景品のベンチを、お返しします

 


 およそ10年前、信州に家を建てるときに、いちばん考えたのは冬の寒さ対策だった。当時住んでいた東京郊外で、時間をみつけてはモデルハウスを見学したり、建築会社の説明を聞いたりしたのも、いまとなっては遠い思い出だ。


 埼玉あたりでも床暖房などを導入した住宅は何種類か見られた。けれど信州の寒さは格別だ、ということを私は知っていた。あるときモデルハウスを見に行って、信州に家を建てる計画だということ、だから暖房に強い関心を持っていること、などを話した。するとその建築会社の人が、信州に暖房のことを非常に熱心に研究している建築会社がある、と教えてくれた。なんでも北欧などに住宅の暖房事情を見学に行く専門家のツアーがあって、そこでその会社の社長と知り合ったのだが、その好奇心の旺盛さと熱中ぶりは周囲をあきれさせるほどだった、という。


 そこで信州に行った折に、その会社に連絡を取ってみた。説明を聞いたり、モデルハウスを見学したりし、回を重ねるうちに、その会社が推奨するFB工法で建てた社員の家や社長の家も見せて頂くことができた。社長の家は豪華なものだったからあまり参考にはしないことにしたが、若い社員までが自社の工法で年相応のつつましい家を建てているとなれば、やはりこれは快適ないい家なのだろうと好感を持った。


 家は一生のうちに何回か建ててみないと、なかなか理想の家は作れない、とはよく言ったものだ。私たちの場合は、はじめて建てる家で、しかもたぶん終の棲家になるであろう家だから、考えに考えて建てたつもりなのだが、それでもやはり後悔はいくつかある。ただしこれは、別のやり方をしたら別の後悔が生まれていたかもしれないから、それほど深刻なものとは言えない。たとえば私の場合は、あと二部屋ほしかった、という後悔がある。けれども私は部屋数が40を超すような大きな家で育ったから、たぶんどんな家に住んでももっと大きい家への願望は残るのかもしれない。ちなみにつれあいは、ごく満足していてなにも後悔はないという。


 私たちの家は、無暖房住宅という方式を選んだ。断熱性保温性が高く、電気器具や人体が発する熱もすべて暖房として生きるほどだという。構造としては、密閉した地下室に普通の住宅の8畳とか10畳の部屋で使われるような、それほど大きくないエアコンを2台設置する。それで地下室の空気を暖める。外壁は厚みが50センチ余りあって、外側は古新聞を素材にしているという断熱材が分厚く詰め込まれていて、部屋に面した壁の表面近くには通気用の空間がある。そこを地下で暖められた空気が巡るという方式だ。だから暖気はジワリと壁全体から室内へと放射されることになり、家じゅうが同じ暖かさだ。暖かいというよりむしろ、寒くないと言った方が適切かと思えるような、自然な暖かさだ。


 この暖房方式の恩恵は大きい。冬でも木の床を素足で歩いても冷たくない。服を脱いでもひやりとする感じがない。もちろん時間帯によって室内に寒暖差が生じることもない。だからこれは私の悪癖なのだが、夜中にふと気になることがあって目覚めたりすると、躊躇なくベッドから出て書斎に足をはこぶ。執筆中の原稿を読みかえしたり、あるいは昼間読んだ資料の頁をまた開いたり、などということをするわけだが、真冬の真夜中でも寒さを感じるということはまったくないから、何時間でも仕事に集中できる。まあこの点だけを考えても、この家は理想に近いと言えるのかもしれない。


 しかし最近になって、こんなにいい家を建ててくれる会社が、どうしてこんなばかなことをするのかなあ、と思わざるを得ないことにぶつかっている。それは家を建てたときに、いわば景品としてもらった石のベンチのことだ。


 家を建てるというだけでもワクワクと楽しかった時期に、打ち合わせの場所は建築会社の支所の事務所を兼ねたモデルハウスだった。ひろびろとした贅沢な作りで、冬でももちろん暖かい。そこの玄関前に、建築会社のトレードマークの犬がついた石のベンチがあった。打ち合わせに訪れると、家を建てた人にはこのベンチを差し上げますとしばしば言われ、それを置いた庭のようすを思い描いていた。


 家が建って、住み始めてからしばらくしたころ、もうすっかり顔なじみの営業担当者が、我が家の裏木戸に車を横付けした。ベンチを運び込むには、表門より裏木戸からが便利だ、というようなことを彼はすっかり熟知しているのだ。私もどこに置いてもらおうかなどと考えながら、喜んで庭に出て彼を迎え入れた。ところが彼が運び込んだのは、あのモデルハウスの玄関前にあったのとはずいぶんと違う、ミニサイズのベンチだった。何でも半分のサイズにしたという。なぜかと訊いてみたら、これなら客のところへ運ぶのも一人でできるから、という。なんという勝手な理屈だろう。それを置かれた我が家では、腰かけることもできず、ベンチにくっついているトレードマークの犬の顔を見ながら、途方に暮れた。そして結局、それはまったく使い物にはならなかった。無理して座ったりしようものなら、後ろにひっくり返って頭でも打ちかねない。膝痛や腰痛だって引き起こしかねない。


 家を建ててからそろそろ丸10年といういまになって、思い切って建築会社に連絡をした。あのベンチは、思いもよらぬミニサイズだったせいで、結局使いもせずに庭に置いたままです。(実際のところ、今後足の運びがおぼつかなくなってつまずいたりでもしようものなら、使えないどころか健康を害す元凶にもなりかねない。)けれども御社のトレードマークがついているので、片づけようにも粗末に扱うことはできません。そこで、お引き取り願えないかと思うのですが、いかがでしょうか。


 営業担当はぶっきらぼうに、そういうことなら日にちの約束はできないが引き取りに行きましょう、と言った。これで一件落着ではある。しかしそれにしても、普通の半分のサイズのベンチを客にくれようなどとは、いったいあの会社は何を考えているのだろう。家の住み心地がいいだけによけい、心の隅に暗いシミができてしまったような感じがするのは残念なことだ。