『暗いブティック通り』    私とは、いったい誰なのか?


 パトリック・モディアノ著『暗いブティック通り』のことを、最近しきりに考えていた。この本を私は、自分の本棚のお気に入りコーナーに入れていた。10年ほど前にこのコーナーをつくり、老人になって終日家にいるようにでもなったら気の向くままに手に取って楽しもうと、それにふさわしい本を集めているのだ。私はもともと、本だけでなく音楽や映画もしつこく何回も見たり聞いたりする癖がある。内容を知りつくした作品に触れるというのは至福の時だ。覚えのある感情や空想がまた湧き上がり、それに身をゆだねる。そのくせそれらはいままでとは微妙に違う色合いを帯びていたりで、それがなぜなのかと考えるのもまた楽しい。


 さて『暗いブティック通り』だが、今回また読もうと思いついてはみたが、かつて読みながら好奇心をつぎつぎ呼び起こされた感覚はよみがえるのに、あらすじや登場人物についてはほとんど忘れてしまっている、という珍しい経験をした。しかもこの本が、なぜか私のお気に入りコーナーから消えていて探しても探してもみつからない、という稀な出来事に見舞われた。自分の記憶力に漠然たる不安を覚えているさなかに、たまに行く隣町・東御市の図書館の書棚で、偶然にもこの本を目にした。人が少なくひっそりと静かで、窓からは小さな街並みと遠くの美しい山々が見渡せる、私の大好きな図書館だ。一瞬、あれ、私の本がこんなところに紛れ込んでいる、と思ったりしたが、とにかく喜んで借りてきた。


 読み始めてみたら、これもまた珍しい経験だが、まるで初めて読むような感覚だった。こうなると、悔しいことだが記憶力の衰えを認めざるを得ないのかもしれない。その証拠に、前回は話の展開をわくわくと追いつつ一気に読み切ったはずだが、今回は作中に時間も場所もばらばらに錯綜して出てくる登場人物を、あれ、これは誰だっけ、と頁を後戻りしてめくってみる必要にしばしば見舞われた。


 内容は大雑把に言えば、記憶をなくしてしまった男が、自分はいったい誰なのかを探る物語だ。自分と何かつながりがあったらしい人をぽつりぽつりと尋ね歩き、古い写真を手に入れる。そこに写っている人物をこれは自分だろうと推測していたのに、他人であることが判明したりする。昔の話を聞きだして、その断片から、覚えのない名前の人物が自分であるとの確証にぶつかったりもする。記憶をなくす前も、なくした後も、さまざまな名前を使って生きてきたらしく、自分の名前を知るまでにもかなりの時間がかかる。しかもその名前にさえどこか確信をもてない気分をひきずっている。そうこうしながら、自分がどうやらパリにある南米のどこかの国の大使館で働いていたらしい感じがよみがえってくる。フランス人の恋人がいて、彼女は服の仕立てをやっていたらしい。戦争中にフランスで拘束されるのを恐れてスイスへと国境越えをしようとしたが、大金を払って雇った案内人にだまされて雪の中に放置された。しかしそれと記憶喪失がつながっているのかどうかは、はっきりしない。国境を目前にした雪山で、安全のためにと二手に分けられた恋人のゆくえも、杳として知れぬままだ。人の輪郭というのは、じつはこれくらい曖昧なものかもしれないという不安にじわじわと浸されていく。


 この小説に惹かれる理由のひとつは、じつは私の母のことだ。母は82歳まで生きた。ところが私は、母のことをろくに知らないことにだいぶ前から気づいている。私たちは女4人男1人の5人きょうだいで、私はその真ん中だ。子供が複数いると、母親であっても当然ながら気の合う子供とそうでない子供というのができる。私は母親とはあまり親密な話はしなかった。母とどんなつきあい方をしたかが、子供それぞれで違っているのだ。私は母に干渉されることも少なかったかわりに、穏やかなよもやま話など交わしたこともなかった。何をするでもない時間を共に過ごすというようなことがあまりなかった。


 よもやま話や、日々の雑事にまつわる相手をしていたのは、どうやら上の姉だ。母は上京するときなどは上の姉に連絡をして、食事や買い物を一緒にしていたらしい。私は仕事で忙しかったから、そしてたぶんかなり突樫貪なところがあるせいで、母は上京の連絡さえよこさなかった。母と姉は贅沢さや裕福さが似ていたから、買う服や昼食に何を食べるかなどあれこれ言いながら楽しい時を過ごしたのだろう。そうした合間に、母は思い出話や日々の生活のさまざまを口にしたはずだ。母から聞いた話を、いまのうちに上の姉から聞いておけばいいのだろうが、それがそうもいかない。上の姉とは、もう20年近く会っていないし、むろん口もきいていない。会いたいとも思わない。べつに何のきっかけがあったわけでもないのだが。


