村の時間 町の時間

 

 

 

『田んぼ(PAYO)』という芝居を見に行ってきた。
 演じる人たちに興味がわいたからだ。彼らは、フィリピン・ルソン島の北部山岳地帯に住む少数民族イフガオ族の若者たち。そのあたりにはさまざまな少数民族が暮らしていて、世界文化遺産・世界農業遺産などに認定された見事な棚田群があり、稲作が行われているのだという。タイトルからしてこの作品がその棚田をあつかったものであろうことは推測がつく。


 しかもそれが、信州上田市の商店街にある小劇場「犀の角」で上演されるのだ。上田も日本中にある他の中小都市同様に、旧市街区には閉店した商店が目立つ。人口減少や過剰な東京一極集中が地方都市を疲弊させている。その閉店された商店のひとつを改装して誕生したのが「犀の角」なのだが、小都市で暮らす人々が小劇場をもつというのも奇跡に近いすばらしいうえに、ここで地域の劇団がさかんに活動をしているのもすごい。住民に密着したわくわくするような文化活動の拠点になりつつあるようだ。それに信州のこの辺りは、昔に比べれば農業人口は急速に減少しているとはいえ、人々の生活の中に野菜作りなどのちょっとした農作業はしっかりと根づいている。そういう地域で、遠く離れたルソン島の農業の話が語られるのは、やはりいまの時代ならではの妙とでもいうべき出来事だ。


 舞台に登場したのは、いかにも少数民族ふうの、たぶん祭祀などで使われる色鮮やかな衣装を身につけた男女だ。言葉をしゃべらなければ、日本人と思ってしまうかもしれない体つき顔つきをしている。劇のあらすじとしては、ルソン島の山奥の農村に棚田の見学に来たらしい日本人のおばさん二人が、現地のガイドに案内されてあちこちを見物し、農業の実情があれこれ寸描で語られていく、というようなものだ。見事な棚田の風景などが背後のスクリーンに映写されて、想像をふくらませてくれる。ある農家では実家の田植えを手伝いに来た娘や息子が、あまりの重労働に不平を言ったり、手順をやかましく教える親といさかいをしたり、かと思うと楽し気に野良で昼食を食べたりしている。あるいは天気占いなどをする人が、迷信だとバカにされたり、占いを信じたばかりに収穫がうまくいかなかったと苦情を言われたりしている。機械化や都市化の影響、あるいはグローバリズムの波がこの棚田の地域にも容赦なく押し寄せ、若者は苦労が多く収益の少ない農業をきらって都会へ出て行ってしまうことなども語られる。芝居の最後は「変化を迫られる農業の現状を皆さんはどう思いますか」という問いかけで結ばれていた。


 この芝居のもうひとつの特徴は、環境NGOの活動のなかで作られたということだ。2001年に現地に環境NGOが設立され、日本やアジアの若者がつどって環境保護活動を進めつつ、棚田の耕作で培われた伝統的な技術や文化のすばらしさを当事者の農民たちに説いたという。そしてアートを取り入れた教育活動をするなかで、演劇というかたちで現状をみつめなおそうとしたのが、この『田んぼ』という作品に結実したということだ。


 しかしながら演じる人たちは学校の教師や社会活動を行っている人たちで、実家が農家でも農業を継いだ人はいないようだった。なるほど上半身があらわになる民族衣装で登場した彼らの贅肉のついた体つきを見れば、それは一目瞭然だ。このあたりでも農作業に携わる人はやはり日々の肉体労働で引き締まった体つきをしている。その意味では、NGOとともにいくら頑張っても時代の大勢にはなかなかあらがえないことを、演じている人たちが体現していることになる。


 そして、俳優だけでなく演劇制作にかかわった日本人スタッフたちも、やはり風情は都市生活者のそれだった。それは10年ほど前に東京での仕事を離れて信州に移り住み、見よう見まねでおぼつかない畑作業に取り組んでいる私には、よく分かる。都市生活者は口は達者だが、重要な何かが分かっていない。それが何であるかいまはまだ言えないが、自省を込めてよくそんなことを考える。思うに農業に真正面から取り組んでいる人は、なかなかそれについて語ったり、内情を外部に向かって伝えることはできない。農業というかなりの労力知力を要する仕事をしていると、そんな余力はなかなかないのかもしれない。それに農業に携わる人たちに流れている時間は、都市生活者の時間とはちがっていて、表現の仕方もまたちがっているのだ。


 話がずいぶんと飛んで恐縮だが、明治末期ごろの小諸の歌人の逸話を思い出した。
 明治43年の夏の終わりに、25歳の若山牧水がふらりと小諸に立ち寄った。牧水は当時すでに3冊の歌集を出版し、若人を中心とした熱烈なファンを獲得しつつあった。しかし酒好きのせいもあって貧乏から抜け出せず、病と失恋の傷心をいやすための旅の途次だった。牧水は土地の青年たちに手厚くもてなされ、青年らは楽しい時間を持った。


 その一人に、土屋残星というその後若くして亡くなった歌人がいた。彼はかつて小諸義塾で教鞭をとった島崎藤村の教え子で、日々農作業や銀行勤めに励みつつ文芸に熱い情熱を注いでいた。牧水が残星の家をふらりと訪ねたり、残星はそれを舞い上がるような心地で迎えたり、一方では野良をぶらぶらと歩く牧水と連れ立って歩きつつ、百姓仲間から注がれる視線に気恥ずかしい思いを抱いたりした。しかしその数年後、短歌雑誌の主導権をめぐって牧水が太田水穂と対立したとき、残星は考えた末に牧水とたもとを分かった。


 残星はそのころ、妻の前でこんな言葉を漏らしたという。
「牧水はたしかに歌はうまい。だがあのけんまく酒を飲んじゃあだめだ。あれじゃあ、信州の百姓はつとまらない」
 残星は夜明けとともに畑に出る生活をしながら歌を詠み続け、厳しい労働で体を壊して早世した。歌の数も知名度も牧水とはくらべものにはならないが、残星の生き方には人を惹きつけるものがある。
 もっと、都市生活者とはちがう時間の流れが世に流布するといい。町の時間で動いている世の中を、村の時間で動くように変えてみたい。同時に都市生活者とはちがう小都市や村に住む人のさまざまな嗜好や感覚ももっと広まっていくといい。