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瀧澤乃ぶの女学校時代   江文也 番外篇

つい先頃、ネットで海外の新聞を読んでいるうちに「1915年のアメリカ」という新聞記事をみつけた。ざっと見ただけで驚くことばかりだった。たとえば、車のガソリンはドラッグストアで売っていた、という。そして車の制限速度は時速10マイル、つまり時速16キロだというから、ゆっくり走る自転車並みの速度だ。さらに男性の平均寿命は47歳で、現在と比べて30年以上短い。そして、電話のある家は8パーセントにすぎず、出産は95パーセントが自宅出産だった、などなどだ。

 

これを見て、ふと思った。100年前のことを考えようとしたら、現在を基準にしてはいけない、という当然と言えば当然のことだ。そして唐突に思われるかも知れないが、江文也の妻・乃ぶのことを考えた。彼女は1911年生まれだから、いまから105年前ということになる。彼女は信州の上田で育った。今風に言えば小学校6年生のときに、同じ学校同じ学年の男子クラスに転入してきた江文也に出会っている。彼は台湾から来たピンちゃんと呼ばれていた。乃ぶは当時瀧澤乃ぶであった。

 

小学校を出ると江文也はすぐ近くの旧制の上田中学に進学したが、瀧澤乃ぶは東京の雙葉女学校に進学し寮で暮らすようになった。父親は大店を構える資産家で、乃ぶにフランス語を学ぶよう望んだという。しかし父親が再婚したのを機に、乃ぶは2年で雙葉女学校をやめて上田に戻った。それからは上田高等女学校で学んだと思われる。教会の日曜学校で、2人は再会し親しさを増していった。

 

ところで当時の高等女学校のようすを、上田市立図書館の郷土資料の中から探し出してみた。こまかく見ていくと、やはり驚くことが多い。たとえばクラスは孝組、忠組となっていて、3年生からは高等小学校を卒業して編入してくる生徒がいたので、もう一クラス友組が増えた。

 

修身の授業では教育勅語を学んだ。式日には、本校舎二階中央の奉安室から講堂正面にしつらえられている祭壇に御真影天皇の肖像写真)が移される。全校生徒が紋付き姿で居並ぶ中を、白手袋の校長のうしろに桐箱を捧げ持った事務職が従い、中央の通路を壇上へと進む。桐箱に入っているのは「勅語」である。

 

講堂では学生全員が直立不動で「君が代」を二回斉唱する。そのあいだに中央の祭壇場では校長が正面の白布を両側に開いて紫の紐で止め、さらに白木の扉を開いて御真影を拝めるようにする。斉唱が終わるとちょうど準備が整い、全員で敬礼する。校長は御真影の前を少し外して生徒に対面し、桐箱から巻物を取り出して勅語を音吐朗々抑揚をつけてよどみなく読み上げる。生徒は頭をたれて息を殺して拝聴する。

 

ここまで資料をたどったとき、ふと父から聞いた思い出話が私の頭に浮かんだ。あれは、こういう場面での出来事だったのだなと合点がいった。父は上田中学で江文也の1学年上のクラスにいた。同い年だが、江文也は1年遅れて中学に入学していた。

 

ある式日の出来事だ。父は講堂に参集する前に、校内の古い建物で柱の隙間に何やら光るものをみつけた。棒で隙間をこじあけると、光っていたのはコウモリの目だと分かった。父は隙間から手を入れてコウモリを捕まえ、学生服の胸のボタンをあけて内懐に押し込んだ。学校帰りにどこかに放してやろう、というくらいの軽い気持ちであったという。

 

さて式の最中に、いつものように勅語を朗唱する校長の声が何やらおかしい。よどみなく読み進められるはずが、あちこちで途切れる。頭を垂れたまま上目遣いでようすを探ると、講堂の高い天井の下を何やら飛び回っているものがある。皆より一段高い場所にいる校長は、その飛翔物が自分の頭に衝突でもしたらかなわぬとばかりに、かすめ飛ぶ何かを頭を振って避けつつ、朗唱を続けているのであった。密やかな笑いが生徒のあいだに広がっていく。父はハタと学生服の胸を押さえた。そこにいたはずのコウモリがいなくなっていた。

 

父がコウモリを隠し持っていたことを知っている生徒は2,3人しかいなかった。式はそのまま終わり、騒ぎの犯人を知る者も知らぬ者も微苦笑ということで一見は落着した。

「あのときもし、コウモリを放したのが俺だと分かってしまったら、やはり重い罰を食らったかも知れないなあ」と父は笑いながらこの話をしたものだ。

 

笑ってすませられたのは幸運だったと言えるかも知れない。当時は学校火災で御真影が焼けてしまったりすると、校長は責任を取って辞職したり、ひどい場合には自決することさえあったという。そんなこともありコンクリート造りで菊の紋章を刻んだ奉安殿が建てられて、そこに御真影が納められるようになると、生徒たちは登下校時には奉安殿に向かって敬礼するのが習わしになったという。

 

このような忠君愛国教育のうえに、女学校では良妻賢母教育に力が入れられていた。この良妻賢母教育というのはいまなお形を変えて脈々と続いているとも言え、その息苦しさは心ある女性は身に覚えがあるだろう。

そんな女学校時代を過ごしつつも瀧澤乃ぶは、親の反対を押し切って江文也と結婚する道を選んだ。

けれども、このころもそしていまも、台湾や中国の女性は一般的に言って、日本の女性と比べれば自主独立の気概においては一歩先んじているように思われる。

それはなぜなのだろうか。