「終わりの感覚」ジュリアン・バーンズ著


 小説を読み始めるとき、近頃は必ずと言っていいくらい作者の生年や何歳のときに書いた作品かをチェックするようになっている。生まれた年が自分に近ければたいてい読んでみる。書いたときの年齢が自分に近ければ、絶対読んでみる。これはたぶん、私がいまの自分に戸惑っていることの反映だろうと思う。記憶力や集中力が低下しつつある。その現実に、他の人たちはどう対処しているのかを知りたいのだ。


 私の書斎の本棚の一角に「お楽しみコーナー」と名付けた場所がある。これから先、楽しみながら繰り返し頁を繰りそうな本を、既読未読を問わず集めてある。私は音楽、本、最近では映画も、気に入れば何回も味わう癖がある。ちょうど子供のころに、なじんだおとぎ話や童話を手にするや作品の世界に浸りきれたように、いろいろな世界に没入する手立てを集めているわけだ。


 さてその「お楽しみコーナー」でふと目に留まった本がある。ジュリアン・バーンズ著「終わりの感覚」だ。作者の生年は1946年、私と2年違い。2011年のブッカー賞受賞作だから、7,8年前に書かれたものだ。しおり紐が最終頁近くに挟まれているところを見ると、どうも既読本のようだ。読み始めてみたが、微妙な既視感はあるものの読んだという確信が持てない。けれどもいま思えば、やはり記憶のかけらが頭の隅にあったのだろう、200頁近くを1日ほどで読み終えた。そして結末部にいたって、ああこれは確かに読んだと、そのときの感情までよみがえった。痛ましすぎる出来事があらわになるのだ。


 内容は、主人公・私が60代半ばを過ぎて勤めも引退し、来し方のあれこれを追想するものだ。このあたりの心境は、私と似ていなくもない。主人公は、高校時代の遊び仲間とはいまもなおほんの時折会って歓談したりする。少年から大人への移行期にはだれもが経験するようなたわいない出来事、友人への競争心や嫉妬、女友達への熱い思いや失望などがつぎつぎと独白のように綴られる。飽きることなく読ませるのは、誇張のない心理描写のせいだろう。


 主人公には、大学に入って間もなくガールフレンドができた。彼女の家に夏の一週間招かれたりもした仲だった。しかし彼女にはただじらされていたような、もてあそばれていたような、いささか不快な気分の残るつきあいでもあった。彼女は、主人公の遊び仲間に紹介されると、主人公より頭の良い出世しそうな友人に接近し、彼に「乗り換えた」。頭の良い友人からその事実を手紙で告げられた主人公は、怒りにまかせて二人あてに呪いの手紙を書く。


 それから40年以上がたち、自分が書いた呪いの手紙のことなどすっかり忘れたころのことだ。主人公も結婚と離婚を経て、娘や元妻と小さな波風はありながらも穏やかな交流を続けている。ところがある日、昔のガールフレンドの母親が死にあたって彼に思わぬ遺品を託したとの連絡を受ける。遺品を受け取るべく元ガールフレンドに接近した彼は紆余曲折の末、元ガールフレンドから自分がかつて書いた呪いの手紙を見せられる。そして彼女が、どうやらその呪いよりもさらに悲惨な人生を歩むことになったらしいことを知るのだ。そう深刻にも思わず、若さゆえの煮えたぎるような嫉妬心から発した言葉の責任を、どうやったら取れるというのか。


 過去に向き合うことは、現実の過酷さに直面することでもある。過去は決して甘い懐かしいものばかりではない。
 それにしても私は、なぜこの本を「お楽しみコーナー」に収めたのだろう。