴って、新たに知らなければならないことが増えたことだ。この感染症からどうやって身を守るか、これによって社会はどう変化していくか。
 とりわけ、ほとんど信用ならぬ政府を擁しているこの国では、政府の打つ手にもいちいち懐疑的にならざるを得ない。彼らの施策を受け入れてよいものか、彼らは果たして正確な情報を流しているのか。そんなことに耳目をそばだてていると、気の休まる暇がない。


 だが、目の前のことに追われ続けてカサカサと乾いてしまった心を潤したくなると、小説に手が伸びる。こういうときは嗅覚が鋭敏になっているらしい。予備知識がほとんどないままに選んだ小説が、思わぬ感動をもたらしてくれたりするのも、こんなときだ。ドイツの小説「遺失物管理所」は、駅の片隅にある駅や列車で発見された忘れ物を管理する部署を舞台に、忘れ物にまつわる人間模様や人々の心の動きをじっくりと描き出している。一市民として心豊かに生きるとはどういうことか、ゆったりと思いを巡らさせてくれた。


 著者のジークフリード・レンツは1926年生まれ。出生地は現在はポーランド領になっている東プロイセンのリュクだという。読み終えてからこのことを知り、私がこの作品に惹かれた理由の一端は、こんなところにもあるのかも知れないと思った。レンツとは歳も境遇もかけ離れているとはいえ、私にも戦争にまつわるさまざまで生まれ故郷を離れた経緯がある。居ながらにして国境をまたぎ、言語のバリアを超えた記憶。それが人間観察にも生かされていることを私は「遺失物管理所」のなかで感じ取った。私はといえば、いまはコロナ禍で自由に旅もできないせいもあって、心のうちにふくれあがる郷愁にしばしば手を焼いている。手の届かぬ遠くの何かを求める気持ちは、似たようなやるせなさを抱えた人の心と共鳴するような気がする。


「遺失物管理所」で、心をとらえて離さないのはヘンリーという24歳の青年だ。彼は名の知れた家柄の出で、身内には鉄道会社の重鎮もいるから、出世に有利な条件のよい職に就くのは容易なはずだ。だが彼は、そうしようとはしない。「日々が穏やかで楽しければそれでいい」からだ。そんな彼が配属されたのが、出世コースとは縁のない人の吹きだまりのような遺失物管理所だ。日々の業務はといえば、あちこちから届けられた忘れ物を整理して管理し、持ち主が名乗り出れば本当に持ち主であるかどうかを確認して引き渡す、というものだ。持ち主が現れない忘れ物は、定期的に行われるオークションで売られていく。


 心根の優しいヘンリーは、ささいな忘れ物にもいろいろと想像を巡らせて持ち主の物語を見出す。だからどんなものも粗末には扱わない。彼の同僚たちも、それぞれにこの職場にいる意味を心に秘めていて、忘れ物に対してそれなりに心を尽くす善意の人たちである。ある日は、列車の乗り換え時に慌てて笛を置き忘れた少女が、それを探しにやってくる。婚約指輪を洗面所にうっかり忘れてしまった女性が、それを探しに来る。身辺にあったもの、思い出の詰まったものを失くして悲しみに打ちひしがれている人たちが、それを再び手にしたときの喜びを、ヘンリーは暖かく見守る。


 忘れ物を通じて親密なつきあいが生まれることもある。列車から落とされたカバンが遺失物管理所に届けられた。その中身を確認するうちに持ち主が特定でき、ヘンリーはそれを持ち主の滞在先のホテルに届けた。持ち主はサマラ出身のパシュクール人の博士で、優秀さを認められてこの町の工科大学に招かれたのだった。異国の地を踏んだばかりの博士は、学校で習得した律儀なドイツ語を話し、ヘンリーとしだいに親しくなっていく。彼の姉のバーバラともつきあいができ、互いに好意を抱くようにさえなる。だが時として露見する、市井の人々からの差別的な言辞、侮蔑的な態度に、博士はひどく傷つき、黙って姿を消してしまう。


 ヘンリーは職場の同僚たちとも、少しずつしだいに心を通わせていく。すぐ身近にいる年上の女性に好意を抱き、さまざまな手でつきあいを深めようする。彼女には声優の夫がいて、暴走族の弟がいることが分かってくる。ヘンリーは彼女を熱心に旅に誘うが、彼女の方はヘンリーに好感を抱きつつも、一定の距離以上にヘンリーを近づけないよう努めているふうだ。同僚には定年を間近に控え、高齢の認知症の父親の面倒を見ている男性もいる。彼らと働く職場で、独りで暮らす高層アパートで、ヘンリーは静かな日々を望んでいるが、それでも時には暴力に敢然と立ち向かわなければならない局面に追い詰められたりもする。そんなヘンリーの日々を、そして周囲にいる家族や同僚とのこまやかな感情のやり取りを、ありふれた事物をスケッチするようなさりげないやり方で、じっくりと描き出しているのがこの作品のいちばんの美点だろう。心のうちにじわじわと、生きることを肯定する気持ちが湧いてきた。

 

『暗いブティック通り』    私とは、いったい誰なのか?


