冬冬(トントン)の夏休み

台湾の侯孝賢(ホウシャオシエン)監督が、30年前につくった映画、『冬冬(トントン)の夏休み』を見る機会があった。なんでも日本であらたに上映されることになったそうで、1990年に公開されたときに私が入れた字幕を使いたいとの申し出にがあった。それで字幕をチェックするために見たのだ。

 

映画を見方は立場によって変わってくる。一観客として見るのがいちばん自由とも言える。しかし他方で、制作や上映に関わる仕事として見る方が、緊張感もあり細部や深いところにまで目が届くとも言える。だが今回はなぜだろう、この両方の立場に同時にたったかのような濃密な感情にとらわれ、我を忘れるような時間を過ごした。

 

この映画は、小学校を卒業したばかりの兄と幼い妹が、田舎の祖父母の家でひと夏を過ごすという内容だ。野面いっぱいに降り注ぐ夏の光。祠をとりかこむ天空に枝を広げる大木。川があり田畑があり線路もある田舎人の生活の場で、時を忘れて遊びほうける子供たち。

 

ホウシャオシエン監督は、不在を描くのがうまい。日々遊んで過ごす兄妹の心の底には、台北で入院中の母への思いがある。夕餉の食卓に座ることを拒否した12歳の少年トントン。彼の不在は、厳格な祖父への反発と畏敬、だらしのない若い叔父への同情めいた複雑な思いを、短いシーンで雄弁に語る。

 

子供というものは、人間の深い悲しみも、大人の理不尽な怒りも、黙って自分の中に取り込む。それは時間をかけて消化してされるものもあれば、そのままこころにわだかまるものもある。子供たちの無言があらわすこうした深い感情も、ホウシャオシエンはていねいに追う。

 

作品の舞台は苗栗だが、スクリーンに広がる風景は私のなかに、頬をなぶる熱い風の記憶を呼び覚ました。生まれ故郷・台南の風だ。その記憶に浸りつつ画面を追ううちに、子供時代に感じた数々の理不尽をも思い起こしたが、知らぬ間にそれらにさえ懐かしさを抱くようになった気がする。