北京と東京 二つの家族    江文也その7


1938年、江文也、妻の乃ぶ、3歳の長女・純子は一家で北京で暮らしはじめた。
北京は江文也にとっては、よき仕事場であったようだ。北京師範大学教授の職があることで、経済的な安定が得られた。それになにより興味の尽きない伝統音楽の研究の場でもあった。彼はこの時期、中国の風物に題材をとった小品や、交響曲などをさかんに作曲していた。そして表にはなかなか出てこないが、たぶん軍とも緊密な関係を結んでいたのではないか。そしてまた彼は、北京語習得にも地道な努力を払っていたはずだ。

 

戦時下の北京だけでなく、上海や満州各地で暮らしていた日本人たちは、多くが現地の言葉などほとんど知らずに日本人コミュニティーで日本語で暮らしていた。江乃ぶも、たぶんそうだったのだろう。しかし江文也は、そうはいかない。北京師範大学の職を得られたのは、日本人にはない力を求められてのことだ。それは語学力でもあったし、中国文化への親和性でもあっただろう。江文也はそれまで会得していた台湾語客家語にくわえて、研究のためにも生活のためにも日々北京語を磨いたことだろう。

 

当時中国大陸にいた台湾人は複雑な立場に置かれていた。江文也より5歳年長の台湾人で、上海の映画界で活躍していた劉吶鴎は、映画プロデューサーとして江文也ともつきあいがあったのだが、こんなふうに心情を吐露している。「ぼくは中国人から見たら、日本人臭いヘンな中国人だ。そして日本人から見たら、中国人臭い怪しい存在なのだ」
劉吶鴎は戦時下の中国で、日本軍にとって都合のよい先兵として利用されながら、一方で日本軍から厳しい監視を受けていた。江文也もこの状況は似たようなものだったのではないか。

 

江乃ぶは江文也と長女とともに北京で生活を始めたものの、ほどなく北京を去り、東京で暮らすことになった。彼女はそのあたりの事情を「北京は文也の仕事には好都合な場所であったが、子育てには何かと不便だった」と語っている。江文也は東京でも仕事があったから、よくやってきた。休みはずっと東京で過ごしたり、逆に乃ぶが北京に行ってしばらく滞在することもあった。双方が頻繁に往来していたからとくに不自由は感じなかった、と江乃ぶはのちに語っている。

 

たしかな記録は見あたらないが、江文也は北京師範大学での待遇はどうだったのだろう。当時は日本人ならば外地勤務となると、手当などの名目で6割加俸七割加俸などといわれるように、内地勤務の1.6倍とか1.7倍の報酬を得たという。台湾出身の江文也が国籍こそ日本人とはいえ、同じ扱いを受けたかどうかは定かではないが、しかしたぶんそれまでになく経済的には裕福な暮らしになったのではないか。

 

だから江文也と妻の乃ぶはたがいに頻繁に行き来して暮らし、東京と北京の生活を謳歌したように見える。二人はつぎつぎ子供にも恵まれた。1939年には、次女・庸子、1942年には三女・和子、1943年には四女・菊子が生まれている。しかし戦局は険しさを増し、乃ぶが北京を訪れたのは1942年が最後となった。

 

1943年、台湾人で日本大学芸術学部音楽科の学生だった郭芝苑は、夏休みを東京で過ごしていた江文也に会うために友人とともに洗足の江文也宅を訪問した。その記録は「江文也訪問記」として発表されているが、江文也の当時のようすがうかがえる。古書店をめぐって孔子論語に関する書籍を買いあさり、古い陶器なども惜しげなく買った。ボードレールニーチェを論じたり、ちょうど北京の梅原龍三郎画伯から天壇を描いた絢爛たる油彩画が送られてくると、それを大喜びで見せたりした。東京滞在中は、作曲した作品を発表したり依頼主に渡したりと非常に多忙だった。

 

1943年9月、夏休みを終えた江文也はいつものように洗足池のほとりで「じゃあね」と言って北京に戻っていった。それが東京に残された家族にとっては、文也の最後の姿となった。けれども、こんなふうに東京の家族と過ごしていた江文也は、北京にもこのときすでにべつの家庭があった。もともとは教え子だった呉韻真という女性とのあいだに、1941年に長男・江小文、44年に次男・江小也が生まれている。

