『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう

 

 読み終えた分厚い本がある。『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』(宮田毬栄著 2015年 480頁2段組み)だ。数日間、食事と睡眠以外の時間をほとんど費やして読みふけった。なにがそんなに面白かったのだろう。

 高校時代に詩を読みあさったことがあるが、大木惇夫はそのころ好ましく思った詩人たちの一人だった。それほど印象は強くないが、彼の名前を目にして若かりしころの気分が心の底に蘇りかけたのが、この本を手に取った一番の動機だ。

 著者は、詩人の娘であるうえに中央公論社の文芸担当編集者であったから、父親の人生をたどりながら作品も漏れなく渉猟したのであろう。たくさんの詩が引用されていて、いままた詩の世界に浸ってみたいという私の望みは満たされた。そのうえ父の作品を読み込んだ娘の簡潔で的確な感想が添えてあり、それはなるほどと思わせるものが多く、自分の思いと対照してみるのはおもしろかった。詩人の父を持った娘は、こんなふうに長い時間その作品を掌に載せて、矯めつ眇めつ眺められるのだなと羨ましく思った。

 父の人生をたどるということは、家族と父との関わりをも語ることになるから、著者自身の来し方にも多くの紙幅が割かれている。著者は敗戦時に8歳だというから、戦争や疎開の記憶をはっきりと残していて、戦後の貧しさの真っただ中で学び働き始めた。そして父親のせいで生活の重荷もかなり背負わされるのだが、その生き方は困難な中を突き進むような趣があり、それも私が勢い込んでこの本を読み進めた理由の一つになっている。

 父・大木惇夫の作品についても、戦争中の軍讃美になびいた言動についても、歯に衣着せず切り込む著者が、唯一切っ先を丸くしたのが、父と母の関係についてではないか。そういう感想を、読了後のいま、私は胸に抱いている。そして、それこそが家族というものを雄弁に語っているようにも感じている。

 大木惇夫は、思えば不思議な人生をたどっている。16歳で出会った2歳年長の恋人が、親に言われるままに他の男に嫁ぎ、6年後に結核を病んだ身で戻ってくると、その2年後に彼女の離婚成立を待って結婚した。大木惇夫、24歳である。この病妻との結婚生活は、彼女の死で幕を閉じるが、そのとき大木惇夫は37歳だ。

 ところが大木惇夫は死が間近にせまりつつある妻がサナトリウムに入ったころ、10歳年下の著者らの母親となる女性と暮らし始める。このとき大木惇夫は33歳、35歳で長男が、36歳で次男(幼時に死去)が生まれている。37歳で病妻が死去し、39歳で長女が生まれ、40歳で彼らの母親と入籍した。41歳で著者である次女、46歳で三女が生まれている。ちなみに次女が生まれた翌年には日中戦争がはじまり、三女が生まれた年には太平洋戦争がはじまった。

 とはいえ日本が戦争に突入したこのころが、著者にとっては幸せな家庭生活で、目白の庭のある家で楽しい子ども時代を過ごしたという。ところが父親には親しい女性ができて家を空けることが多くなり、三女を妊娠中の母親が出がけの父親を面罵したり、怪しげな女性が鍵穴から家の中をうかがうのを兄がつかまえそうになったり、とのエピソードもはさまれている。この怪しい女性を子どもたちは「カギ」と呼んでいたそうだが、大木惇夫は戦中の疎開時も子どもを抱えて苦労していた妻とではなく「カギ」と過ごし、結局は長い年月を「カギ」と共に過ごしてその元で死んだ。82歳であった。

 あの美しい抒情詩の作者の実人生を生々しい筆致で知らされるというのも、私がさらに興味を募らせて読み進んだ理由であろう。その意味では有名人のスキャンダルに飛びつくミーハー族の心情とも通じるところがあるわけだ。にしても、大木惇夫のいわば女性遍歴や家族との軋轢の軌跡と、そのなかから生み出されていった詩や訳詩の仕事を丹念に重ね合わせて示されると、こんな思いがわく。詩人にとって、家族は、いやもっとはっきり言えば子どもは、本質的に邪魔だったのではないか。

 著者は父方の祖母の死にまつわって、祖母が情の薄い人であったことが、父にあのような人生を歩ませたのではないか、というようなことを書いている。つまり一人の女性と安定した関係を築いて家庭に落ち着くことができなかったのは、あのような母親に育てられたせいではないか、というわけだ。父にまつわるこれだけの資料を集めて読み込みながら、そんなふうにオチをつけるのはもったいない、というのが私の率直な感想だ。著者の「カギ」に対する憎しみは理解できるにしても、「カギ」のことがもう少し客観的に書かれ、大木惇夫がなぜそちらで暮らすことを選んだかを推測できる何かがつかめたら、大木惇夫のとくに晩年の仕事の意味がより鮮明に浮かび上がったのではないか。それは新たな家族観をも示唆したかもしれない。大木敦夫にとっては、詩を生み出せる場こそが大事だったのだろうから。

 人は、残念ながら一通りの人生しか生きることができない。しかしぐちゃぐちゃの惨めな現実生活の中から、美しい抒情詩を生み出していた詩人大木敦夫は、人生はどこまでもこの面倒な現実が続いていくと知りながら、気を惹かれる曲がり角をふと曲がってしまい、そうすると案外そこに執着してしまう人だったようだ。