絽の浴衣  母の思い出3


 この涼しい信州でも、夏は祭りの季節だ。


 7月半ばに祇園祭がある。そしていつから始まったのか知らないが、私の子供のころはなかったドカンショ祭りが8月初旬。お盆になると花市があって、これは私が好きな行事のひとつだ。駅前から目抜き通りまでずっと道端に盆飾り用の野花が並ぶ。秋風が立ち始めると近くの鹿島神社の祭りがあり、真っ暗な森と谷に囲まれた小さい境内にひっそりと裸電球がともされる。子供を喜ばせようとして、形ばかりの夜店が数店ならぶ。どれも地元住民による手作りの食べ物や、ささやかな風船売りなどだ。


 夏の到来を告げる祇園祭は、昔はもっと盛大だった。昼間は各町内にある子供神輿がつぎつぎに繰り出す。ふだんは学校や登下校時に見慣れている男の子たちが、この日は神輿の担ぎ手となって急に大人っぽく見える。日盛りの坂道を、黒く日焼けした額に汗を光らせて担ぎ棒にぎっしりととっつき、天を仰ぐような格好で一団となって進んでゆく。彼らの口から発せられる掛け声は「わいよいわいよい」と喉元でくぐもり、まるで何かに取り憑かれた呪文のように響きわたる。


 彼らに比べれば、私たち女の子は何もすることがない。私は子供のころから祭りのようなにぎやかな場はきらいだった。だからせがんだ覚えはないのだが、ある祇園祭の日に母が浴衣を着せてくれた。子供心にもうれしかったのかもしれない。姉とおそろいの浴衣を着て家の門を出た。


 我が家の門は、300年も前に建てられたという北国街道小諸宿の間口10間以上もある本陣に付属する薬医門だった。門の前はちょっとした空き地になっていたから、近所の子供たちが縄跳びをしたり、近在の村から牛車できた百姓が牛を休ませたりもしていた。その片隅で得意さ半分恥ずかしさ半分の私と姉は、石に腰を下ろしていた。すると二人連れの老婆が通りかかった。野良仕事の帰りでもあろうか、農具を手に背負子を背負った二人は私たちに近寄ってきた。


「まあ、上等なおべべきせてもらって」と一人が、私の胸元を撫でんばかりに手を伸ばした。触れられたくなくて、私は後じさりした。するとうまい具合に、近所の顔見知りの近所のおばさんも通りかかった。
「まあまあ、知らない間にお母さんが仕立ててくれたのね。大変だったでしょうに」と彼女は言った。


 そんなことを言われたせいで自分の浴衣をしげしげと見直してみると、それは近所の子供たちが着ているものとはだいぶ違っていた。彼女たちの浴衣は、いまほど華やかではないにしても女の子らしい明るい色をところどころに配した木綿の浴衣だ。きょうだいでおさがりを着まわして、着古せば寝間着にでもしたものだろう。だが私たちの着ていたのは、いま思えば上等な絽の小花模様を散らしたものだった。上品な淡い色合いは、他の子供たちの浴衣に比べると寂しげに見えた。そしていまごろになって想像を巡らせてみるのだが、母は自分の数少ない着物の中から道行コートをほどき、その裏地を二人分の浴衣にしたのではないだろうか。それにしてもあのころ、戦後の物不足はまだ続いていたとはいえ、子供用の浴衣地さえも手に入れるのは難しかったのだろうか。


 母は戦況が悪化するなか、3人の幼子をつれ、トランクひとつを抱えてこの街に避難してきた。父の実家を頼ったのだ。私たちが住んでいた台湾の台南は、近隣に砂糖工場を多く抱えていたせいもあって米軍の空襲にさらされるようになっていた。砂糖工場ではアルコールも製造でき、それは飛行機の燃料に転用が利くからと爆撃の対象にされたという。そんなある日突然、近くの基地で待機していた特攻隊員たちが本土に送り返されることになった。彼らにはもう戦闘機さえ調達はされず、任務に就けるあてがなくなってしまったせいだという。彼らの乗る二隻の軍艦にわずかな空席があるので、家族を乗せたい人は乗せろと言われた父が、急遽妻子を遠く信州に送り出すことに決めた。


 出発までは4時間しかなかった。母は大急ぎで荷造りをし長旅の準備をした。子供が3人いるのだから必需品以外は持てるはずもなかった。そんななかで母は、手放すに忍びない着物を2,3枚荷物のすみに押し込んだのかもしれない。あのころはいざというときは着物は食糧と交換できたというから、それは賢い行動だったとも言える。


 その母はと言えば、祭りの当日は町内の年配者や父の身内である姑や小姑らの采配にしたがって一日忙しく働かなければならなかった。祭りと言えば古臭いしきたりや慣習がつきものだ。祇園祭の日は北国街道沿いの旧宿場の家々は、すべてが通りに向かって戸や襖を開け放ち、祭り提灯や家紋入りの大提灯を飾りつける。しかも宿場の本陣であった我が家は中心となる場だから、長く開け放った縁側に、この日ばかりはだれもかれもが好き勝手に腰を下ろす。ましてや神輿の担ぎ手は、ここで飲み物や食べ物を供されて接待されるのを楽しみにしている。


 夜が更けて祭りも山場となれば、本陣前では神輿が勢いよくぐるぐると回され、あるいは乱暴に上下にゆすられたりなどして祭気分をいっそう煽り立てる。見物人は次々に集まってくるから、接待はそれこそ大わらわであっただろう。それが過ぎても、神輿を納める時間などは昔は担ぎ手たちの気分次第だったから、それまでは夜明け近くなろうとも家は開け放ったままにするのが決まりだった。


 私たち子供は眠くなれば奥まった別棟の自宅に戻って寝てしまう。父母のいない家は妙に寂しかったが、それでも祭り疲れですぐに眠りに落ちたことだろう。翌朝起きて通りに出てみると、灯の消された祭り提灯などはそのままで、人けのない通りには、心なしか前の晩に群衆に思い切り踏みつけられた足跡のみが残っているようなもの寂しさがあった。


 母は、いつもの服装にもどって、いつもの家事をつぎつぎ片付けていく。母には祭りの名残は残っていない。母は祭りの話もほとんどしなかった、なぜ浴衣を作ってくれたのかも聞いたことがない。いつ作ったのかも尋ねもしなかった。あの上等な絽を、あんなふうに子供の浴衣に切り分けてしまうのは、なんだかもったいない気がいまでもする。けれど母があのときどんな思いで自分の着物に鋏を入れたかは、ついぞ聞きそびれたままだ。