 

妻の乃ぶは、北京と東京を行き来して三女四女が生まれていたこの時期に、北京の江文也宅に滞在しても、呉韻真の存在をまったく知らなかったという。しかし江文也にしてみれば、妻に対して一抹の後ろめたさはあったかも知れないが、こういう時期こそ張り切って仕事もバリバリとこなしたのではないか。乃ぶの世代だと、家族観や男性観もたぶんいまとはだいぶ違うと思うが、一世代下の私には張り切っていたであろう江文也の姿が創造できる。

 

江文也は作曲に、中国の伝統音楽の研究にと忙しい日々であっただろうが、この時期にまたべつの仕事が増えていた。日本軍の侵攻と歩調を合わせるようにして、日本では中国を舞台にした戦意高揚映画がさかんに作られるようになっていた。江文也は活躍中の作曲家であるばかりでなく、中国に滞在し中国をよく知っているのだから、制作者には好都合だったことだろう。実際に江文也は『東洋平和の道』(1938年)の作曲を依頼されたときに出演した女優・白光の歌唱指導までして、東京のスタジオでの吹き込みにまでつきあったりしている。江文也のような性格なら、制作スタッフや出演者らと時には丁々発止のやりとりをしながら作品を仕上げるのは、面白い仕事であっただろう。

 

しかし日本の戦意高揚映画に関わることは、江文也には心の奥底に複雑な思いをわだかまらせることにならなかっただろうか。たとえばのちに上海に設立された日本の国策映画会社・中華電影公司の代表となった川喜多長政は、1937年に『新しき土』を、1938年に『東洋平和の道』を制作している。この2本は、中国で公開されると不評を通り越して観客の怒りを買ったとさえ言われる。

 

『新しき土』では、ドイツ人のアーノルド・ファンク監督を起用し、原節子を準主役に抜擢した。日本では原節子を一躍有名にした作品として知られている。しかし私は以前から不思議に思っていたのだが、アーノルド・ファンクはドイツでは山岳映画といって山の険しさや美しさを描く映画の監督として名をなしていた。その彼を、日本映画のしかも若い男女の苦悩と愛を描いた映画に起用した理由は何なのだろうか。出演者はすべて日本人、舞台も日本なのだからドイツ人の監督など不都合なだけではないか。すると戦後5年ほどたったときに発表された元海軍省調査課長高木惣吉の証言というのがみつかった。それによれば、この作品のためにわざわざドイツ人監督を招いたのは、11月25日に締結された日独防共協定の交渉のために両国関係者が往来するのをカモフラージュするためだったという。

 

中国人から見れば、『新しき土』に、ナチスの台頭するドイツから監督を招いたこと事態が、川喜多に対してナチス寄りの思想の持ち主かと疑念を抱かせるものだった。もうひとつ問題だったのは物語の内容だった。主人公の若い日本人夫婦が幾多の困難を乗り越えて出直す決心をし、新生活をスタートさせようとした「新しき土」なる場所は満州を指していた。そのためこの作品が日本の満州侵略を正当化していると受け取られたのだ。

 

さて江文也が音楽を依頼された『東洋平和の道』は、日本では日中親善映画とうたわれていた。鈴木重吉監督との共同脚本に張迷生をあて、出演者も先に述べた白光を含め多数の中国人俳優を起用している。この作品は盧溝橋事件が起きるやいなや制作が開始された。事件の4ヶ月後の11月には山西省北部大同の石仏群を撮影、翌38年1月には砲煙のなかで大同周辺の現地ロケを終えるという手際のよさだった。まるで日本軍の進軍を待ちかまえていたかのような撮影隊の動きは、川喜多長政と軍部の密着ぶりを物語っていないだろうか。これらの撮影は、日中戦争開戦によって大同炭田の経営権を満鉄が握り、日本が勢力を拡大していたからこそ可能だった。だからもちろん映画の内容は軍に迎合する色合いが濃い。戦火に追われる中国の農民に、日本軍が救いの手をさしのべるといった構図は、中国人には当然受け入れがたいものだった。北京での上映時には観客が怒りの声をあげたという。戦後この作品は川喜多かしこ夫人の手で封印されてしまったと聞く。

