永山則夫 封印された鑑定記録


 年末から年始にかけて「永山則夫 封印された鑑定記録」堀川恵子著を読んだ。自分がうわべしか知らなかったことに気づかされた、ずしりと重い本であった。


 永山則夫が4件の連続射殺事件を起こし逮捕されたのは、1968年から69年にかけてのことだという。事件および逮捕当時、彼は19歳だった。私は彼よりいくつか年長だが、彼のニュースは強く印象に残っている。その後も彼に関する情報には関心を寄せていたが、本質的なところは何も知らずにいたと、本書を読んで痛切に思った。


 この本に渋谷のフルーツパーラー西村が出てくる。永山則夫が中学を卒業し、盗んだTシャツなどで身支度をして上京し、誰も手助けをしてくれないなかで住み込みで働き始めたのが、この西村だという。渋谷は、私にとっても初めて知った都会であった。西村のガラス張りの明るい店内のようすが記憶にある。あのころ、あの店のバックヤードに永山則夫がいたのかもしれない。小柄な体に心細さを抑え込んで。


 永山則夫は、非常につらい子供時代を過ごしている。網走で父親が博打の果てに失踪。母親は生きていくためとは言え、17歳の娘と2歳の幼児および孫の3人だけをつれて青森へ行ってしまった。他の4人の子どもたちは極寒の網走に放置された。4歳の永山則夫、14歳の姉、12歳と10歳の兄である。食糧も金もない子どもたちだけの暮らしで、春まで生き延びたのが奇跡と言えるほどの過酷さであった。


 母のもとに引き取られてからも、永山則夫の苦境は続く。次兄の暴力、小中学校ともほとんど不登校。中卒で上京してからも職を転々として、半年以上続いた職はない。逃げるように故郷を後にしたものの、15歳の彼はあまりに非力、あまりにも孤立無援であった。


 逮捕後拘留されるとすぐに、永山則夫は「無知の涙」の執筆を開始した。半年余り後には合同出版から刊行され大きな話題を呼んだ。その間も彼は強い自殺衝動にかられ続け、何回もの自殺未遂をしている。一方で、精神科医・新井尚賢技官によって永山則夫の精神鑑定が行われている。


 ところがその約2年後、永山の弁護団から精神科医・石川義博のもとに再度の精神鑑定の依頼が届いた。石川は当時38歳、東京大学医学部精神医学教室を経て、ロンドンで先端の精神医療を学び帰国してまもないころだった。難しい事件であること、すでに一度鑑定が行われていることなどの理由でためらいはあったが、結局石川は鑑定を引き受けた。その大きい理由のひとつは、新井鑑定では永山則夫の生い立ちがごく簡単にしか触れられていないことだった。石川ははじめから、永山の悲惨な幼少期の出来事をじっくり聞き取ろうとの覚悟でこの仕事に臨んだ。永山の親族に精神を病んだ者が数名いるが、それと事件との関連も解き明かさなくてはならない。石川医師の面談は、精神鑑定の常識を離れて、永山自身が語りだすのを待つという方法がとられた。


 石川医師による永山則夫の第二次精神鑑定は、1974年1月16日から4月1日まで、永山を八王子刑務所に鑑定留置して行われた。石川医師は、青森に永山の母や長姉を訪ねて話を聞き取ることまでしている。それらも含め、鑑定留置前後にわたる278日間をかけて膨大な鑑定書が完成した。面談を録音した100時間を超えるテープ49本も残された。


 この本の著者はそのテープを録音から37年も後に石川医師から借り受け、カルテや鑑定書と突き合わせつつ、永山則夫がどのようにして連続射殺事件を起こすに至ったのかを追っている。永山が石川医師に対して次第に心を開き、思い出すのさえつらい過去の出来事に向き合い、とつとつと言葉を発していくさまは感動的でさえある。