 パトリック・モディアノ著『暗いブティック通り』のことを、最近しきりに考えていた。この本を私は、自分の本棚のお気に入りコーナーに入れていた。10年ほど前にこのコーナーをつくり、老人になって終日家にいるようにでもなったら気の向くままに手に取って楽しもうと、それにふさわしい本を集めているのだ。私はもともと、本だけでなく音楽や映画もしつこく何回も見たり聞いたりする癖がある。内容を知りつくした作品に触れるというのは至福の時だ。覚えのある感情や空想がまた湧き上がり、それに身をゆだねる。そのくせそれらはいままでとは微妙に違う色合いを帯びていたりで、それがなぜなのかと考えるのもまた楽しい。


 さて『暗いブティック通り』だが、今回また読もうと思いついてはみたが、かつて読みながら好奇心をつぎつぎ呼び起こされた感覚はよみがえるのに、あらすじや登場人物についてはほとんど忘れてしまっている、という珍しい経験をした。しかもこの本が、なぜか私のお気に入りコーナーから消えていて探しても探してもみつからない、という稀な出来事に見舞われた。自分の記憶力に漠然たる不安を覚えているさなかに、たまに行く隣町・東御市の図書館の書棚で、偶然にもこの本を目にした。人が少なくひっそりと静かで、窓からは小さな街並みと遠くの美しい山々が見渡せる、私の大好きな図書館だ。一瞬、あれ、私の本がこんなところに紛れ込んでいる、と思ったりしたが、とにかく喜んで借りてきた。


 読み始めてみたら、これもまた珍しい経験だが、まるで初めて読むような感覚だった。こうなると、悔しいことだが記憶力の衰えを認めざるを得ないのかもしれない。その証拠に、前回は話の展開をわくわくと追いつつ一気に読み切ったはずだが、今回は作中に時間も場所もばらばらに錯綜して出てくる登場人物を、あれ、これは誰だっけ、と頁を後戻りしてめくってみる必要にしばしば見舞われた。


 内容は大雑把に言えば、記憶をなくしてしまった男が、自分はいったい誰なのかを探る物語だ。自分と何かつながりがあったらしい人をぽつりぽつりと尋ね歩き、古い写真を手に入れる。そこに写っている人物をこれは自分だろうと推測していたのに、他人であることが判明したりする。昔の話を聞きだして、その断片から、覚えのない名前の人物が自分であるとの確証にぶつかったりもする。記憶をなくす前も、なくした後も、さまざまな名前を使って生きてきたらしく、自分の名前を知るまでにもかなりの時間がかかる。しかもその名前にさえどこか確信をもてない気分をひきずっている。そうこうしながら、自分がどうやらパリにある南米のどこかの国の大使館で働いていたらしい感じがよみがえってくる。フランス人の恋人がいて、彼女は服の仕立てをやっていたらしい。戦争中にフランスで拘束されるのを恐れてスイスへと国境越えをしようとしたが、大金を払って雇った案内人にだまされて雪の中に放置された。しかしそれと記憶喪失がつながっているのかどうかは、はっきりしない。国境を目前にした雪山で、安全のためにと二手に分けられた恋人のゆくえも、杳として知れぬままだ。人の輪郭というのは、じつはこれくらい曖昧なものかもしれないという不安にじわじわと浸されていく。


 この小説に惹かれる理由のひとつは、じつは私の母のことだ。母は82歳まで生きた。ところが私は、母のことをろくに知らないことにだいぶ前から気づいている。私たちは女4人男1人の5人きょうだいで、私はその真ん中だ。子供が複数いると、母親であっても当然ながら気の合う子供とそうでない子供というのができる。私は母親とはあまり親密な話はしなかった。母とどんなつきあい方をしたかが、子供それぞれで違っているのだ。私は母に干渉されることも少なかったかわりに、穏やかなよもやま話など交わしたこともなかった。何をするでもない時間を共に過ごすというようなことがあまりなかった。


