エスペラント語の辞書  母の思い出2


 大学に入ったころ、私はかなり不貞腐れていた。「べつに大学など行きたくもないが、これが家を離れるいちばん簡単な道だ」などと、いま思えば鼻つまみの生意気な捨て台詞を吐いて東京へ出て行ったのではなかったか。


 そんなふうに始まった大学生活だったが、通学時の乗換駅だった渋谷に大盛堂という大きい書店をみつけて、そこに立ち寄るのが楽しみになった。4月なかば、そこの辞書コーナーでエスペラント語の辞書をみつけ、すぐに買い求めた。母の誕生日が近かったのでプレゼントしようと思ったのだ。鼻っ柱強そうにふるまっても、はじめての一人暮らし、しかも静かな地方の町とはまるで違う東京の喧騒のなかで、はやくも里心がつきはじめていたのかもしれない。


 母は若いときからエスぺランチストだった。なんでも神戸に住んでいた女学校時代に、先生に勧められて学び始めたという。1930年ごろのことだ。子供のころ、母がふと口にした言葉が、そのいかにも残念そうな口ぶりとともに私の心に刻まれていた。「子供が生まれたら、日本語とエスペラント語で育てようと楽しみにしていたけれど、戦争に振り回されてしまってそれどころではなかった」。私たちきょうだいは、太平洋戦争開戦の少し前から戦後にかけて生まれている。敗戦間際には、母は3人の幼子をつれて命からがら、はるか熱帯の地・台南から信州の小さい町まで、遠路を旅してきた。ここの父の実家にとりあえず身を寄せたのだが、結局はそのままここに住み着くことを余儀なくされた。


 エスペラント語の辞書は、私から母へのはじめての誕生日プレゼントだった。母がどのような気持ちで受け取ったかは、筆まめな母のことだから手紙をくれたはずだが、私は何もおぼえていない。けれどそれをきっかけに、母は着々と活動を始めた。エスペラント協会が発行していた月刊雑誌の購読を始め、それを通じて昔のエスエペラント仲間と連絡を取り、海外のエスぺランチストともさかんに手紙をやり取りするようになった。たまに上京してくる母に会っても、買い物や子供たちとの食事はさっさと切り上げて、「じゃさよなら。私は早稲田に行くから」と立ち去るのが決まりとなった。エスペラント協会は新宿区早稲田町にあったのだ。


 思えば、エスペラントは信州での生活が20年になろうとしていたころ、母が手にしたオアシスであったかもしれない。母が、自分の子供とエスペラント語で会話したかったのにかなわなかったのは、戦争だけでなく人間関係の面倒くささにも原因があったと思う。父は次男だったが長兄に戦死されたため家業を継いだ。周囲には父の姉妹やその家族がいて、住む家こそはちがっても大家族さながらの交流があった。遠い土地で生まれ育った母は、装いも日々の食事も立ち居振る舞いさえもが彼女らとは違っていて、風習になじむのはむずかしかったようだ。母が何かと過度に気遣うようすに、私は子供ながら心を痛めていた。そんなことを吹き飛ばしてしまう力が、母のエスペラント語にはあったのではないか。


 と、こんなことを書いている途中で、母自身がエスペラント語にまつわる思い出を書いている文章をみつけた。神戸エスペラント協会が1990年に発行した「神戸のエスペラント 年表と随想」に寄稿したものだ。タイトルは「今日の私の生活があるのはエスペラントから」というものだ。ちょっと変なタイトルだが、いまもなおエスペラントの力を借りて生きているという母の気持ちが込められているように思う。前文には寄稿したいきさつが書いてある。1988年にロッテルダムでのエスペラント世界大会に参加しての帰途、母は芦屋のエスペラント会に人と知り合ったという。それで戦前のようすをいろいろ尋ねられ、寄稿するよう依頼されて書いたのがこの文章だ。


 母が書いたその文章によれば、母は私がエスペラント語の辞書を贈るよりも4年も前、1960年に知人からエスペラント協会報を贈られたのをきっかけにエスペラント語にふたたび触れ始めていた。私はたぶん反抗期の真っ盛りで、母の動向など全く目に入らなかったのだろう。その後1972年には、松本郊外で開かれた甲信越エスペラント大会に参加した。「40年ぶりにエスペラント語を聞き、私もそれを口にして、大勢の方々と楽しい一日を過ごしました。これが火付けとなって私のエス熱が再燃し、同年のポーランド大会、翌1973年のユーゴスラビア大会に参加という次第で今日にいたっています」と母は書いている。母は毎年、世界のどこかで開かれるエスペラント大会に参加するのを楽しみにしていた。


 ふだんは小さい町で行動半径1キロメートルというような暮らしをしている母が、打って変わって飛行機で飛び立っていくのは、まぶしいような出来事だった。母には向こう見ずなやんちゃな一面があった。あるとき母は、成田空港を出発する前の晩に都内に住む姉の家に一泊した。母が入浴中に姉が母のスーツケースを移動させると、思いがけないほど軽かったという。不審に思った姉が無断でスーツケースを開けてみると、中身はほとんど空っぽだった。母は2週間あまり家を留守にするための用事を片づけるのに追われ、自分の荷造りまで手がまわらなかったのではないだろうか。驚いた姉は近所の商店街に走って下着類などを買い集め、手持ちの洋服の中から着替えに役立ちそうなものを選んでスーツケースに詰めた。それを知った母は「荷物を重くしてしまった」と不機嫌だったという。「日用品ぐらい、世界大会を開くくらいの町なら、買えないはずはない」と。母はそんなふうにしてでもエスペラント仲間と集いたかったのだろう。


 思えば母は不思議な人だった。子供にとっては母親は身近すぎて、矛盾だらけの言動や、支離滅裂な感情の発散まで、いやおうなく目にしてしまう。私はいまだに母を、ただ懐かしく甘やかな気持ちで思い出すことはできない。けれど、母がエスペラント語に出会った時の感激をつづった部分を読んで、母の行動の奥底にあった思いに触れた気がした。こんな文章だ。「1930年ごろ、コミンテルンの活動が盛んに伝えられ、社会主義による新しい世界を創造しようという意気込みと連動するように、万国共通語であるエスペラント語への関心が高まっていました。合理的な造語法と語法を持ったエスペラント語には、共通語としての実用性だけでなく、新しい生活様式や思惟方法まで身につけられそうな感動がありました。それがいまにいたるまで、私をエスペラントへと駆り立てています」


 いま私の手元には、母が残したエスペラントの辞書や書籍が残されている。母の、あの生活下手とでも呼びたいような不器用な生き方は、もしかしたら若くしてエスペラントに理想を見出してしまったがゆえかもしれない。心に理想など抱かず、ただただ現実に這いつくばるように生きるならば、日常の生活はもっとスムーズにまわったことだろう。母はこの世の現実に常に違和感を抱きつつ、日々の生活に追われ、ふと立ち止まってはエスペラントが描いた平和な世界に心を寄せて自分を立て直して、この世での生を終えたのかもしれない。