夏のあと始末

 

 


 日々、庭や畑の草刈りに追われている。と言っても、私の場合は雑草をべつに嫌っているわけではないので、切迫感はないのが救いだ。皆が毛嫌いする猫じゃらしやアカマンマの草藪も、しげしげと眺めれば可愛らしい穂が一斉に風にそよぎ、アカマンマの飾り気のない花が庭の一部分を赤く染めている。このまま残しておきたい気がして草刈り鎌を振るう手が止まってしまうのはこんなときだ。けれどそれにしても、今年は草が猛々しくはびこった。日本中が例を見ないほどの酷暑に見舞われ、涼しいはずのここ信州でも暑い日がいつまでも続いた。それでなるべく庭に出ないようにしたのが、これほど草を茂らせてしまった原因だろう。これまでもとくに庭の手入れを心掛けたことはなかったのだが、早朝や夕方の涼しい時間に何気なくぶらぶらと庭を巡り歩きながら、その都度目についた枯れ花を摘んだり伸びすぎた草を引き抜いたりしていたのが効果を発揮していたのだろう。


 ここまで繁茂した草を片づけていると、いままで気づいていなかったことを知ることになる。そのひとつは、蔓を伸ばしていく草の種類がとても多いことだ。そしてその細い茎や蔓がはるか遠くまで養分をはこび、大量の葉を茂らせてびっしりと花を咲かせ挙句は種を実らせているのも、大きな驚きだ。鎌や熊手で雑草を搔き集めると、蔓がひっかかってくる。その蔓を引っぱって手繰り寄せると、なんと30メートルもの長さのこともしばしばだ。落ち葉の下をくぐり、射干(シャガ)の茂みのを縫い、トサミズキの根のわきを抜けて、生い茂る二輪草と共存するかのように、目立たない薄黄色の小さい花をつけていたりする。蔓植物にも当然ながらそれぞれ特性があり、細かいトゲのある強靭な蔓で大木に絡みついて高く昇るものもあれば、地面を這って薄く柔らかい葉で地面を覆うものもある。それぞれが助け合って、数種類の蔓植物が寄り集まりテリトリーを拡げている場合もある。


 表の道路沿いのフェンスは人眼につきやすいから、少しきれいにしようと見回ってみた。するとなんと、何本かの蔓植物が大木の垂れ下がった枝先に絡みついて、そこから枝をさかのぼって木のてっぺんに到達しているのを発見した。モミジのような形の大きい葉が大木の表面を覆いつくしてフェンスにまでつながり、まるで緑のテントといったありさまだ。なるほどこのようにしてジャングルには動物の隠れ家などができていくのだな、などとはるか遠くへ間の抜けた空想を広げてみる。こんな多種多様な生態に出くわすと、単に生い茂った草を刈り取ると言っても、いつどのように刈るかが悩みのタネになる。たとえば、10年ほど前に都会を離れて自分の庭を持った喜びに浮かれて、フェンス沿いに朝顔のタネをまき色とりどりの花を咲かせてみた。それがいまや野生化して思わぬところで花を咲かせる。イチョウの木の高い枝に赤い朝顔がとつぜん咲く。または雑草から雑草へと蔓を伸ばして、紫、白、薄紅の朝顔があざやかな花園の様相を呈している場所もある。そのあたりに鎌を入れてうっかり蔓一本を切ってしまえば、この天然の造形の妙はたちまち消えてしまう。朝顔は秋の季語だそうだが、なるほど花の少ないいまの時期に、物寂しくもきりりと美しい姿かたちを見せてくれるのは、とてもありがたい。


 思えば植物を相手にした場合は、手を入れるときの思い切りというのが肝心なのだろう。ここに来たばかりのころは、見事な花畑や野菜畑をつくっている男が、畑のわきで私と立ち話をしながら、いまを盛りと咲き誇っているタンポポを鎌でばっさばっさと根元から切り取ってしまうのを目にして、私は危うく悲鳴をあげそうだった。こんなに輝くような美しさの花を、よくも切って捨てるなどできるものだ、と。だが私も曲がりなりにも庭や畑の手入れを数年重ねて、いまなら分かる。タンポポをはびこらせないためには、白い綿毛をつける前に切り取るのが効果的能率的なのだ。そうしなければ、ああいう美しい畑は維持できないのだ、と。だがそう知ったいまでも、私にはそれはできずにうじうじと植物を眺めているばかり、ということになる。畑仕事でもそれは同じだ。種を蒔き、芽が出たら適時に間引き、収穫を終えれば残っているものを惜しんだりせずに引き抜いて、他の作物に場所を譲る。あと始末のタイミングをつかむのも、私にはいまだにできない。


 こんなありさまだから、生い茂った草の始末はなかなかはかどらない。だがそれでもいいのだ。なぜなのかは分からないが、はたから見たら何をしているのかといぶかるほどの手際の悪い作業をしながら、それでも私は充分に楽しいのだから。けれど夏のあと始末に、わけのわからない時間が費やされているのだけは事実だ。もしかしたら、このまま自然に草が刈れてしまうのをただ待つのと同じ結果になるかもしれない。思えば人生の夏のあと始末にも、やはりなんとも言い難い無駄な時間が必要なようだ。そしてこちらには楽しみよりも苦い悔恨がつきまとうのではないか。そのうえ季節の移り変わりと違って人生の秋には、冬の訪れの時間を予測できないという難題がある。どうも始末が悪い。