死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの


 永山則夫のことをもっと知りたくなって、同じ著者の本をもう一冊読んだ。『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』堀川恵子著だ。


 先日取り上げた石川義博医師による精神鑑定書は、永山の生い立ちを精緻に追っていき、彼がなぜ4人を殺して連続射殺魔と呼ばれるに至ったかを探ったものだ。当時の裁判官がのちに語ったところによれば、石川鑑定と呼ばれるこの鑑定書は非常に優れたものだと思ったそうだ。しかしながら永山が事件当時19歳という未成年とはいえ、4人殺害という犯罪の重大さを鑑みて死刑にしないわけにはいかなかったのだ、という。1979年、永山に死刑判決が下された。永山は30歳になっていた。弁護団は、被告の完全責任能力を認めたのは事実誤認として、東京高等裁判所に対して控訴手続きをとった。


 死刑判決が下された後、永山は獄中で結婚した。相手は新垣和美。沖縄出身で、その後は母とその再婚相手の元でアメリカで暮らしていた。彼女はふとした偶然から永山則夫の著書「無知の涙」を読み、強い共感をおぼえて永山と文通を続けていた。彼女もやはり子供時代に母親に捨てられたと感じた経験があり、永山の著書によって救われたという。彼女の決心は固く、永山からは止められたにもかかわらず一人で来日を決めた。親もアメリカの永住権も捨てて、永山とともに生きる覚悟だった。来日以来、彼女は毎日永山に面会して会話を重ね、永山と結婚した。さらに、永山が射殺した人の遺族を訪問して謝罪をし、彼らの思いに耳を傾け、「無知の涙」の印税を受け取ってもらおうと努力した。


 親の愛に飢えて育った永山にとって、自分を愛してくれる女性の存在は大きかった。死を待つばかりだった永山は、和美と生きていくことを考え始めた。永山裁判では弁護団は何回も解任就任を繰り返しているが、死刑判決後の控訴手続きのあと第4次弁護団は解散。一審の途中から弁護にあたっていた鈴木淳二弁護士、弁護士二年目の大谷恭子弁護士が就任していた。彼らの努力によって、永山則夫はそれまでの法廷で闘う姿勢を変え、真摯に自分の罪状やその後の思いを語るようになった。将来の夢として、もしできるなら子供たち同士が助け合うような塾を開きたいと述べたという。1981年、東京高裁の船田三雄裁判長は一審の死刑判決を破棄、無期懲役の判決を下した。その根底には石川鑑定の存在があった。劣悪な環境で幼少時を過ごさざるを得なかった被告の事情を、深く斟酌したものといえる。


 しかし永山に無期懲役の判決を下したいわゆる船田判決は、マスコミの激しいバッシングにさらされることになった。死刑制度が存在する以上、永山を死刑にしない理由はない、という論調が主流だった。東京高等検察庁は、東京高裁の判決は判例違反だとして最高裁判所に上告した。


 思えば19歳の連続射殺魔永山則夫にとって、獄中ははじめての安住の場であったのかもしれない。食べるに困らず、暴力にさらされることなく眠れる場を得て、永山は猛然と勉強を始め多数の書物を読破した。マルクス主義に傾倒して、自分たちのような社会の底辺で貧困にあえぐものを踏みつけにして成り立っている社会に、怒りを向けるようになった。裁判は、そのような過酷な状況で育って罪を犯した少年を、社会がどう裁くかこそが問われていた。貧困を生み出している社会の責任を重視すれば、死刑判決は下せなくなる。しかし一方で、同じような状況で育っても、犯罪への道はたどらずに健全な社会生活を送っているものも多い、との世論も依然として根強く存在した。永山に死刑判決を下さなければ、社会的に著しい不公平が生じるとの声も大きかった。


 死刑か無期懲役か、つまり国家に殺されるのか、または生かされて被害者への謝罪をしながら生きるのか。このふたつのあいだで、翻弄されながら永山は獄中での日々を送った。1983年、最高裁は原判決の破棄と東京高裁への差し戻し判決を宣告。これは事実上死刑宣告を意味していた。


