江文也、太郎山に登る              江文也ーその1 

 

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 昨年の秋のはじめ、私は近所の友人と一緒に車で30分ほどの上田市にある太郎山に登った。彼女が本格的な登山の経験があると聞いて、太郎山に行こうと誘ったのは私だ。市民に愛されるこの小さい山には、もう半世紀も前、上田の高校にかよっていたころ級友と登ったことがある。だが近年になってまた、私は心の内でそのうち太郎山に登ってみたいと思うようになっていた。


 というのも、江文也(こう・ぶんや)という人が、13歳の時の日記に、太郎山に登ったと書いているのを知ったからだ。日記は1923年に書かれたものだ。
 江文也というのは、最近でこそ日本でもいくらか知られてきたようだが、戦前から戦中にかけて日本で活躍した台湾人の音楽家だ。声楽家としてデビューし、のちには作曲家としても成功を手にした。その後、戦況がけわしさを増すなか、日本軍に制圧された北京で北京師範大学の教授になった。1945年、彼は日本の敗戦を北京で知ったわけだが、そのままそこにとどまり波乱の生涯を終えた。


 私は台湾映画を日本に紹介する一方で、台湾の近現代史にかかわるノンフィクションを何冊か書いてきたが、なかでも日本の植民地統治によって日本と台湾と中国のはざまで生きざるを得なかった台湾人に関心を抱いてきた。彼らは国籍は日本で、しかし血統的にも文化的にも当時日本の敵国であった中国により親近感をおぼえるという矛盾を抱きつつ、中国人と交わって活躍し、あるいは苦悩し、あるいは命さえ落としたりした。
 だが江文也の場合は、それとはまた違った意味で興味をおぼえずにはいられない。それは彼が、私の父と同い年の1910年生まれで、しかも同じ上田中学で学んだために、彼の姿を想像しやすいせいかも知れない。


 さて私たちの太郎山登山の日だ。車で上田に入り国道沿いの葬儀屋のビルを右折すると、驚いたことにすぐに太郎山登山口があった。地方都市の郊外で目につくビルといえば葬儀屋かゲームセンターだ、と自嘲する人が少なくない。それにしてもこのあたりもご多分に漏れず、人口減少が叫ばれているというのに、なぜか市街地は広がり続けているようだ。


 登山口には「熊出没注意」と大書した立て札があった。だがそれよりも驚いたのは、いざ登山口から山に踏み入ろうとしているの私の耳に飛び込んでくる、轟々たる騒音だった。なんと、太郎山の横っ腹に上信越自動車道のトンネルが貫通している。つまり登山口にはトンネル内の騒音ばかりか排気ガスまで押し寄せてきているわけだ。なんということをしてくれたのだ、と思う。けれど身辺を見回せば、こんな例は無数にある。私たちは便利さとひきかえに、静けさも清浄な空気もどんどん失っている。


 江文也が1923年、つまり大正12年に太郎山に登ったのも私たちとほぼ同じような季節、9月23日のことだった。13歳の少年だった江文也は、それを中国語で日記帳に記している。その日記をたどってみると、まだ幼顔の残っていたであろう江文也が、悲しみや寂しさに耐えていたであろうことも分かってくる。


 1910年に台湾の台北で生まれた江文也は、数年後に一家で廈門に移住した。父親は貿易商であった。ところが1923年の8月4日、母親が病死してしまった。まだ幼い3人の息子を残されて困惑したであろう父親は、文也とその兄の二人を、日本へ留学させることを決意した。ちょうど、仕事の関係で親しくしていた日本人の山崎氏が亡くなり、妻の山崎あきが故郷の上田に帰ることになっていた。彼女に二人の息子を託そうと考えたのだ。


 父親が妻を亡くしたばかりの落ち着かぬ時期に、二人の息子を遠い日本に留学させようと決めたのには、もうひとつの理由があった。当時台湾では、台湾人は中高等教育を受ける機会を著しく制限されていた。だから財力のある台湾人は、子弟を中学時代に日本に送って中学に転入させ、そのまま高等教育まで受けさせようという人が少なくなかったのだ。