 石川医師は、永山則夫が母に捨てられたと感じている母の行為の理由も探っている。母もまた過酷な幼少期を過ごしていた。石川医師はまた、永山則夫の幼時に唯一心温まる思い出を残してくれた長姉にも会い、永山の心の動きを知ろうとしている。これらの膨大な記録から私たちが教えられることは非常に多い。わずかなやさしさや親切さえもが、どれほど人間の心を潤し励ますものか。幼少年期の人間がいかにもろく、偶然に左右されて悪に大きく振れてしまうものであるか。しかし永山則夫には温かい手はなかなか届かず、家庭でも職場でも、微罪で送り込まれた少年鑑別所でも激しい暴力にさらされる。転々と職を変え、どこでも信頼関係を築く糸口さえみつからず、相談相手一人持たない永山則夫はどんどん追い詰められていく。


 ところが石川が心血を注いで完成させたこの鑑定書は、裁判にはほとんど生かされなかった。石川医師に鑑定を依頼してきたころの、手弁当で集まった優秀な弁護団は散り散りになってしまい、永山のまわりには全共闘運動の元闘士や社会運動家などが集まっていた。裁判は混とんとし、石川医師が第二次精神鑑定の担当者として東京地裁で証人尋問を受けるまでに、4年の月日が経ってしまっていた。


 しかも検察官からの石川医師への反対尋問は、糾弾と言ってもいいほどの激しさだった。永山の犯罪動機が「金ほしさ」とされていたのが、石川医師の鑑定書によって覆されたのが、その最大の理由だった。石川医師が脳波検査などにより永山の脳の脆弱性を指摘したこと、また永山の幼少期の生い立ちがその後の行動に決定的な影響を及ぼしたとする指摘も、検査官の激しい反発を招いた。当時はまだPTSDという言葉も概念も知られていなかったし、いまのように虐待の連鎖や、ネグレクトの影響の大きさなども注目されてはいなかった。


 さらに石川医師が鑑定書をもとに自説を強硬に主張できなかった理由があった。それは鑑定書完成直後に関係者に手渡されたとき、永山自身が鑑定の中身を否定したのだ。「自分の鑑定書じゃないみたいだ」と彼は言ったという。永山は獄中で必死に勉強を重ねて、大量の書物を読破し、自分でも著書を出版するまでになった。その永山は鑑定書にあった「被害妄想」「脳の脆弱性」「精神病に近い精神状態」などに自尊心を傷つけられ、激しく反発したと思われる。その一方で、永山則夫の死刑執行後に残された数少ない遺品のなかには、丁寧に保管され繰り返し読み込まれていたと思われる石川医師による鑑定書があった。永山則夫がこの鑑定書に一方では愛着をかんじていたことがうかがえる。石川医師はそのことは知らなかった。しかし彼は永山則夫の精神鑑定を最後に、犯罪精神医学を離れた。精神療法だったら患者から批判を受けても、それについて対話を重ねて治療に結びつけることもできる。だが精神鑑定の場合は、批判に対する反論の道さえも閉ざされているからだ。


 石川医師が証人尋問に立った第一審では、石川鑑定の欠点だけをあげつらい鑑定書を踏みにじるような形で、死刑判決が下された。1979年、永山が30歳のときだ。法廷で永山が怒号をあげ暴力的な態度を取ったのも判決では不利に働いた。


 しかしその判決から34年後の2012年、3人の裁判官のうちの1人であった豊吉彬元裁判官は、石川鑑定が採用されなかった事情についてつぎのような重要な証言をしている。石川鑑定は見たこともないような立派なものだった。3人の裁判官による合議でも、これでは極刑を下すのは無理だと口にする人さえいた。しかし裁判の結論はもう決まっていた。だからあの鑑定書は、排斥するよりほかなかったのだ、と。


 こうした裁判所の姿勢はいまにいたってもなお続いている。前に進めるきっかけを、ことごとく逃しているのが、この日本という国だ、とつくづく思う。この国のどこかに、重大な欠陥がひそんでいるのではないだろうか。