 

この『東洋平和の道』の音楽を担当した江文也には、川喜多長政かしこ夫妻から讃辞が寄せられた。手書きのスコアに「天才江文也へ」と記した夫妻のサインが、江乃ぶの手元に保存されているという。

 

さて、上海に日華共同出資という名目で日本の国策映画会社・中華電影公司が設立されたのは1938年6月のことだ。代表には川喜多長政が就任した。同社は川喜多の方針で、記録映画や教育映画は制作するが、劇映画は上海にある中国の映画会社が制作した作品を配給することになった。だが同社は実質的には日本の映画制作会社の出店のような存在で、各社から出向したスタッフが役員の座を占めていた。日中戦争に伴って、各社は競うようにして中国に撮影隊を派遣して売れる作品を作ろうと必死だった。軍による映画統制が強められていたが、そうでなくとも映画人たちは率先して戦意高揚映画へと傾いていった。

 

映画音楽の経験を積むうちに、江文也は北京から上海に出かけていき、映画音楽作曲の依頼にこたえたりもした。そのときの貴重な記録が、松崎啓次の『上海人文記 映画プロデューサーの手帖から』に残されている。松崎は映画プロデューサーで、東宝から中華電影公司に出向して製作部長を勤めていた。ただし松崎が記録しておきたかったのは、江文也より5歳年上の台湾人・劉吶鴎のことだ。劉吶鴎は、中華電影公司設立準備のころからの松崎の欠かせぬ相棒であり、設立後は松崎の部下として製作部次長に就任した。そしてここに記録されている松崎、劉吶鴎、江文也の談笑から2日後に、劉吶鴎は暗殺されてしまった。

 

1940年9月1日のことだ。松崎啓次は1週間の東京出張から上海に戻った。中華電影公司にいた日本人の役員らは、代表の川喜多長政も同じことだが、出向元の日本の映画会社の仕事をたくさんしていた。つまり上海での地位や地の利を生かして出向元の便宜を図るのが日常業務だった。その意味では中華電影公司の設立趣旨にうたわれた、大東亜共栄圏の大言壮語も、支那に素晴らしい映画文化を築くなどの美辞麗句もそらぞらしく聞こえるほどだ。ともかく松崎は1週間東京で忙しくかけずり回り、この日の朝上海に向けて東京を発った。まず福岡に着き、郊外の鷹ノ巣飛行場から上海行きの飛行機に乗ることになっていた。ところが悪天候のため飛行機はなかなか飛び立たず、結局は激しい風雨をついて上海に着いたのは予定よりだいぶ遅れていた。

 

上海の空港から車を飛ばして家に帰り着くと、松崎はさっそく劉吶鴎に電話をして家に呼び寄せた。不在のあいだの進捗状況を話し合っておく必要があったのだ。松崎の留守宅には江文也が泊まり込んで仕事をしていた。『大地的女児』という映画につける音楽を作曲する仕事で、プロデューサーの劉吶鴎から依頼されたものだった。この作品はパール・バックの原作『母』を映画化したものだが、なかなか曰く付きの作品でもあった。というのも1年ほど前に、日本軍が上海の映画会社を抱き込むために制作資金を投入したことがあるのだが、これはその制作資金を与えられたなかの1本だったのだ。当時は光明影業公司が制作する予定だったが、紆余曲折を経て劉吶鴎が制作を引き継いでいたと見られる。

 

