梅の恵み 夏の哀しみ

 

 


 台風がらみの雨がつづいて、今日は久しぶりの快晴。午後は暑かったのでずっと本を読んだり手仕事をしたりして過ごした。いま読んでいるのはイアン・マキューアン著『愛の続き』、たしか3回目だ。夕方4時半をまわったころ、少しは体を動かそうとジョギングにでかけた。すぐ近くの神社や城跡の木陰を選んで走ってみたが、まだ日は高くやはり暑い。そこでジョギングはやめることにして帰りかけたが、ふと思いついて家を通り過ぎ畑に向かった。梅がもうそろそろ終わるころだ。


 梅の木の下には、丸々とした黄色い実がたくさん落ちている。それでも木を見上げればまだ残っている実も多い。手が届くあたりを手早く摘んだだけで、バッグはたちまち持ち重りするほどになった。欲張らずに切り上げて帰ることにした。夕方は蚊が多いというから、虫刺されでひどい目に遭ったばかりだし、用心しようというわけだ。10日ほど前に虫にさされた翌朝、顔の左半分が腫れあがってしまったのだが、その後ハーブで作られた防虫スプレイを手に入れた。スプレイボトルを玄関に置いて、外出前には柑橘系の香りを吹きかけることにしているが、虫はなかなか油断がならない。つい先日も手袋のうえから手の甲を刺されてしまった。考えてみれば、手の甲あたりはスプレイが行き届かないところかも知れない。


 畑を通り抜けながら、2,3日前に植えたモロヘイヤの苗のようすを見てみた。すると、4本植えたうちの元気のよい1本がつぶされている。苗の周りが微かに丸くへこんでいるところを見ると、誰かが、というより猫かまたはハクビシンか何かが、ここに横たわったらしい。植える前に庭のコンポストから堆肥を運び出してここに埋めた。我が家の堆肥はほとんど匂わない、というより堆肥らしいいい匂いがする。人間は気づかなくても、彼らにしてみればその匂いに引き寄せられるのだろうか。ぐにゃっとした苗が生き返るかどうかはわからないが、土をかき寄せてまっすぐに起こしてから、また何者かが寝転んだりしないように棒をたてた。


 家に帰ってから梅を測ると1.5キロ余りあった。ざっと水で洗い、しばらく水につけておく。もうだいぶ熟れているからあく抜きの必要はないかもしれないが、念のためというわけだ。あく抜きをうまくやらないと渋みが残ると、先日友人がせっかく作ったジャムの不出来を嘆いていた。5,6時間水につけたあと梅をざるにあげ、竹串でヘタを取る。電気炊飯器に梅を入れると蓋がやっと閉まるくらいいっぱいになった。1週間ほど前に作った梅ジュースと梅ジャムの甘さがちょうどよかったので、砂糖の割合は先回と同じにしようと計算してみたら370グラムだ。梅に甜菜糖とほんの少しの水をくわえて保温のスイッチを押す。これだけで明朝には梅ジュースができ、残りの梅をタネを取り除いて煮詰めれば梅ジャムもできる。酸味のあるジュースとジャムは、暑い盛りには舌に心地よい。


 暑い時期には、こんなふうに時間を過ごすのがいい。我が家では昨年暮れごろに、庭の大木を20本ほど伐採した。もともと自然林の延長のような庭だから、伐採した後も心配したほどの変化はなかった。けれど夏に向かうと、西側の深い木立がなくなったせいで午後の日差しの暑さが不安材料になってきた。昨年までは冷房も扇風機もなしで、暑さを嘆くことなどついぞなかったのだが。そんなわけで近ごろは、夏をいかに快適に過ごすかをしきりに考える。


 暑い日は、午後になると涼しい居間や台所に移動し、手仕事に熱中する。すると時間のたつのを忘れて、ふと気がつくと夕飯どきだ。しかも手仕事というのは、費やした時間に応じて、具体的なものを生み出してくれる。だから満足や楽しみも増すものとばかり思っていた。ところがそうはいかないのは、いったいなぜなのだろう。あちこち工夫を凝らして仕上げたワンピース、梅漬けの壺、ジャムの瓶詰といった、自分が作り出したものを目の前にならべてみる。それはそれでうれしいのだが、心の底に沸いてくるのは、そこはかとない哀しみだ。


 思えば子供のころから、夏の日盛りには気の遠くなりそうな解放感と同時に、いつも寂しさや哀しみが心に貼りついていた。庭で姉妹や従姉たちと精一杯はしゃぎまわっていたときも、川遊びや山遊びに父がつれだしてくれたときも、私は楽しんでいるふりをしていただけで、心の奥ではひそかに寂しさや哀しみをかみしめていたような気がする。