台湾1949年 本屋設立計画

陳舜臣は神戸で生まれ育ったが、1945年に日本が敗戦したときに、その後の人生を考えるためもあり父母の実家のある台湾にいったん戻ったという。22歳であった。彼は3年制の大阪外語印度語科を出て大学に残る望みを持っていたが、国籍が日本ではなくなってしまったため、国立大学での任官は不可能になってしまったのだという。

 

台湾でさまざま試みた彼は結局、1946年9月に開校した台北県立新荘初級中学の英語教師になった。新しく公用語となる北京語の習得に励んだが、その頃はまだ過渡期でもあり閩南語の使用も許されていた。しかも、英語の授業はなるべく英語でやるよう指示があったのは、北京語が不得意な当時の陳舜臣にとっては幸いなことであった。

 

1947年の228事件は、台北から30分ほどの距離にあった新荘では、情報が少ないせいもあってそれほどの緊迫感もなかったという。しかしその後は白色テロの恐怖が身近に迫るようになっていった。同僚の教師が共産主義活動の疑いで学校から連行され、それに抗議した校長もともに連行されたりした。陳舜臣は、3年間の英語教師生活を打ち切り、日本に戻ることに決めた。

 

台湾に別れを告げるにあたり、陳舜臣台湾大学医学部にいた何既明に会った。何既明とは彼が医学生として東京で学んでいた時代からつきあいがあった。神戸育ちの陳舜臣は、植民地統治下での台湾人差別の実情の多くを、何既明を通して知った。

 

何既明はその後医者になってからもずっと大変な読書家だった。国民党統治下で自由に本が手に入らない時期には、日本にやってきて数日ホテルにこもって読書にふけったりしたという。ところが戦後すぐの台湾への引揚船のなかで、彼は自分を上回る読書家に出会った。当時京大農学部から学徒兵として日本の部隊に入った、のちの総統、李登輝であった。

 

日本に帰るからと別れを告げる陳舜臣に向かって、何既明は台湾の民度をあげるために本屋を開きたいという夢を語った。日本の岩波書店も小さい本屋から始めたそうだから、自分は台湾の岩波を目指すのだ、と。そのときもう5人の仲間が集めてあった。医者の卵である何既明、当時台湾大学農学院の助手であった李登輝、そしてあと3人。陳舜臣も仲間に誘われたが、日本に持ち帰る予定の本の一部を寄贈しただけで、日本に帰ってきてしまった。

 

青年たちが知識を求め啓蒙運動のつもりで始めた本屋の計画も、蒋介石政権は見逃さなかった。知識青年が集まることに過度な警戒感をもっていた同政権の手で、仲間のうち2人は白色テロで逮捕銃殺され、1人は大学助教授の時に病死してしまったという。ずっとのち、陳舜臣が作家として活躍するようになったとき、何既明はこんな文章を寄せたそうだ。

 

「もしあのとき陳舜臣が本屋の仲間に加わっていたら、逃げ足の遅い彼はつかまって、今の文豪陳舜臣は誕生しなかったかもしれない」と。

 

まことに台湾人にとっては動乱の時代であったのだ。2001年陳舜臣はロサンゼルスで在留邦人400人ほどを集めた講演会で講演をした。すると新荘での新米英語教師時代の教え子に会った。新荘初級中学1期生、陳垣光であった。彼の叔父が当時同校の校長で逮捕連行される教師をかばって憲兵隊まで同行した陳炯澤であった。事件から半世紀以上たったこのとき、校長はそのために半年も拘留されたことを知った。

 

教え子・陳垣光の人生もまた動乱の時代を反映したものだった。彼は日本教育を6年受けた後、いきなり中国教育に切り替えねばならなかった。彼はその後台北の高級中学、台湾大学電気科をへて台湾電力で数年働いた。その後渡米してボーイング社に勤め英語常用の生活を何十年も送った。そして70歳を過ぎた彼は、子供時代の日本語を忘れないよう在米日本人と交流を始めたところであったという。

 

以上の話は、陳舜臣著『道半ば』に書かれていたことだ。日本の植民地統治を受けて、いやがうえにも複雑な紆余曲折をせまられた台湾人の人生に、私は頭をたれて耳を傾けるしかない。