映画『馬三家からの手紙』への疑問   ドキュメンタリー制作者の矜持とは?

 

『馬三家からの手紙』というドキュメンタリー映画がある。
 馬三家というのは、中国の馬三家労働教養所のことだ。思想犯が捕らわれて過酷な拷問を受けつつ取り調べられ、強制労働に従事している。映画の監督およびプロデュースはカナダ在住のレオン・リー、2018年の作品だ。監督は中国の人権問題に取り組んでいて、中国の違法臓器売買を描いた『人狩り』(2014年)は、世界に衝撃を与えた。

 

 今回の『馬三家からの手紙』は、中国での法輪功に対する弾圧が取り上げられている。法輪功は気功の修練法だが、1992年に李洪志によって始められるや学習者が急増した。1999年、それに脅威を感じた江沢民政府は法輪功邪教とみなして活動を禁止。激しい弾圧をくわえるようになった。

 

 私は偶然にも2000年夏にニューヨークで法輪功に出会っている。所用でしばらく滞在した折に朝の公園で気功のグループにくわわるのを楽しみにしていた。公園はチャイナタウンに近かったので、太極拳や社交ダンスをやる人、自慢の鳥かごを持ち寄る人など、まるで北京あたりの公園と見まがう光景だった。そのなかでひときわ静かにゆったりと体を動かしているのが、この気功グループだった。あの時私は、胡坐座で気功をやる独特の姿勢から、あれが法輪功であることに気づいていたと思う。それに東京・池袋の中国人ばかりが集まる食堂などで入手できた中国語新聞で、法輪功が厳しい取り締まりの対象になっていることも知っていた。だがなんといってもあそこは中国から遥かに遠いニューヨークだ。私はむしろ自分の体調を整えることに懸命で、ひたすら気の流れに集中して体を動かしていた。周囲の中国人たちもそろって寡黙で物静かな感じで、小声で挨拶を交わしただけだった気がする。

 

『馬三家からの手紙』の主人公・孫毅(ソン・イ)も、外見や物腰から穏やかで静かな人柄が伝わってくる。彼はある日法輪功に出会い、熱心な学習者となったという。自分の内面に向き合い、体を鍛錬して精神を高めていったのだろう。彼の妻も映画の中で、孫毅は法輪功に出会って以来、驚くほど無欲になり、困っている人に迷わず手を差し伸べるようになったと語っている。

 

 映画制作の発端は、孫毅が馬三家に捕らわれていたさいに、所内の工場で作らされていたハロウィーンの飾り物の箱に、ひそかに忍び込ませた手紙だった。ひどい拷問の実態をなんとか世界に訴えたいと命の危険を冒して英文の手紙を何通か書き、その手紙を人権団体に渡してくれと書き添えた。そのなかの1通が、アメリカ・オレゴン州の小さい町に住む女性ジュリー・キースのよって発見された。彼女の手で、その手紙はなんとか人権団体に届けられ、国際的なニュースとなった。

 

 レオン・リー監督はこのニュースを見て行動を起こした。それまでに培ったルートを使い、ついに手紙の主である孫毅に連絡をつけた。孫毅は、このときは馬三家から釈放されて北京で技術者として職に就いていた。レオン・リー自身は、その活動歴からして中国に入国するのは不可能だ。それで彼はオンラインで撮影の仕方を教え、孫毅らに中国内での撮影を依頼した。もともと法輪功に対する弾圧を世界に知らしめたいと願っていた孫毅は、危険をも顧みず撮影を敢行し、データを暗号化してレオン・リーへと送った。孫毅は万事に控えめな態度からすると驚くほど多才な人だ。撮影がかなわぬ拷問の場面は、実体験者である孫毅が自ら描いた迫力あるイラストで表現されている。

 