 母とは、いったい誰なのか。そう考えるとき、私は初っ端から立ちすくんでしまう。母は1912年、台湾の屏東県橋仔頭で生まれた。当時の言い方だと、へいとうけん、きょうしとう、だ。ここを探し当てるのにも、長い時間を要した。1949年、中国大陸からやってきて台湾を統治するようになった国民党政府は、それまで使われていた台湾語の地名を嫌って、橋仔頭を橋頭に変えてしまったのだそうだ。


 鉄道の駅で、橋頭というのがそれだと教えられて、ある日橋頭駅に降り立った。歩いて10分ほどのところに、以前の製糖会社の敷地をそのまま使っている広い公園があった。幸い古い建物や全体の構造はかなり残されていて、社屋であった風情のある西洋風建築もあれば、幹部社員用であった大きい和風住宅もあった。防空壕も数か所にあった。空高く枝を伸ばした南国の大木が、溢れんばかりの緑や花々を振り撒いている。それらを仰ぎ見ながら、あの母がここで生まれて幼少期を過ごしたのか、と信じられないような気分だった。私の記憶に残る母は、信州の厳しい寒さに耐え、キリリと口を結んで立ち働く人だったからだ。


 そしていつのことだったか、仕事の関連でチェコ文学の翻訳を何冊も出されていた栗栖継さんにお会いした。たしか最初は、私が日本に紹介しはじめていた台湾映画の試写会に、友人に勧められたとかでいらしたのだと思う。映画をめぐってあれこれ話しているうちに、栗栖さんが母の娘時代のお知り合いだと知った。母が女学校時代にエスペラント語を学んだことは聞いていたが、その後神戸のグループに入って勉強を続けていて、その中心人物の一人が栗栖さんだったという。グループでは定期的に勉強会が開かれ、会場には会員の自宅が回り持ちであてられた。当時栗栖さんご夫妻は6畳一間のアパート住まいで、母もそこでの勉強会に参加していた。母の自宅が会場になったときは、まあそれはお城のような家でしたよ、というのが栗栖夫人の言葉だった。驚いたのは、お手洗いでもどこでも蛇口をひねればお湯が出たんです、と。


 私は中学生の夏休みに、そこに住んでいた祖母を訪ねたことがある。空襲で焼けたという屋敷跡は、うっそうたる森になっていた。その一角に、急場しのぎに建てた小さいバラックに、祖母はそのまま暮らしていた。森を通り抜けた裏側の一角には、野菜畑と鶏小屋があった。祖母はそこで白髪に帽子をのせて汗水たらして働き、夕方には洒落たプリント柄のワンピースに着替えて商店街に買い物に行く。祖母の手をしっかり握って人混みのなかを歩くのが、私には寂しいような楽しいような胸がぞわぞわとする出来事だった。


 母は小学校時代は台湾の高雄で過ごしたという。そのときは父方の祖父が同居していて、母は夕暮れ時など、庭に置いた床几に腰かけ、祖父からチェスを教わったという。なぜ囲碁や将棋でなくチェスなのかは、訊きそびれたのでわからない。母が小学校へ通う道には、毎日のように生蕃が数人、上半身裸で槍をもってたむろしていた。不思議なことに、怖いとも何とも思わずそばを通り抜けていた、と母は言っていた。


 私は台南で生まれたが、1歳そこそこで日本に来て寒さの厳しい信州で育った。ふらりと旅に出るときにはなぜかいつも北へと向かっていたものだ。それなのに、さまざまないきさつがあったすえに台湾にかかわる仕事を得た。台南に行くと、ここが生まれ故郷だと得心できるなにかがある。だから1年に少なくとも1回は訪れ、それはいわば心の平衡を保つのに必要なことだった。それがいま、コロナウィルスの流行のために自由に旅ができないのがなんとも辛い。


 母はいったいどうだったのか。母は晩年、エスペラント仲間を訪ねてしきりに旅をした。東欧へ行くことが多かったように思うが、母は何を探していたのか。母は彼の地でどんなことを語り合っていたのか。この歳になると健康診断書を出さないと航空券も売ってくれない、と母がぼやくのを聞いたことがある。ああまでして旅に出たのはいったいなぜだったのだろう。