 よもやま話や、日々の雑事にまつわる相手をしていたのは、どうやら上の姉だ。母は上京するときなどは上の姉に連絡をして、食事や買い物を一緒にしていたらしい。私は仕事で忙しかったから、そしてたぶんかなり突樫貪なところがあるせいで、母は上京の連絡さえよこさなかった。母と姉は贅沢さや裕福さが似ていたから、買う服や昼食に何を食べるかなどあれこれ言いながら楽しい時を過ごしたのだろう。そうした合間に、母は思い出話や日々の生活のさまざまを口にしたはずだ。母から聞いた話を、いまのうちに上の姉から聞いておけばいいのだろうが、それがそうもいかない。上の姉とは、もう20年近く会っていないし、むろん口もきいていない。会いたいとも思わない。べつに何のきっかけがあったわけでもないのだが。


 母とは、いったい誰なのか。そう考えるとき、私は初っ端から立ちすくんでしまう。母は1912年、台湾の屏東県橋仔頭で生まれた。当時の言い方だと、へいとうけん、きょうしとう、だ。ここを探し当てるのにも、長い時間を要した。1949年、中国大陸からやってきて台湾を統治するようになった国民党政府は、それまで使われていた台湾語の地名を嫌って、橋仔頭を橋頭に変えてしまったのだそうだ。


 鉄道の駅で、橋頭というのがそれだと教えられて、ある日橋頭駅に降り立った。歩いて10分ほどのところに、以前の製糖会社の敷地をそのまま使っている広い公園があった。幸い古い建物や全体の構造はかなり残されていて、社屋であった風情のある西洋風建築もあれば、幹部社員用であった大きい和風住宅もあった。防空壕も数か所にあった。空高く枝を伸ばした南国の大木が、溢れんばかりの緑や花々を振り撒いている。それらを仰ぎ見ながら、あの母がここで生まれて幼少期を過ごしたのか、と信じられないような気分だった。私の記憶に残る母は、信州の厳しい寒さに耐え、キリリと口を結んで立ち働く人だったからだ。


 そしていつのことだったか、仕事の関連でチェコ文学の翻訳を何冊も出されていた栗栖継さんにお会いした。たしか最初は、私が日本に紹介しはじめていた台湾映画の試写会に、友人に勧められたとかでいらしたのだと思う。映画をめぐってあれこれ話しているうちに、栗栖さんが母の娘時代のお知り合いだと知った。母が女学校時代にエスペラント語を学んだことは聞いていたが、その後神戸のグループに入って勉強を続けていて、その中心人物の一人が栗栖さんだったという。グループでは定期的に勉強会が開かれ、会場には会員の自宅が回り持ちであてられた。当時栗栖さんご夫妻は6畳一間のアパート住まいで、母もそこでの勉強会に参加していた。母の自宅が会場になったときは、まあそれはお城のような家でしたよ、というのが栗栖夫人の言葉だった。驚いたのは、お手洗いでもどこでも蛇口をひねればお湯が出たんです、と。


 私は中学生の夏休みに、そこに住んでいた祖母を訪ねたことがある。空襲で焼けたという屋敷跡は、うっそうたる森になっていた。その一角に、急場しのぎに建てた小さいバラックに、祖母はそのまま暮らしていた。森を通り抜けた裏側の一角には、野菜畑と鶏小屋があった。祖母はそこで白髪に帽子をのせて汗水たらして働き、夕方には洒落たプリント柄のワンピースに着替えて商店街に買い物に行く。祖母の手をしっかり握って人混みのなかを歩くのが、私には寂しいような楽しいような胸がぞわぞわとする出来事だった。


 母は小学校時代は台湾の高雄で過ごしたという。そのときは父方の祖父が同居していて、母は夕暮れ時など、庭に置いた床几に腰かけ、祖父からチェスを教わったという。なぜ囲碁や将棋でなくチェスなのかは、訊きそびれたのでわからない。母が小学校へ通う道には、毎日のように生蕃が数人、上半身裸で槍をもってたむろしていた。不思議なことに、怖いとも何とも思わずそばを通り抜けていた、と母は言っていた。


 私は台南で生まれたが、1歳そこそこで日本に来て寒さの厳しい信州で育った。ふらりと旅に出るときにはなぜかいつも北へと向かっていたものだ。それなのに、さまざまないきさつがあったすえに台湾にかかわる仕事を得た。台南に行くと、ここが生まれ故郷だと得心できるなにかがある。だから1年に少なくとも1回は訪れ、それはいわば心の平衡を保つのに必要なことだった。それがいま、コロナウィルスの流行のために自由に旅ができないのがなんとも辛い。


 母はいったいどうだったのか。母は晩年、エスペラント仲間を訪ねてしきりに旅をした。東欧へ行くことが多かったように思うが、母は何を探していたのか。母は彼の地でどんなことを語り合っていたのか。この歳になると健康診断書を出さないと航空券も売ってくれない、と母がぼやくのを聞いたことがある。ああまでして旅に出たのはいったいなぜだったのだろう。