ペンギンの憂鬱   新型コロナウィルスの日々

 


 新型コロナウィルスのことを考えるのは、もううんざりだ。しばらく考えないでいたい。ウィルス感染の拡大よりももっと腹立たしいのが、政府の対応だ。政府は場当たり的な政策を打ち出すだけで、決定までのプロセスや責任の所在を明らかにしない。誰も政府を信用していない。政府の発表とは裏腹に医療体制は逼迫していて、近い将来に重症患者の受け入れさえ困難な事態が起きそうな気がする。


 ここ小諸市では、7月下旬の数日間に相次いで2人のコロナ感染者が出た。1人は銀行員、1人は市職員で市役所ではなくどこかの現場勤務だという。銀行員の感染が報じられた翌日ごろ、銀行正面の大きなガラスにコンクリートの塊のようなものが投げ込まれて、ガラスが穴が開いた。馬鹿なことをするヤツがいるものだ。


 そんなふうに不安や不快の澱が心にたまっているなかで、『ペンギンの憂鬱』(アンドレイ・クルコフ著)を再読した。15,6年前に連れ合いのモトさんがおもしろいと言っていたので読んでみた。本当におもしろかった。今回はモトさんの書棚から黙って抜き出してきて読んだ。読みかけを居間のテーブルに置いていたら、モトさんが本を手に取って「これおもしろい?」と私に訊いた。表紙のイラストが素晴らしい印象に残る装丁なのだが、それもモトさんの記憶からは消えているようだ。「とてもおもしろいよ」と私は答えた。少し前なら「何言ってるのよ、あなたがおもしろいと勧めてくれたんじゃない」とか言っただろう。いまは言っても仕方がないと分かっているから、その言葉を呑み込んでしまう。寂しいことだ。実はこれこそがペンギンならぬ私の最大の憂鬱のタネなのだが。


 話の舞台はウクライナの首都キエフ。売れない作家ヴィクトルは、動物園が餌代がなくて飼えないから欲しい人に譲るというので、ペンギンのミーシャをもらってきて一緒に暮らし始める。その1週間前にガールフレンドに出て行かれたばかりだった。ミーシャはヴィクトルが買ってくる冷凍の魚を食べて、ソファの後ろで立ったまま眠る。ペタペタと音を立てて屋内を歩き回り、風呂で水を浴びるのを喜んだりしている。


 不遇のヴィクトルに新聞社から妙な仕事が舞い込んだ。まだ生きている人の追悼文を書くというものだ。それはそれで楽しくもあり、文才を活かすこともでき、なによりも定収につながる。書き上げた原稿を編集長に渡して褒められたりしている日々のなかで、ヴィクトルは小説の執筆にとりかかる意欲もなくしそうな気配だ。


 この仕事を通じて友人もできる。取材で留守にする間ミーシャの餌やりをしてくれた警官と親しくなり、いろいろ助けられるのだが、警官はモスクワに出稼ぎに行き死んでしまう。ペンギンと同じ名前のミーシャという男が、友人の追悼文を書いてくれと頼みに来るのだが、彼も幼い娘ソーニャと大金の養育費をヴィクトルのもとに残したまま、誰かに殺される。新聞社の資料を読んで訪ねて行ったペンギン学者には、ペンギンのミーシャはもともと心臓に欠陥があり憂鬱症だと知らされる。そのうえ学者の死後の書類の後始末を頼まれた。彼は病死だったが、ヴィクトルは言われたままに彼の家に火を放つ。


 一方では妙なことが起きている。追悼文を書いた人たちが、死んでいくのだ。誰かが死ぬ日を決めているようだが、それが誰かはよくわからない。ヴィクトル自身にも、彼に仕事を依頼している編集長にも、仕組まれた死が忍び寄ってくる気配がする。ヴィクトルはペンギンではないミーシャの娘ソーニャを育て、友人の警官の姪でソーニャの世話を頼んだニーナと親密になり、一緒に暮らし始める。形だけは幸せそうな家族のようだ。


 ペンギンのミーシャにも、妙なことが起こり始める。ヴィクトルが書いた追悼文が新聞に載ると、それは大物の葬式が執り行われることを意味するのだが、そこへ破格のギャラつきでミーシャが招待されるようになるのだ。彼らの死の日取りを誰かが決めているらしいが、それもしかとはわからない。ところがミーシャは体調を崩してしまう。病院に入れると、人間の子供の心臓を生体移植するしか助ける道はないと言われる。その手術に必要な手続きや心臓の入手は、大物の葬式を取り仕切っている男が引き受けてくれ、なぜかうまくコトが運んでいく。


 ヴィクトルは、ミーシャを生まれ故郷の南極へ帰すことに決める。そしてニーナにソーニャを託す旨のメモを残して姿を消そうとする。
 理不尽なことが次々に起こり、ざわざわとした不安に駆られるヴィクトル。しかしニーナはどうやらそういう不安とは、一緒に暮らしていながらも無縁のようだ。この本はウクライナよりもむしろヨーロッパでベストセラーだったという。政治体制とは関係なく近代社会で人々が感じる不安が、共感を呼んだ理由だろう。


 昨日2020年7月30日夕方、小諸市では最近の2例に次いで3人目の新型コロナウィルス感染者を発表した。私がいつものように近くの城址公園・懐古園でジョギングをしていると、緊急事態を告げる放送が流された。実は、この放送はふだんからきちんと聞き取れることはほとんどない。まわりを山で囲まれている地形ため、音がこだましてわんわんと言葉が重なってしまうのだ。

 

 放送が聞こえないというのは、ほとんどの人が言っているし、私自身もこの市に引っ越してきた11年前から、何回も市役所にその旨伝えている。だが一向に改善されるようすはない。電話をするたびに市役所職員は「はい、わかりました。担当者に伝えておきます。よろしければご住所とお名前を教えてください」と判で押したような言葉を繰り返すだけだ。ほんとうに洪水や強風などで避難が必要になったら、どうやって連絡をするのだろう。連絡手段がないことが心配で、眠れなくなったりする担当者や市長はいないのだろうか。私たちが住むこの社会だって、相当おかしい。


 ともあれ、昨日夕方は風が穏やかだったせいか、公園内で足を止めて耳を澄ますと、いくらかは聞き取れた。つまり新たなコロナ感染者がみつかったことだけは理解できた。その後、懐古園の管理事務所が園内の施設に配った通知などを見せてもらって分かったのは、次のようなことだ。


 3人目の感染は、先日感染が確認された市職員の母親である70代の女性だ。PCR検査で陽性が判明した。彼女は理容室で働いていたので、感染リスクのある期間に理容室に行った客など濃厚接触者は110人にのぼる、ということだ。市当局は、該当者に保健所に連絡するよう呼び掛けている。だが、全国あちこちで保健所に電話するにしても何十回もかけなければつながらない、というのはほとんどの人が知っていて、これまた全く改善の兆しも見えない。数日間に理容室に行った客の数があまりにも多いので、この理容室をネットでチェックしてみたら、カットが880円という破格に安い店だった。感染リスクも、こうして安い店を利用する人に偏るのだろうか。

 

 そしてさらに今日、女性の濃厚接触者の一人である理容室の経営者、70代男性の陽性が判明した。さて感染はどこまで広がるのか。こういう憂鬱な時期に「ペンギンの憂鬱」など読んだのは、まずかったかもしれない。そこはかとない、ざわざわとした不安が、あまりにもいまの私が感じているものと似通っている。それでも長かった梅雨はやっと開けるらしい。今日は窓の外には真っ青な空と、一気に夏の色になった山の緑が広がっている。