新型コロナウィルス  3、小諸スミレ

 


 2020年4月27日、世界の新型コロナウィルス感染者は300万人に達したとニュースは伝えている。
 2月の終わりごろ、私が通っているヨガ教室で今後教室を続けられるかどうか、という話し合いがあった。そのころ長野県では松本保健所管内で1名の感染者が出た、というような状況だったと思う。遠いところの出来事だから話し合いの雰囲気もなごやかで、この町でも感染者が出たらお休みにしようか、いや隣町に出たら休もう、などと思い思いに意見を言い合った。

 

 ところが-2月28日に安倍首相がいきなり全国一斉に小中高校と特別支援学校を休校にすると言い出した。確か金曜日に発表があり、翌週の月曜日から休校というような乱暴なやり方だった。2週間ほど休校にすればそのまま春休みになるから1カ月余りの休みが続くということになった。安倍首相は休校を決めるにあたって専門家の意見は聞かなかった、私が決めたから私が責任を取ります、というようなことを言った。馬鹿なことを言うものだ、とことんいろんな人の意見を聞いてみたらいいではないか、こんな大きな政策を打って責任を取るなどできるはずがない、と思った。学校現場からは賛成も反対もほとんど声が上がらなかった。学年末にいきなり授業を打ち切られ、まだ教えなければならないことが残っている、という教師がなぜいないのだろうと、不思議だった。

 

 3月に入って、第一回目のヨガ教室はもう雰囲気ががらりと変わっていた。出席者は少なく、月の最初だから月謝を払いに来たがすぐ帰るつもりだ、という人もいた。老人施設で介護職についている人は、職場と自宅以外の場所には行くなと言われているから、もうヨガ教室にもしばらくは来ないつもりだ、と言った。私はヨガ教室を休みにするのには反対だった。何も東京に合わせることはない、ここには感染者はいないのだから様子を見ながらもう少し続けよう。この状態はたぶん長く続くから、いまから休んだりしたら自分たちの身が保たない。そんな発言をしたが、ほとんど聞き入れてくれる人はいなかった。学校が休校になったこと、それを受けて市が、市の施設を使っている民間団体にも休むよう促しているということで、皆浮足立ってしまったように見えた。

 

 4月7日、感染が広がっているので、安倍首相は感染者が多い7都府県に緊急事態宣言を出した。人々の接触を最大7割極力8割減らせば、感染は終息に向かうと、馬鹿の一つ覚えのように、同じことばかり繰り返す。5月6日までと期限を区切り、いろんな職種に休業を要請し、勤め人にはテレワークを勧め、と場当たり的な具体性に欠ける対策に見えた。

 

 4月16日には、緊急事態宣言は全国に広げられた。7都府県に緊急事態宣言が出されると、そこから他の地域へと遊びに行く人などが増え始めた。我が家の近所の懐古園でも、ちょうど桜が見ごろを迎えるとあって、遠方からの車が増えていた。市当局は市の施設は休業にしたが懐古園への入場は制限しなかった。だから受付と園内の神社社務所の女性たちだけが働いていて、遠方から来た人がリラックスした様子でマスクもせず大勢で来るのが怖いと言い出していた。そんな時期に政府は、ゴールデンウィークを控えて大都市圏から地方への人の流れを止めようとのことで、全国に緊急事態宣言を発したわけだ。

 

 人との接触を8割減らせと言われても、私はもともと人とはあまり会わない。それでも、電車に乗って友人に会いに行ったり、映画を見に行ったりができなくなっただけでも、気分はがくっと落ち込んだ。ヨガやフィットネスの教室が休んでいるのは、体にはもちろん気分にもこたえる。それで3月初めから実行しているのが、毎日1時間ほどのヨガと5000歩以上のウォーキングまたはインタバル速歩だ。ほかにも太陽を浴びて体を動かすことも心掛けている。おかげで今年は庭がだいぶきれいになった。最近ではこれにくわえて、30分ほどの気功も取り入れた。ラジオ体操などもやってみたが、気功や八段錦の方が私には合っているようだ。

 

 というわけで、近ごろは夕方4時に家を出て、好きなコースを歩く。懐古園へは入れないが、どの道を通っても人にはほとんど出会わない。だから勝手気ままに景色や花を楽しみつつ歩いたり走ったりする。コースの最後の方で駅に立ち寄ることも多い。駅だとさすがに数人の人を見かける。それに待合室に無人の野菜売り場があるのだって、自家製野菜が並べられている。ここは寒いから野菜はまだまだ品薄だが、山菜類やサニーレタス、ホウレンソウなどをちょこっと買うのは楽しみだ。

 

 昨日のこと、駅に向かって歩いていると、年配の小柄な女性がかがみこんでは何かを拾っているようすだ。摘み草にしてはヘンだ。いくらなんでも駅周辺は人や車が多いのだから。そう思って近づきながら見てみると、彼女は小さいスミレの花の周りの雑草をむしっているのだった。この町には在来種で小諸スミレというのがある。花の色は濃い紫で、葉は細長い円形。全体に小ぶりな愛らしい花なのだが、なぜか舗道の敷石の隙間とか、砂利道の石の間というような条件の悪そうなところによく咲く。

 

「スミレはどうしても草に負けちゃうから、せっかく咲いているものを絶やしたくなくてね」と言いながら、彼女は休みなく手を動かしていた。

小海線で妹のところへ行った帰りなものだから、鎌も何も持っていないけれどちょっとだけでも草を取っておこうと思ってね」と言う彼女のわきには、なるほど大きめの買い物袋が二つ置かれている。

 

 このあたりの人は、こんなふうにとても花を大事にする。花や野菜を身近で育てて知らぬ間にじっくりと観察し、すると愛情もわくのだろう。自分の庭でなくても、ふと手を出して花をいたわる姿をたびたび目にする。いま心を慰めてくれるのはこんな風景かもしれない。新型コロナウィルスの流行が広がり、命の危険を感じる日々。じっと自然に寄り添って、この嵐の過ぎるのを待つしかない。