まもなく劉吶鴎は車でやってきた。松崎の不在のあいだの出来事を、二人は互いに弾丸のような速さで語り合った。二人は大柄ながっしりした体躯と、並はずれたエネルギッシュさがよく似ていたという。二人のやりとりをはたで聞いていた江文也は、
「君たちの話は詩か暗号のようで、ボクには全然分からない」と笑って言ったという。
劉吶鴎は、いつものように中華電影公司が映画を制作しないことについて不満を述べ立てた。松崎のように日本軍を後ろ盾にして上海で働いている日本人は、劉吶鴎から見たら歯がゆかったことだろう。劉吶鴎は、日本国籍をもたされ、けれど日本人からは差別されていた。差別される原因の中国人の血が、日本軍から見れば重宝でもあり危険でもあった。となれば重宝さと危険とを秤にかけつつ、自分のやりたいことに突き進むしかない。劉吶鴎は独力で中国人と渡り合いながら、上海の映画界で仕事をしてきた。松崎を助けつつ危険を冒して中華電影設立準備をすすめたのも、よりよい映画制作の場を得たいがためであった。ところが中華電影公司は設立されるや、劇映画は作らないとの方針を決めた。

 

上海の目抜き通りにあるレストラン京華酒家で、劉吶鴎が凶弾に倒れたのはこの2日後だった。日本から映画撮影のためにやってきたスタッフと、その支援をする中華電影公司の面々とが昼食をとりながら綿密な打ち合わせをした。中心になったのは中国語と日本語を使いこなし、映画制作経験も豊富な劉吶鴎であった。打ち合わせを終えて席を立ち、皆より一歩早く二階から一階への階段を下りていった劉は、一階の客席で待ち伏せていたとおぼしき男に銃殺された。当時の上海の新聞は、劉吶鴎を中華電影の代表だと誤報しているものもある。中国人から見れば、中華電影公司は日本軍の威力を笠に着たうさんくさい存在であったことだろう。しかし劉吶鴎は、同社の製作部次長以外にも、危険な役職を引き受けていた。

 

穆時英という作家が、この2ヶ月あまり前の6月28日にやはり上海の雑踏のなかで殺されている。勤務先の「国民新聞社」からの帰途、銃弾に倒れたのだ。彼は作家として日本にも数回来ているし、中華電影公司の仕事もしていた。しかし40年3月に汪精衛政権が発足するとその宣伝紙「国民新聞」の社長に就任した。穆が暗殺されたのち、この社長を引き継いだのが劉吶鴎であった。まるで危険な罠に自ら飛び込んだようなものだが、劉吶鴎は彼なりに仕事の場や後輩の育成の場を欲してのことだったようだ。

 

この劉吶鴎の訃報を、江文也はどのように聞いただろうか。彼はまだ上海にいたのかも知れない。劉吶鴎を監視した日本軍の記録が外務省外交資料館に残されている。中国にいた台湾人には、日本軍の厳しい監視がついてまわっていた。台湾人の立場を有利に使うこともできなくはなかったが、それは一歩間違えば命と引き替えるような危険と背中合わせでもあった。台湾人は日本の都合によって、あるときは日本人として、またあるときは台湾人として、さらにあるときは中国人としてあつかわれた。

 

その理不尽さは、彼らのすぐ近くにいたとしても日本人にはなかなか感じ取れないものだった。殺された劉吶鴎への追悼の言葉も、川喜多長政をはじめ多くの日本人が「中国人」の有能な映画人の死を悼むとの言葉を寄せている。江文也は、二日前に食事をし談笑した劉吶鴎が白昼の繁華街で射殺されたと聞いたとき、一瞬なりとも身に迫る危険に思いを馳せたのではないだろうか。

 

江文也の二つの家庭に思いをめぐらすとき、どうしてもそこを考えずにはいられない。北京の妻・呉韻真は、日本軍の占領下にいた中国人として、江文也の立場をまだしも理解できたのではないか。一方で東京にいた妻・乃ぶはどうだっただろう。当時日本人は中国でとかく我が物顔の振る舞いをしたという。江文也と同時期に活躍をはじめて有能さを発揮した日本人作曲家・伊福部昭は、同時期に北京を訪ねたときの感想をもらしている。それは、日本人がとてもよい暮らしをし、優越的な立場に立っているのを見て驚愕したというものだ。江乃ぶは、江文也の身辺にいてともに北京で暮らしても、あるいは東京で生活をともにしても、台湾人である江文也の心の奥底の懊悩や葛藤に思いを馳せることはあまりなかったのではないだろうか。