『軍中楽園』 国家が抱える虚無をあぶりだした力作 

 

 


 台湾映画『軍中楽園』(2014年 ニウ・チェンザー監督)は、中華民国国軍が軍隊内で運営していた娼館を描いている。スキャンダラスになりがちなテーマに正面から取り組んで、ニウ・チェンザー監督が描こうとしたのは何だったのか。


 監督はこの作品について、印象深いことを語っている。「自分がこのテーマを選んだのではなく、このテーマが自分をひきこんだ。祖父母や父母の強い郷愁を感じながら育った私は、これを作らずにはいられなかった」と。なるほど、作品の中核となっているのは無理やり家族から引き離されて一兵卒として台湾にわたった老兵の、故郷や家族に対する深い思いだ。けれど私は、この作品は監督の意図をこえてもっと大きい問題を描き得ていると感じている。それが何かと言えば、国家というものが、おそらくどの国家であれ内包している、大きな虚無だ。


 映画の舞台は、中国大陸からわずか2キロの地点にある金門島。時代設定は1969年だ。1958年8月23日に金門島では中国と台湾のあいだの砲撃戦が勃発。10月頃には次第に終息したものの中国側が突如として隔日砲撃の方針を発表した。だから1969年といえば月水金には砲撃があり、火木土は休戦日というゲームのような戦闘に、島の人々が否応なく巻き込まれていた時期だ。


 映画の冒頭、兵役のために徴集された若者たちが揚陸艇艦に乗せられて、台湾本土から遥かに離れた金門島にやってくる。最前線と位置付けられている地に立って、彼らは気が逸るのを抑えきれないようでもある。そのなかのひとりシャオバオはいかにも朴訥な青年だが、いきなり士官長のラオジャンから手厳しい訓練を受ける。ラオジャンは強い訛りのある中国語を話していて、中国大陸の辺鄙な地から来た下級兵士であろうことが分かる。いまは軍隊内で若い兵隊を束ねる士官長で、かつて自分が味わったような過酷さを新兵に強いているということか。訓練中にシャオバオは泳げないことがばれてしまい、精鋭部隊からは外される。そして彼が配属されたのは、なんと831部隊だった。ここは別名「特約茶室」あるいは「軍中楽園」と呼ばれている娼館で、そこの管理がシャオバオの任務となった。


 シャオバオは娼婦や兵士がくりひろげる日々の出来事に驚愕しながらも、さまざまな人間模様を見聞きしていく。ラオジャンは読み書きができず、台湾語は聞き取ることもできない。彼はまだ十代の少年だったころ、敗走する国民党軍に拉致されて兵士にされた。拉致されたのは畑仕事の帰り道、家はすぐそこで、母は夕飯の支度をしながら彼の帰りを待っていたはずだ。母に別れも告げられないままラオジャンは台湾に渡ったのだが、早や20年の月日がたっている。特約茶室は最初はそうした兵士たちのために設立されたのだろうが、いまは兵役中の青年たちも列をなす。一方で送り込まれてくる娼婦たちもそれぞれに複雑で悲惨な過去を背負っているようだ。


 シャオバオは文字を書けないラオジャンのために手紙を代筆してやり、台湾語を解せぬ彼をなにかと手助けする。ラオジャンは娼婦アジャオに思いを寄せてプレゼントを繰り返し、結婚の申し込みをして結納金も工面した。ラオジャンが長年心に秘めている夢は、家族を連れて大陸の故郷の母に会いに行く、というものだ。だがそれは、アジャオから見れば、いやたぶんラオジャン以外の誰から見ても、絶対に叶わぬ夢だ。それをアジャオからはっきりと指摘されたラオジャンは、一瞬の狂気にかられてアジャオを殺してしまう。


 シャオバオと同郷のひ弱な兵士は、仲間からの凄絶ないじめに耐えかねて、娼婦とともに逃走を図る。いちばん近い大陸の陸地を目指して手を携えて海に入ったようだが、行方知れずになってしまった。シャオバオは娼婦ニーニーと言葉を交わすようになる。ニーニーは夫殺しの罪を犯したが、早く刑期を終えて子供の元に帰るために831部隊に来た。若く純情な青年と苦労を重ねた年長の女性のあいだに、いっときの温かいつきあいも生まれたが、ニーニーは恩赦を受けて部隊を去って行く。金門島では兵士も娼婦も島民も、砲弾の飛ぶ奇数日には防空壕に身を寄せて過ごしたものだ。しかし兵役を終えて島を去ることになったシャオバオにとって、あの歳月はいったい何だったのだろうか。


 映画の結末部では、金門島で同じ時間を共有した者たちが、一瞬であれ思い描いたかもしれない夢がスチール写真で語られる。いじめを受けた兵士は一緒に逃走した娼婦と天安門にたどりついた。ラオジャンの写真は、殺してしまった娼婦とともに台北でレストランを開き、子供もできたというものだ。シャオバオはニーニーとその息子とともに笑顔で写真におさまっている。パラパラと風が頁をめくるような軽い調子で示されるこれらの画像は、かえって軍隊に内包されている、ひいては国家に内包されている虚無を、じわじわと訴えかけてくるように私には感じられた。


 この作品がつくられるまでに、台湾映画にはさまざまな積み重ねがあった。台湾では従来、軍教片と呼ばれる軍事教育映画が大量に作られている。中華民国政府は1949年に渡台以来、「大陸反攻(中国大陸を攻め返す)」を国是として国軍を強化し、男子全員に兵役を課してきた。国防部は独自の映画制作会社や豊富な資金を持ち、プロパガンダ映画をさかんに作ってきた。一般の人々にも軍事は身近な大問題のひとつだから、民間のプロダクションでも戦争もの軍隊ものは数多く作られ一定の人気を博してきた。よく知られた作品には、1958年の金門島での中国との砲撃戦を描いた『八二三炮戦』、兵役や軍事訓練などをコミカルに描いたシリーズもの『報告班長』などがある。どれも愛国心を鼓舞し、国のために身を投げだすことを称揚するものだ。