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 私たちは「熊出没注意」の立て札に尻込みしつつも、太郎山に足を踏み入れた。登山道は過保護なくらいに整備されている。足を踏み外さぬよう石などが細かく配置され、しかも道標や小さい祠が道沿いに等間隔で置かれ、そこには登るにしたがい8丁、9丁、10丁と登った距離が書いてある。だから自分のいる位置が一目で分かり、頂上まであとどれくらいの距離かもすぐに分かる。せっかく山に入ったというのに、自然のなかに投げ出された感じなどはまったく味わえない。

 

 それにしてもひどい変わりようだ。高校時代に友人と連れだって歩いた道は、上田市街をぬければもう静かな山野が広がっていた。いまのように登山靴や登山着などはなかったから、普段着のズボンやスカートにズック靴という出で立ちだった。そういえば太郎山に入ってから、小砂利におおわれた山肌が滑って危ないからと四つ這いで登っていた同級生が、松茸をみつけてうれしそうに鼻先にかざして歩いていた。


 いまは私たちの脇を、本格的な装備をした登山者が、まるでタイムを競うかのように先を急いですり抜けていく。太郎山は小規模な山の割りには傾斜がきついので、登山のトレーニングには格好の場所なのだそうだ。中腹に達するころだろうか、やっと高速道路の騒音は遠のいて、あたりは静寂につつまれた。


 江文也は、1923年の日記帳の冒頭「年間重要事項」の欄に、中国語で次のように記している。日記帳は廈門で買い求めたものだろう、年号は民国12年と印刷されている。日本では大正12年だ。
  母親於六月二十二日(新暦八月四日)病故(上午六点二十分)
  七月十五日(新八月廿六日)離廈留学日本
  八月十三日(新九月二十三日)登太郎山 喘甚足手受荊刺傷
  十一月廿日 謂恵比寿講之日放暇三日朝下雨 熱閙
 この年が江文也にとって、どのような年だったかが一目瞭然だ。母の死、廈門を離れて日本に留学と大きな出来事がつづいた。それに継いで太郎山登山、恵比寿講のにぎわい、が挙げられているのが、やはり少年らしい。

 

 1923年8月4日午前6時20分、江文也の母は病気で亡くなった。その3週間後の8月26日、彼は廈門で貿易を営む父の元を離れ、兄と一緒に上田に向けて旅立った。船は台湾の基隆をへて門司に着いた。汽車でまず名古屋に向かい、中央線信越線を乗り継いで上田を目指す。

 

 旅の途中の9月1日、日本は関東大震災に見舞われたため、江兄弟は上田に近づくにつれて、地震後の混乱を目にすることになった。東京方面からの避難民が車輌内はもちろんのこと、貨車や客車の屋根にまであふれていた。
 2人は9月7日にやっと上田駅に降り立った。廈門を出てから2週間の長旅だった。


 けれども少年たちは元気なものだ。翌8日、兄はさっそく学校へ出かけていった。編入手続きのためだ。江文也は寄宿先の山崎あきさんの実家の周辺を歩いてみて、その印象を次のように日記に書き残している。これも原文は中国語だ。

 

  ・・・風はさわやかで谷の水はさらさらと流れ、遠くは松、杉であろうか。近くには稲の波が広がっていて、その取り合わせは言いようもない。その中を気持ちよく歩いていくと家があった。兄が周りを歩いてみようと言いだして外回りを歩いてみたら、谷の水を引いて池に注ぎ入れている。あたりはなんの音もなく、ほんとうに静かだ。虫の声がしきりに聞こえ、それが山の姿とあいまって、まことに似つかわしい。水の流れがたえず、僕たちはあんまり感激して、8時半までその印象を語り合い、就寝時間を忘れるほどだった。

 

 江文也は廈門ではにぎやかな街中に暮らしていたのだが、山国信州の美しさと静けさに素直な感動をおぼえたようだ。なんということない太郎山での山遊びも印象深かったようだ。当時の太郎山は、いまのように人手が入っていず、荒々しく美しかったことだろう。「息切れがし、荊で手足が傷ついた」と江文也は書いている。