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天皇と天皇制

2016年8月8日午後3時、「天皇のお言葉」がビデオメッセージという形でテレビ放映されることになっていた。71年前の8月15日に、同じように天皇がラジオを通じて何かを述べるからとのことで集められたそうだ。今回の「お言葉」なるものも、誰がどのような筋道で放映することに決めたのかなどが曖昧なまま、テレビを見るよう促そうとしている。それが不愉快だったから、「お言葉」に合わせてテレビのスイッチを入れること自体に抵抗があった。全国民を有無を言わせず集めて物申すなどという、強大な権威を認めたくない。ほぼすべてのメディアを使い、それにより醸し出される雰囲気を通じて、一斉に同じ行動をとらせようとする力が嫌いだ。

 

けれどやはりスイッチを入れた。その内容をあとから聞く、というのでなく、この蒸し暑い日の日盛りに、日常を断ち切られる形で聞いてみたいと思ったのだ。私は信州住まいだから冷房など使わずとも充分に涼しい居間のソファにねころび、近頃熱中しているフィリップ・ロスを読んでいた。だがちょうど手洗いに立って時計を見ると3時だったので、スイッチを入れた。つれあいのヒデさんは、夕方飲むビールを切らしているのに気づき、日盛りにもめげずにスーパーに行こうとしていたのだが、履きかけていた靴を脱いで居間に戻り、テレビの前の椅子に座った。

 

お言葉は全部で11分だった。天皇は82歳だそうだ。数年前に2度の外科手術をして、身体の衰えを感じるようになった。そのために象徴としての務めを充分に果たせなくなるのではと懸念している。象徴たる天皇の死によって社会が停滞するのを防ぐためにも、安定的に国家の象徴・国民統合の象徴としての役割を果たしていくためにも、自分の役割を後に続くものに引き継ぎたい。以上が話の主たる内容だったと思う。このところニュースで取り上げられているように、自分が生きているうちに天皇の位を皇太子に譲りたいというのが天皇の意向のようだ。

 

象徴としての務め、という言葉が数回にわたって出てきた。そのたびに私は戸惑いを感じた。そう言われてみて、今まで考えたことがないことに気づいたからだ。私も国民の一人である日本という国の象徴、ということは私も含めたひとかたまりの集団の象徴ということか。私も含めた大勢の人々が、あの天皇に象徴されているなんて、何だか気持ち悪い。

 

天皇にとっては、全国津々浦々をめぐり、人々の傍らに寄り添うこと、災害地をめぐって人々を励ますこと、太平洋戦争の戦跡で慰霊をすることなどが重要な、象徴としての務めであったらしい。そういう場所での人々とのふれあいのようすを、テレビなどはこれでもかというほど映し出す。だが私は子供の時に、皇族の避暑地である町を偶然ただ歩いていただけなのに手荒く人払いされて転んだ経験がある。皇族の誰かがそこを通る予定でもあったらしい。だから天皇皇后がたくさんのお付きを従えて人々の中へ入って行く、というような映像を見るのは不愉快だ。転んだ時の膝と肘の痛みがよみがえるような気がする。

 

自分の意志とは無関係に天皇になってしまった人が、象徴天皇という自分の務めは何かと真剣に考えて、それを地道にやってきたというなら、それはそれで評価すべきなのかもしれない。だが私は、天皇制はやはり廃止したい。

 

被災地で苦境にいる人たちが、天皇の来訪を有り難がる、というあの心情が私は嫌いだ。無条件で有り難がる対象がいるという心情は、無条件で蔑む対象をも容易に作り出すと思うからだ。皇室に伝わる男尊女卑の伝統も、その形式及び雰囲気をこれ以上ふりまかないでほしい。

 

お言葉の放送があった夜に、NHKスペシャル天皇がいかに象徴天皇としての役割を模索し、その務めに熱心に取り組んできたか、という内容の番組があった。皇居を散歩する天皇皇后は東京のど真ん中にいながらまるで深山を歩いているかのようだ。皇居内を天皇が車を運転して、同じく皇居内にあるテニスコートにでかける、というのにも驚愕した。歩いては行かれない距離にあるというのか。東京のど真ん中のあの広い場所を、たったひと家族が占有しているわけだ。

 

生まれながらに特権を付与される人はなくした方がいい。そういう制度は必ず生まれながらに蔑まれる人を生み出すと思うからだ。皇族という、若い時から無為徒食で過ごす人もなくなってほしい。天皇は個人的には日本のほぼ全国をめぐり、それぞれの地に一生懸命生きる人に触れたと、ほんとうに思っているのかもしれない。けれども同じ旅でも、人々に触れる旅などというのをそう簡単にできるものではないということは、私など旅好きは百も承知なのだ。あんなに人々とかけ離れた生活をし、人々とかけ離れた贅沢な旅をして、人々と触れ合ったなどと言ってほしくない気がする。

 

天皇個人から離れて、天皇制は廃止に向かってほしい。