 兵役、あるいは中華民国国軍兵士として台湾にわたってきた老兵などは、娯楽映画でも台湾ニューシネマ作品でもあつかわれてきた。たとえば兵役のことは、ホウ・シャオシエン監督の『フンクイの少年』(1983年)『恋恋風塵』(1987年)でも描かれている。兵役は大人になるための通過儀礼だという意味合いで触れられている。『恋恋風塵』を注意深く見てみると、兵役中の青年たちがビリヤードをしながら交わす会話のなかに身近にある娼館がでてくるが、兵役生活の一コマというごく軽い調子のものだ。従来は兵役の否定的側面はほとんど描かれてこなかったのに対して、『軍中楽園』では兵士間の残酷ないじめも描かれ、「なぜ兵役などというものがあるのか」という兵士の苦しい訴えの言葉もセリフとなっている。


 老兵については、1980年代に台湾ニューシネマの若手監督と目されていた李佑寧(リー・ヨウニン)が老兵を主人公にした映画を2本撮っている。いずれもニュースで話題を呼んだ出来事に脚色をくわえたもので、『老兵の春(老莫的第二個春天 モーおじさんの第二の春)』(1984年)と『老柯的最後一個秋天(クーおじさんの最後の秋)』(1989年)だ。前者は軍隊を退役した老兵が、結納金を用意して若い先住民族の娘を紹介してもらい、結婚する。さまざまな行き違いをなんとか乗り越え、二人は幸せな家庭を築いていく。息子も生まれて、老兵は大陸へ帰る船賃を計算しながら、家族で故郷に帰る夢を語る。制作当時はまだ戒厳令下で中国大陸への渡航が自由化される前のことだ。一方で後者は、軍隊を退役してタクシー運転手になった老兵が、小さいときから可愛がっていた近所の娘の苦境を見かねて国営の土地銀行で銀行強盗をしようとする話だ。「俺は一生を国にささげたが、国は何もしてくれなかった。国家の金は俺の金だ」のセリフが当時共感を呼んだが、この映画は映画を統括する役所・新聞局電影処からは歓迎されなかった。


 もうひとつドキュメンタリー映画でも、見落とせない作品がある。金門島を舞台にした『単打双不打(奇数日は攻撃日、偶数日は休戦日)』(1994年 董振良監督)で、中国が発表した、隔日砲撃の方針がそのままタイトルとされている。戒厳令解除後は台湾では社会問題を鋭く突きつけるドキュメンタリーの佳作が次々に生まれたが、これはそのひとつだ。董振良(ドン・ジェンリャン)監督は金門島出身で、金門島の人々に自分たちの体験を演じさせた部分を挿入して、住民から見た金門島の現実を生々しく描き出した。『軍中楽園』で描かれているのは、1969年当時でも砲撃は続き、兵士は逃げまどい、住民たちも防空壕に避難するようすだ。このありさまを最初に訴えたのが『単打双不打』で、“大陸反攻”が国是とされた5,60年代に、金門島ありさまは政府や軍が宣伝した“神聖なる戦役”“名誉の戦役”などとは遠く隔たっていたことを訴えていた。


 ニウ・チェンザー監督についても触れておきたい。彼は原籍は北京で、1966年台北で生まれて永春街にあった眷村(家族村)で育った。台湾にわたってきた外省人の二世ということになる。眷村についても説明しておきたい。1949年国共内戦に敗れて台湾にわたった国民党軍は一般庶民も含めて約150万人と言われる。当時の台湾の人口が約600万だからその人口急増のさまは、容易に想像がつく。軍としては少なくとも軍人に対しては住居もないまま放っておくわけにいかず、俄か造りの住宅を建設してそこを眷村とした。その数は台湾全島で530か所にのぼったという。眷村の住人は社会的階層や身分はさまざまだったというが外省人が集まって暮らしていたわけで、本省人から見れば内部をうかがい知ることができない外国のようなものであった。眷村で育ってのちに芸術、政治、学問などの分野で活躍するようになった人は多い。李佑寧、ホウシャオシエンん作品の脚本家であり小説家でもある朱天文なども眷村育ちだから、台湾で一時期、独特の文化を醸成した場所ともいえるかもしれない。


 なかでもニウチェンザーの場合は、原籍が北京だから、戦後台湾で国語とされた、いわゆる北京語、正しい中国語をしゃべる一家だったことになる。父親はニウチェンザーが子供のころに倒れて寝たきりだったというが、母親および母方の祖母は台北師範大学語言センターで中国語を教えた。外省人の社会で育ったわけだから、台湾人とはだいぶ違った体験をしていると思われる。李佑寧もそうだが、老兵を身近に見てきたのが彼の作品作りのモチーフとなっている。ニウチェンザーの場合も、中国大陸や北京への思いが強いようだ。『軍中楽園』にもラオジャン役の陳建斌をはじめ多くの中国人俳優を起用しているが、言葉の訛りや仕草などに、台湾人俳優では演じられないリアリティを求めたためだと思われる。


 そのぶん『軍中楽園』ではラオジャンの背景や感情はこまやかに深く描かれている。それに比して娼婦の背景や感情は、やや浅い描写になっているのは否めない事実だ。本省人から見れば、中国大陸から来た兵隊たちのために台湾人女性が娼婦として送り込まれたわけで、そのことに対する反発は強い。