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ある終焉 看取ることの辛さ

この暑さのなか、長野市まで映画を見に行った。ゆっくり走るローカル列車で1時間ほどだが、長野市はここより気温が4、5度は高い。なにもこんなときに、と思わなくもないが、映画ばかりは見たい時に見ないと、、、とやはり出かけた。

 

「ある終焉」(ミシェル・フランコ監督)だ。終末期を迎えた重病患者ばかりの介護をしている男の看護師の話である。近頃では介護の話が身辺でも頻繁に出る。介護する側とされる側との関係とはいかなるものか。などときれいごとではなく、自分が誰かに身辺の世話をしてもらわなければならなくなったとき、自分は絶対的に弱者になってしまうのかという切実な疑問が私のなかにはある。

 

さて映画のなかの男性看護師デヴィッドは、患者が女性であれ男性であれ、裸にして椅子に掛けさせてシャワーで洗い、ベッドに運んで寝間着を着せ、快適なように身辺を整える。患者の方も意識はもうろうとしているとはいえ、相手が看護師だからこそ、彼の前で素裸になり抱きかかえられるままになっているのだろう。

 

デヴィッドは淡々とプロフェッショナルに日々の仕事をこなし、合間にはジムに行ったりジョギングをする日々だ。彼には離婚した妻と、その時に分かれた娘がいて、さらに息子の死をめぐって安楽死させたことを疑われた過去があることが、次第に分かっていく。それにしてもデヴィッドの終末期患者である顧客への対応は、沈着、丁寧、まるで機械のようだ。

 

その仕事ぶりはいったいどこから来るのか、が私の最大の疑問だった。彼は徹底した仕事ぶりの機械のような人間なのか。事実成り行き上介護することになった女性患者から安楽死幇助を依頼されると、デヴィッドは冷静な面持ちのまま着実に彼女を安楽死させたりもする。デヴィッドには、感情はないのか。いや男性患者の家族から患者に対するセクハラを訴えられ契約を解除されると、デヴィッドは禁じられていたにもかかわらず患者宅を再訪して別れの挨拶をしたいと懇願したりする。

 

日々終末期の患者に向き合い、その死とともに患者との関係は終わる。するとまた別の終末期患者の世話をする仕事が待っている。なんという生活だろう。だがもう一方で私がいぶかしく思ったのは、患者の家族の態度だ。物語の舞台は明示されないもののアメリカの中小規模の町と思われる。こぎれいな住居で死にゆく家族を抱えつつもふだんのこぎれいな生活を手放さない人々。死にゆく人の身の回りの世話をデヴィッドに任せた家族は、汚いものには一切触れずにすむ。娘たちが母の下の世話もなにもデヴィッドに任せ、自分たちは明るいリビングで楽し気にお茶を飲んでいたりする。

 

デヴィッドのなかにたまっていくものは、解決不能な人の死をめぐる思いの数々ではないか。家族は死んでいく親や近しい人に寄り添って、その世話に追われて苦しんだり悲しんだりするのをやめた。世話と一緒に苦しみまでもプロに任せてしまった。この映画のなかの家族はそういうふうに見えた。

 

他人の死に寄り添って、それこそ解決不能な複雑な思いを心身にいっぱいため込んでしまったデヴィッド。それをいくらかでも解消するためなのか、あるいは世話に必要な強靭な体力を維持せんがためか、ジョギングを黙々とこなすデヴィッド。その彼にもある日、唐突な終焉が訪れた。