この日本に生きるということ

1975年、昭和天皇は日本記者クラブとの会見で、次のようなことを語ったという。

戦争責任問題について。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

広島への原爆投下についての感想。

「どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

 

愕然とさせられる。この発言は戦争が終わってから30年後のことだ。30年間、彼は何を考えて生きてきたのだろう。だが一方で、私が感じた愕然は、身に覚えのある感情であった。同種の苛立ちを、ずっと感じながら生きてきた気がする。論理が通じない、論点をずらされる、論点がかみ合わない。もしかしたらこの日本では、この種の受け答えが割とふつうのことなのか。だって、これがそれほど問題にならなかったかに見えるではないか。

 

この出来事を記述している安丸良夫は著書「近代天皇像の形成」のなかで、この言葉の持つ意味をこんなふうに読み解こうとしている。上記の二点について尋ねられたとき、天皇は「立憲君主」としての自分の権限や努力の範囲から逸脱した、茫漠ととらえがたい次元が問われていると感じたのではないか。戦争は、天皇の職分に即した努力にもかかわらず発生したのだから、「深く悲しみとする」不幸な事件ではあったが、その全体について責任を云々されても答えようがない。君主の責任についての規定とは別の次元の「文学的方面」の問題だというのだろう。

 

同書によれば、この記者会見は1975年10月31日に行われたもので、日本人記者団との公式会見としては初めてのものだったという。天皇はアメリカ旅行から帰国したばかりで、訪米に先立ってアメリカ人記者と会見を行ったので、帰国した際に日本人記者との会見も行わざるを得なくなった。質問は前もって提出され、それに対しては天皇は一語一語言葉を選んで慎重に答えた。だが関連質問として上記の問いがでたときに、天皇は奇妙なほど無責任な答えをしてしまった。

 

つづいて安丸はこう書いている。おそらく近現代ヨーロッパの君主たちは、昭和天皇よりもずっと雄弁に自分の立場や役割について弁明や宣伝をしなければならないだろう。それは、市民社会という言説的世界に君主制も適応しなければならないからだ。最近の天皇制論議のなかで、現代ヨーロッパ君主制に学んで「開かれた皇室」に向けて努力すべきだという主張があるが、これに対して反論する人々がいる。彼らは、一般国民から隔離されることで天皇の権威が保持されるのだと強調する。つまり天皇が市民社会的言説世界にさらされることで脱神秘化することを恐れているのだ。

 

私たちがいま進めるべきは、脱神秘化だろう。そうしてこそ古臭い権威づけ価値づけから脱して、私たちらしい社会をつくることができる。なぜなら天皇制は、いまだに誰もが否定してはならない権威の中心として、目に見えない形で社会の隅々まで秩序の網の目を張り巡らしているからだ。

 

 

 

先にあげた昭和天皇の発言は、安丸良夫著「近代天皇像の形成」のなかに記されていた。