 これを知った永山は、大谷恭子弁護士にむかって「生きる気にさせておいてから、殺すのか」と言ったという。逮捕時から死刑を覚悟していたばかりか自殺未遂を繰り返していた永山が、読書や創作を重ね、結婚もし、か細い光を手繰り寄せるようにかすかな生の希望をつかもうとしたとき、その望みが断ち切られた。永山は離婚を口にするようになり、4年間の結婚生活を終えた。


 永山はその後も一人で獄中で創作を重ね、著書を発表し続けた。1987年、東京高裁は控訴を棄却。1990年、最高裁で永山の死刑が確定した。永山は41歳だった。彼は死刑執行を引き延ばすための再審請求は、一度も行わなかった。そして死の直前までたった一人獄房で書き続けた。1997年8月1日、東京拘置所内で永山則夫の死刑が執行された。永山則夫48歳。このとき執筆中だった小説のタイトルは「華」。いつものように机に向かっていたとき、突然刑務官が現れて処刑のために連れ出されたのだろう。原稿は、文章の途中でぷつりと途切れていたという。


 死刑が執行されたその日の朝、隣の房にいた大道寺将司死刑囚は、永山則夫があげたと思われる絶叫を聞いている。大道寺は「東アジア反日武装戦線」に属して連続企業爆破事件を起こした。また元刑務官・坂本敏夫は、永山の死刑執行から20年後に書いた手記に、永山の最期のようすを記している。それによれば、永山は「殺されてなるものか」と力を振り絞って、巨漢の刑務官数人の制圧を振り切ろうとした。そのせいで全身に無数の打撲傷や擦過傷を負い、無残な姿で処刑されたという。生涯孤立無援を貫き、知識を得るにしたがって激しく社会と対峙するようになった永山を象徴するような最期といえるかもしれない。


 ところでここに掲げた「死刑の基準」という本は、永山裁判のあと死刑判決を下す際に依拠されることの多くなったいわゆる「永山基準」について詳述したものだ。永山裁判が無期懲役か死刑かで争われたように、被告本人にとってはこの分かれ目はとてつもなく大きい。永山基準というのは、最高裁が二審の無期懲役判決を棄却して事実上の死刑宣告をくだしたときに示された判断基準を指している。最高裁は、極刑以外に選択の余地がないときにだけ「やむを得ず」死刑が適用されるという姿勢を保ちつつも、死刑を適用するかどうかの基準として、次の9項目を挙げた。(1)犯罪の性質、(2)動機、計画性など、(3)犯行態様、執拗(しつよう)さ・残虐性など、(4)結果の重大さ、特に殺害被害者数、(5)遺族の被害感情、(6)社会的影響、(7)犯人の年齢、犯行時に未成年など、(8)前科、(9)犯行後の情状、である。


 ところが近年とくに、上記の9項目に適応すれば死刑判決を下してもいいかのような曲解ともいえる風潮が出てきている。それには、著者はもちろん多くの人が危惧を抱いている。まるで犯罪者に対して社会全体の報復感情をぶつけるかのような動きが、目立っているのだ。永山則夫に関するこの2冊の書物だけでも明らかなように、永山の事件に至る事情というのは複雑を極め、犯行後の行動にもまた人々の想像を大きく超えるものがあった。そしてそれは多かれ少なかれすべての犯罪者に当てはまるのではないだろうか。しかも現在死刑判決が下されている事件のなかには、たとえば和歌山毒物カレー事件のように冤罪を疑われているものが少なくない。言うまでもなく、死刑とは国家による殺人行為であり、一人の人間の未来を永遠に奪ってしまうものだ。永山に無期懲役判決が下されたときに、死刑制度廃止の論議が一時的な高まりを見せた。やはりこれは早急に実現すべき課題ではないか。永山の足跡をいくらかなりと知っただけでも、国家権力による殺人はなくすべきだと痛切に思う。