アニータ・ブルックナー著『嘘』

アニータ・ブルックナー著『嘘』を読んだ。

あれ、この人、こんなに面白い作品を書く人だったかしら。前にちらっと読んだのがいつのことなのか覚えてはいないが、あのときは読み取れなかったのかなあ。

 

 

主人公はロンドンに住むアナ。中年を過ぎた独り身の女性。彼女は母の最期を献身的に世話をして看取り、すると母と二人で長年暮らしたどっしりとしたマンションの住まいをあっさりと処分して、こぎれいな高級マンションで一人暮らしを始めた。

 

 

思えばアナは、母が望むとおりに生きてきた。裕福に育ち、大学卒業後はパリに1年留学して19世紀フランス社交界の研究に手を染めた。その研究を断続的に進めながらも、それを職業とするまでにはいかず、積極的に結婚しようともしなかった。

 

 

そのアナが、突然失踪した。届け出たのは行きつけの医師ハリディ。診療予約をしたアナが、一向に受診に来ないのを不審に思ったのだ。彼はアナの母親のかかりつけ医として、アナとも長年にわたるつきあいがあった。というよりもアナの母親に、アナとの結婚を望まれるほど、好意を持たれていた。彼はそれを知りながら、べつの派手好きな女性と結婚した。アナは彼から結婚の予定を告げられたとき、死期がせまっている母親には知らせずに、彼と娘との結婚の望みを抱いたまま死なせてくれと、彼に頼んだほどだ。

 

 

アナ失踪の届け出をきっかけに、アナがかかわりを持った女性たちが登場する。彼女たちとアナがどんなつきあい方をしていたかが語られ、アナが素早く相手の意図を汲み、先回りをするように落ち度のない気づかいをし、手助けをする女性であることがこまかに描かれる。

 

 

こういう女性は、じつは世の中にたくさんいる。日本ではいまだにこの種の女性が圧倒的多数のような気がする。女性はとかく周囲に気づかい周囲に役立つようにと育てられ、それが習い性となって一生を過ごす。だから、それがあたかも自然な姿なのだと周囲のみならず本人さえも思ってしまう。

 

 

しかし、この主人公のアナは、その自分の「嘘」に気づくのだ。そしてそうでない自分の人生を取り戻そうと、50歳を過ぎた身で一人決然と生き始めるのだ。その姿を、日常のこまごました出来事や所作や会話を通して描き、ひとりで新しい生き方を始めるアナを日常のなにか一つを変えただけ、というような軽やかさで書いているところが、この作品の特筆すべき美点だろう。

 

 

つづいて、アニータ・ブルックナーの代表作とされるブッカ―賞受賞作『秋のホテル』も読んでみた。『嘘』のほうが、数段すぐれた作品のように思えた。