江文也 瀧澤乃ぶとの結婚   江文也その5


 13歳の江文也は、兄と二人ではるばる廈門から上田にやってきた。上田駅に到着したのは1923年9月7日のことだ。その翌日、寄宿先の山崎あき宅あたりを散歩したようすを、江文也は日記に書き残している。山崎宅の位置は特定できないが、その後の生活から推し量ると、町中からさほど遠くはないようだ。けれど自然も豊かで、街育ちの江文也は山国信州の美しさと静けさに感動した。日記の原文は中国語だが、次のようなことが書かれている。


  ・・・風はさわやかで谷の水はさらさらと流れ、遠くは松、杉であろうか、近くには稲の波が広がっていて、その取り合わせは言いようもない。その中を気持ちよく歩いていくと家があった。兄が周りを歩いてみようと言いだして外回りを歩いてみたら、谷の水を引いて池に注ぎ入れている。あたりはなんの音もなく、ほんとうに静かだ。虫の声がしきりに聞こえ、それが山の姿とあいまって、しっとりとした風情だ。水の流れがたえず、僕たちはとても感激して、8時半までその印象を語り合い、就寝時間を忘れるほどだった。


 信州ではお盆ごろにはもう秋風が吹き、8月20日前後には2学期が始まる。江文也は中学1年の学齢だったが、1年遅らせて上田尋常小学校6年に編入した。同校の女子組には、のちに江文也と結婚した瀧澤乃ぶがいた。彼女はある日同級生と一緒に「台湾から来たピンちゃん」を見に行ったという。ピンちゃんというのは文也の本名・文彬(ウェンピン)からきた愛称だ。ピンちゃんは皆と同じように裾の短い筒袖の和服を着て、小柄で大人しい少年だった。だが歌や楽器がうまく、学校のピアノを弾くことを特別許されていた。


 尋常小学校を卒業すると、江文也は上田中学に進学した。現在そこは上田高校になっているが、もとは上田藩主館の跡地とあって立派な薬医門が校門として使われている。外回りには小さい堀がめぐらされ、学生はそこにかかる小さい石橋を渡り校門をくぐる。江文也もここを通りながら、中学生になった誇らかな気分に満たされたのではないか。中学のすぐ後は城址公園で、街の中心地にありながら風光明媚な地域だ。江文也は父親から山崎あきの生活費まで含む潤沢な仕送りを受け、蓄音機やレコードを買ってクラシック音楽に親しんだ。


 一方で瀧澤乃ぶは、東京の雙葉女学校へと進んだ。乃ぶの父親・瀧澤助右衛門は17世紀初頭から続く上田宿の問屋の十二代目で、運送業倉庫業、上田銀行などを経営する資産家だ。住まいは目抜き通り原町の広壮な屋敷だった。父親は長女乃ぶに、東京の上流階級の子女と交わり、フランス語を学ぶことを望んだ。乃ぶは寄宿舎で生活したが、カトリック系の学校のせいか入浴時にはシスターも一緒に浴衣を着て浴槽に漬かるなどの生活に違和感を覚えたという。


 ところが乃ぶは、せっかく入った雙葉女学校を2年で止めて上田に戻った。それは父親が再婚がきっかけで、継母の立場からすれば娘を東京でひとり暮らしさせておくのは世間体が悪いと妻が主張し、乃ぶを呼び戻すことにしたのだという。こうして上田に帰った乃ぶは、教会の日曜学校で江文也と再会した。


 上田尋常小学校からも上田中学からも近い場所に、梅花幼稚園がある。建物は丁寧に手直しされてきたらしく、いまも往事の風情を残している。この幼稚園は上田メソジスト教会の宣教師が、教会の付属幼稚園として1902年に開園したものだ。カナダ人の女性宣教師メアリー・スカットは、1922年に上田に派遣されるとすぐに梅花幼稚園で日曜学校を開いた。青少年に聖書を教え、レコードコンサートなどを催したのだが、ここには中学生、女学生、上田蚕糸専門学校(現・信州大学繊維学部)の学生などが集った。江文也と瀧澤乃ぶもこの仲間にくわわった。


 瀧澤乃ぶは東京暮らしのあいだに、レコードをたくさん買い求めていた。日曜学校でのレコード鑑賞会には喜んでそれらを提供した。江文也が乃ぶからレコードを借りて、家へ持ち帰ることもあった。こんなふうにして二人は親しさを増していった。


 大正末期の上田といえば、車の通行などほとんどなく静かなものだった。江少年は瀧澤家の脇の天神小路を通るとき、しばしばレコードで習い覚えた曲を朗々とうたいながら歩いたという。乃ぶはその歌声を聞くたびに、あ、ピンちゃんだと思った。二人はときには瀧澤家の門口で立ち話をすることもあった。だが乃ぶの父親は、これをこころよく思っていなかった。江少年は裕福な育ちではあっても、台湾人だ。