 中国政府の監視は厳しい。それでも孫毅らは法輪功を広めるためのチラシをつくり、配布を続ける。法輪功の集まりも危険を冒して続けられる。孫毅の妻は、結婚してからも安らかな落ち着いた日々はほとんどなかったことを嘆く。孫毅もそれを残念にも申し訳なくも思いつつ、どうしようもない。だが孫毅の身に、ひしひしと危険が迫ってきた。夫婦は国外に逃亡しようとするが、ぎりぎりのところで妻は病身の父親のために逃亡を取りやめ、孫毅だけが危うくインドネシアへと逃れる。

 

 インドネシアで身を潜めて難民申請の受理を待つ孫毅に、連絡がくる。彼が命がけで助けを求めて出した手紙をみつけて、人権団体へとつなぎ、馬三家での法輪功学習者らへの人権抑圧を公にするきっかけをつくったオレゴン州の主婦ジュリーが孫毅を訪ねてくるというのだ。

 

 ジュリーはほとんど地元を離れたこともない旅慣れない女性だ。大げさに家族に見送られ、まったく知らないインドネシアの地へと旅立つ。だがそれが彼女自身の意志によるものかどうかは、映画では語られない。そこにはたぶん映画制作側からの示唆があったのではないかと思われる。つまり、孫毅の物語を作品として成立させるために孫毅とジュリが会う絵がほしいと制作者が考えたのではないだろうか。

 

 孫毅の方ではどうだっただろう。彼には中国での人権抑圧を世界中に訴えたいという強い意思はあった。だからこそ命がけで英文の手紙を書いて、ハロウィーンの飾り物の箱の中に忍ばせた。映画制作にも協力して、中国国内での危険を伴う撮影もこなした。そしてついに国外逃亡をしなければならないほど追い詰められた。それでもなお、この映画を完成させて中国の人権抑圧を少しでも食い止めたいという強い気持ちは持ち続けていただろう。

 

 だから彼はインドネシアでジュリーに会った。もちろん彼の手紙を発見して人権団体へつないでくれたジュリーにお礼も言いたかったはずだ。だが裏路地の隠れ家にひっそりと身を潜めていた孫毅が、外国人だけしか泊まらないホテルなどまで出かけてジュリーに会う場面は、見ているだけでもハラハラする。ああいう場所は、中国当局の監視も当然厳しいはずだ。なぜ孫毅にあんなに目立つ行動をさせるのか、と。しかもジュリーだけでも充分人目を引くのに、二人の対面の場面は撮影までされているのだ。撮影スタッフまでいたとなると、周囲に気づかれずにすますことは不可能だろう。

 

 孫毅はジュリーにも相変わらず穏やかに接して、礼を述べたがいの家族のことなど語り合う。ジュリーは1泊か2泊しただけで安全な米国へと戻っていった。だが、孫毅はそのすぐあと中国の公安当局からの接触を受け、原因不明の死を遂げてしまった。

 

 当作品制作関係の資料をあたっても、いまのところなぜジュリーをインドネシアまで行かせたのか、それが誰の意図だったのかは分からない。この件に関する監督のコメントも見当たらない。だが私はどうしても問わずにはいられない。ジュリーと会ったせいで、孫毅は中国公安当局に目を付けられ、消されたのではないか、と。こんなに危険なことは映画制作者としてすべきではなかったのではないか、もしジュリーが自分でインドネシア行きを望んだとしても止めるべきではなかったか、と。

 

 同時期に、同じ映画館・上田映劇で、中国のドキュメンタリー「死霊魂」が上映された。王兵ワン・ビン)監督の作品で、中国の反右派闘争で投獄され、危うく餓死を免れて生き延びた人々を追ったものだ。こちらは8時間40分にも及ぶ超大作だが、登場人物の語りを辛抱強く引き出し、彼らを真の主人公に据えた見事な作品だ。王兵監督は、デビュー作「鉄西区」から一貫して、まったく観客に媚びることのないドキュメンタリーを世に送り出している。

 

 制作者が、ドキュメンタリー作品の取材源でもある登場人物にどうかかわるか。深く考えさせられた二作だった。