 瀧澤乃ぶは、85歳のときに若いころを振り返ってこんなふうに語っている。
「私は、当時の言葉で言う『新しい女性』でした。封建的なものや、古くさい世の中が嫌いで、あのころ危険思想なんて言われた社会主義の本も読みました。平塚らいてうのような、進んだ女性思想家に共感することも多かったのです」
 こういった時代の雰囲気も想像がつく。私の母は乃ぶより2歳年下だが、女学校時代に出会ったエスペラントの世界平和の理想に感銘を受け、子育てを終えて再び始めた世界各地のエスペランチストとの交流を生涯の楽しみとしていた。


 瀧澤乃ぶはたしかに、当時の女性としては勇気ある決断をした。土地の名家である瀧澤家を継ぐべく、父親は長女乃ぶの婿養子を決めていた。だが乃ぶは3年も縁組みを拒み続け、東京の持ち家や親戚に出かけては、江文也とのつきあいをつづけていた。江文也は乃ぶをパンジーと呼び、自分はスマートなスイートピーだと言っていたそうで、ロマンチックな少年少女のような交際だったようだ。


 江文也は、中学を卒業するころに父親の事業が不振になり、宣教師のスカットからの過分とも思える経済的な援助によって武蔵高等工業学校にかよった。そのかたわら彼は東京音楽学校お茶の水分校(夜間部)にかよい、山田耕筰にも師事した。このころの日記には、日々ストイックに声楽の練習に打ち込むようすが記されている。五反田駅のプラットホームで電車を待つあいださえ歌をうたっていた江文也は、その練習ぶりを見て誘われた合唱団リーダーターフェルに入り、バリトンの独唱者となった。


 武蔵高等工業学校卒業を目前にして、江文也は寄宿していた合唱団の主宰者の家を出ることになった。そこで彼は、瀧澤乃ぶも気に入っていた洗足池あたりで家を探し、上田から山崎あきを呼び寄せた。江文也の上京後は崎あきは親戚に身を寄せていたので、江文也の誘いに喜んで応じた。以後、彼女は得意の針仕事をしながら家事をこなし、のちに江文也がいなくなったあとも乃ぶを支えて身内のようにともに暮らした。1932(昭和7)年、江文也は工業学校を卒業し、相前後して日本コロムビアと専属歌手の契約を交わした。


 瀧澤家では、父が決めた婿との結婚をどうしても承諾しない乃ぶに、父は苛立ちを強めていた。父が江文也との結婚に父が反対する理由は、やはり彼が台湾人だからという点だった。乃ぶはそんな父に、反抗というより情けなさをおぼえたという。それで江文也と生活を共にすべく、小さい荷物ひとつで家を出た。


 1933(昭和8)年、江文也と瀧澤乃ぶは結婚して洗足池近くの家で暮らしはじめた。若い二人には山崎あきは大きな助けになった。翌年には上田にいる乃ぶの父も渋々結婚を認め、瀧澤家の跡継ぎは次女にすると決めた。江文也は日本コロムビアの歌手として順調に活動を続け、音楽コンクール声楽の部でも入賞するようになった。さらに東京音楽学校選科作曲科に入学して作曲を学び始めた。1934(昭和9)年には音楽コンクール作曲の部でも2位入賞を果たした。「南の島に拠る交響的スケッチ」だ。さらに彼はオペラの舞台にも立つようになる。藤原義江歌劇団プッチーニ作「ラ・ボエーム」で藤原義江と共演した。


 華々しく音楽の道に邁進していく江文也を支えて、乃ぶは家計のやりくりに追われた。その苦しさは頭の中から消せるものなら消したいほどだ、と乃ぶは80歳を過ぎてなお語っていたという。だが一方で江文也の活動はどんどん広がった。「郷土訪問音楽団」の一員として故郷・台湾へ演奏旅行にでかけ、ロシア生まれのピアニストにして作曲家のアレクサンドル・チェレプニンとも親しくなっていった。彼に勧められて江文也は北京を訪れた。1936(昭和11)年のことだ。父祖の地の文化に触れた江文也は体中を突き抜かれるような強い感動をおぼえた。同じ年、ベルリン・オリンピックに伴って開催された芸術競技大会に、江文也は『台湾の舞曲』を出品し、第4位ながら日本人でただ一人入賞を果たした。日中戦争開戦の前年のことである。


 1935(昭和10)年、江家では長女が誕生した。日中戦争開戦翌年の1938(昭和13)年、江文也は北京師範大学音楽系教授となり、家族で北京に移り住んだ。けれど乃ぶは育児のためにまもなく東京に戻って北京とのあいだを行き来するようになり、翌年には次女が誕生した。江文也も仕事などで東京にしばしば戻っていた。1942(昭和17)年には三女、1943(昭和18)年には四女が生まれている。だが戦況が厳しくなるにつれて往来は困難になった。江文也は1943(昭和18)年9月に洗足池のほとりで、いつものように乃ぶに気軽に手を振って北京へと去った。それが乃ぶが見た夫の最後の姿となった。


 1945(昭和20)年、日本の敗戦を北京で知った江文也は、そのまま北京にとどまることを選んだ。思えば、短い結婚生活だった。東京の洗足池のそばで5年をともに暮らし、その後は北京と東京を互いに行き来して5年。この年月は、江文也にとって、乃ぶにとって、どんな意味をもっていたのだろうか。